8月の終わりの「八朔祭」の頃に落ちアユの知らせが届いた

9月になった。旧暦の8月1日は「八朔」だ。この日、日頃からお世話になった人たちに挨拶回りをするのである。里の農家では初穂を持って回り、花街の芸妓、舞妓たちはお茶屋さんを一軒一軒回る。花街では新暦で行われ、8月の暑い最中だが姐さんたちは礼儀正しくお茶屋さんを訪ね歩く。里はひと月ほど遅れ旧暦でやる。9月1日に近い日取りに農家の人びとがお礼参りをするのだ。
拙宅からほど近い大原の里の風習は独特で、氏神さまの江文神社で道念踊りをして五穀豊穣を祈願する。今年は春先から大原の山や里の人びとにお世話になった。お礼参りのつもりで大原の「八朔祭」を訪ねてみると、日が落ちてからも遠雷が鳴り、ときおり雷雨が襲ってきた。不吉な晩。だが、というか気候変動だからこそか、大原の衆は濡れながらも祭りを執り行った。
「そろそろやで」と、1枚の写真とともに北山の奥の若い友人から知らせが届いたのは、八朔が間近に迫った頃だった。落ちアユである。彼は茅葺きの古民家で料理屋をしている。「ゆるり」という店名は、美山町の言葉で「囲炉裏」のことだ。そこで毎年アユを焼いている。京都は、若狭湾からサバが届けられ、瀬戸内海からハモが運ばれてきたが、古くから魚食文化の底流には川魚が泳いできた。とりわけアユである。川魚離れが進んだというが、市中に川魚を専門にする魚屋がまだまだ健在で、アユはスーパーにも並ぶ。

友釣りが解禁になるのは6月中旬ら8月いっぱいまでだ。「そろそろ」とは友釣りが終わり、網漁が始まるとを伝えてきたのである。市中の料亭では、三口で食べられる小ぶりのアユが珍重される。そのため旬は初夏だ。山里は大きなサイズを喜ぶ。だから、網漁が解禁となる秋の始まりが迫ると血が騒ぐのだ。「こんなんがおるのやで」と、若い友人は二の腕を差し出したことがある。彼の漁場は由良川だ。北山といわれる丹波高地の奥に端を発して西へ流れ、福知山で大きく屈曲して北の日本海へ注ぐ京都府屈指の大河だ。近年でも天然アユの遡上が順調である。
ただ、若い友人が住む美山町の手前に4つのダムがあって、遡上は食い止められていまっている。したがって美山町のアユは美山漁協によって放流されたものだが、友人は「美山のアユが日本一うまい」といって譲らない。それは多くの釣り師も認めるところで、どうやら餌の川苔の育ちがよく、瀬も随所にあってアユの運動量が上がるので、立派に育つらしい。そんな由良川のアユが古くから京に運ばれ、人びとを喜ばせたとの記録もある。かつてアユの集積地だったのは愛宕山(924m)の麓だ。

長い歴史を持つ表参道をたどって初めての愛宕詣
愛宕山に登るのは初めてだった。拙宅のある比叡山(848.3m)の麓からだと少し行きにくい。東から何度も眺めていただけだった。京都市内の東西の盟主には、古いいい伝えがある。昔、愛宕山と比叡山が背比べをした。愛宕山が少し高かったので、悔しがった比叡山がゲンコツを喰らわして愛宕山にくぼみができたというのだ。確かにくぼみはあるが、このいい伝えは京の信仰における勢力図の転換を示すと説く向きもある。愛宕大権現を祀り、霊山として開かれた由緒は断定できるものはないらしい。
長く語り継がれている由緒の筆頭は、修験道の開祖である役小角(634~701伝)、その後継者で越前の白山を開いた泰澄(682~767)というふたりの巨人が関わっての開山だ。京に都が遷る前であるが、平安遷都を経て伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開き、次第に帝の信頼を得ていく。こうした遷都を境にした信仰の中心の入れ替わりを、愛宕山と比叡山の攻防としていい伝えてきたわけである。


京都市バスを乗り継ぎ、さらに嵐山から京都バスに乗って終点が清滝だ。バスの操車場から下って清滝川に架かる赤橋を渡ると表参道となり、鳥居をくぐるとすぐに登りである。他にも登山道はあったが、王道の表参道を登っていくことにした。長きにわたり多くの人びとが登り歩いた古道だ。石畳はない。踏み固められた土の道で、登山道にあるような手作りの階段がずっと続く。頂上付近にあるお社を、京都の人びとは「愛宕さん」と呼び慣わしてきた。明治になるとき、神仏習合を認めない廃仏毀釈が行われ、お社は愛宕神社となった。全国に9000社ともいわれる愛宕神社の総本社である。
登り始めると、お寺さんや宿坊の跡を示す石積みに出くわす。廃仏毀釈というのが、どれだけ大きな出来事だったのかを物語る。かつては「五寺五千坊」といわれるほど栄えたのだが、「五寺」のうち現在まで残っているのは、東北の高尾山にある神護寺と愛宕山の中腹の月輪寺だけだ。宿坊はもうない。時代の大きなターニング・ポイントである近代化を、「神殺し」ということがある。信仰による聖域を、信仰を破ることで解き放っていったという意味だ。その果てが今のありさまかである。神の蘇りを祈るべきかとも思うことがある。


愛宕神社の神職に話を聞く機会があった。「愛宕さんには、大権現だけではなくたくさんの神さまがいはります。時代によって前に出てくる神さんが違うんですな。古くは天狗でした。それが戦国の世になると勝軍地蔵になります。そして、戦さのなくなった江戸時代に信仰を集めていったのが火伏せの神さんでした」。火伏せとは火事除けである。炊事に薪を使わなくなった今でも、「火迺要慎」と書かれた愛宕神社のお札を台所に貼る家は多い。「火の用心」とは称さず、「火すなわち慎みを要す」としている。用心、万一に備えよとはいわず、慎みというところにより染み入る知恵を感じる。
落語「愛宕山」で退屈さを乗りきり、お社で「月参り」の意味を知る

東京にも愛宕山があり、愛宕神社が建つ。今の港区に建てたのは徳川家康である。若い頃、悪友たちと階段を駆け足で登り、速さを競い合った。標高は25.7mだが、23区内で自然の山としてはいちばん高い。京都の愛宕山は標高にして40倍近い。表参道は全長約4.3kmとなり、トレランに長けていなければ走り登ることは無理だ。そればかりか、気軽な気持ちで登り始め、途中でへばってしまう人も少なくないらしい。古くは愛宕さんのお社を50丁目として、1丁目ごとに札を設けてお社までの距離を知らせた。今は遭難者が出たら救助に向かう嵯峨消防分団が札を立てている。その札には一言、ギャグが書かれている。
洒落に笑い心をくすぐられたが、歩き続けながらひとりできたことを後悔し始めた。古典落語に「愛宕山」がある。上方で演られていたのを江戸落語に仕立てられもした。いずれもいい味を出す登場人物は、ふたり幇間、つまりは太鼓持ちである。お座敷に出て口八丁手八丁に客を上機嫌にさせるのだが、3代目桂米朝は「バカをやるわけですがバカではできない」と盛り立て芸の奥深さを、さらりと客席に説いたことがある。しかし、登場する一八と茂八のふたりは、お座敷でしくじりをしてしまう。それで京都の祇園に流れ仕事をしているうち、いい旦那に巡り会い、誘われるのが愛宕山への野駆けである。野駆けとはハイキングほどの楽しみのようだ。弁当を用意して13歳ぐらいの舞妓さんも加える。オッサンたちの道連れになりながら、「チョウチョ!」なんて無邪気にやるのだから退屈することはない。
落語「愛宕山」に「しりつき」という言葉が出てくる。「尻付」と山地図で見かけることがある。これをずっと尻餅だと思っていた。急登のあまりドンッ。しかし、どうも「尻突き」の意味合いらしい。実際に前を歩く人のお尻を突くかどうかは別にして、後ろからの励ましである。歌でもいい。落語では幇間のひとりが歌う。だが、息が切れて調子がはずれ、前から突っ込みが入る。こうした突き突かれつが単調な山道にはいい。そう思いながらも、なんとか石造りの階段まで登り上がった。その先がお社だ。落語ではすったもんだの道中でサゲとなり、お社までは登らない。落語を超えた。木々の切れ間から比叡山が見えた。この山を上から見下ろすのは初めてのことだった。


米朝を聴くと、「尻付」の本場は鈴鹿山脈だという一節が入る。今の滋賀県と三重県の県境に連なる山脈だから、伊勢神宮への往来の道だったのかもしれない。古くは、「伊勢へ七回、熊野へ三回、愛宕さんへは月参り」といった。伊勢と熊野は一生のうちでの参詣回数である。石造りの階段を登りきり、お社に入ると神職がひとりいた。「登ってくるときに花売り跡がありましたよね。花っていいますのは、シキミのことです。愛宕山の西側の集落は水尾ですが、そこの女性たちがシキミを持って登ってきて、『愛宕大権現』のお札を巻いて参詣者に売ったのですね。昔の人は、『火迺要慎』のお札にシキミを添え、おくどさん(竈のことをいう京言葉)で薪を焚くときに葉を毎日1枚ずついきました。すると、ひと月ほどで葉を使いきりますので、また愛宕さんに行こうとなって、月参りということになるわけです」。

鳥居本から化野念仏寺へ。北大路魯山人が愛したアユとは?
持ってきた握り飯を食べ、下山にかかった。わたしは、登りは一向に速度を上げられないが、下りのほうがいい感じだ。口の悪い女性から「あなた、登山家じゃなくて下山家ねっ」といわれたことがある。往路だった表参道をそのまま下った。花売り跡があった。だいたい7合目だ。そこから少し下ると「水尾分かれ」で、西麓の水尾への道が分岐している。そっちに足を向けた。階段はなくなった。かつて民衆が歩いた古道である。
40分ほど下ると荒神峠で東西に伸びる山道に行き当たった。こちらは通称路といえる古道で、「米買い道」との名が付けられている。山間で水田を作れない清滝の人びとが、水尾、あるいはそれより北の集落へ米を買いに通っていた古道である。じつは、ここは春の終わりに一度歩いていた。そのときは西の水尾へ下りたが、今度は東の落合に向かった。落合とは、清滝川が保津川に落ち合う場所である。清滝からは1.5kmほど下流へ下山しようと考えたのだ。


川名は、山名よりも古くからの地域名が根強く生きている。清滝川が合流する保津川は急流下りで知られるが、この川名で呼ばれるのは亀岡市南端から嵐山の渡月橋まででしかない。河川法では水源からずっと桂川になるが、亀岡市より上流では上桂川、大堰川という名が今も健在だ。水源だけ見ると由良川と桂川は近い。だが、その間に分水嶺があって、由良川は日本海へ流れ、一方の桂川は他の川と合流して淀川となって大阪湾に注ぐ。いずれもアユが名産である。距離的に近いので、京へよく運ばれたのは桂川のアユだった。今は日吉ダムができてダム湖の底だが、世木という地があった。大堰川と呼ばれ始めるあたりだ。そこにアユが集められ、世木の男たちは初夏から初秋に「アユモチ」となり、副業として桶を天秤棒に下げてアユを運んだのである。

じつは、愛宕山に登り始めるときにくぐったのは二の鳥居だった。その1kmほど嵐山寄りに一の鳥居がある。表参道50丁の起点で、鳥居本(とりいもと)という古くからの地名は今も健在だ。世木から鳥居本まで約26kmだった。そこをアユモチたちは7時間ほどで歩き抜いたというから、みんなかなりの健脚だった。その道のりは「アユの道」だった。近年、福井県の港町と京都を結んだ交易路が「鯖街道」としてさまざまに注目を集める。逆に「アユの道」は、すっかり忘れられた古道である。京都府内での交易路だからだろうか。アユモチは江戸時代から昭和初期まで行き来したのである。さすがに鉄道が敷かれると、帰りは鉄道に乗ったが、行きは歩いた。アユは水温が上がったり、水流がなくなったりすると弱る。生かして運ぶには、途中の小川や湧き水で水を入れ替え、桶を適度に揺らすことが必要だった。
物流の主役が車になると、アユモチたちは姿を消していった。「アユの道」は現在、府道50号となって舗装されている。落合の沈下橋を渡って谷を上ると府道に出る。そこに立ちはだかるのが六丁峠である。鳥居本へ向かうアユモチたちにとっての最後の難所だった。約3kmのうち7割がたがつづら折れの登りだ。何度も休みながら登った。登りきると緩やかな下りとなり、カーブもゆったりとする。赤い一の鳥居が見えてきた。二の鳥居よりずっと大きい。かつて、この鳥居本は愛宕詣の人びとのための茶屋、そしてアユの問屋が並んでいたという。アユは、ここから市中の料亭に届けられたのだ。鴨川でもアユが獲れたが、「大堰川のアユ」は喜ばれたのである。生簀にアユを入れて生かし、鴨川沿いには客が来ればそれを調理してもてなす料亭があった。鳥居本には往時を伝える店が2軒残る。「平野屋」は茶屋から始まり、そのうちにアユ料理を出すようになった。「鮎の宿 つたや」は料亭旅館だ。いずれも創業から400年もたつ。

「鮎のいいのは丹波の和地川が一番で、これは嵐山の保津川の上流、亀岡の分水嶺を北の方へ落ちて行く瀬の急激な流れで、姿もよく、身もしまり、香りもよい。今のところここ以上のを食べたことがない」(「鮎の名所」『料理王国』所収)と書いたのはかの食通、北大路魯山人(1883〜1959)である。魯山人は京都市内、上賀茂神社の社家に生まれた。その後、比叡山の麓である滋賀県坂本に預けられもしたが、20年ほどは京都で育った。アユは身近だったのだろう。ただ、上の記述には間違いがある。和地川は保津川の上流ではない。北に落ちるのは正しいが、分水嶺は亀岡より北だ。和地川は由良川の地域名である。今の京丹波町和地のあたりではそう呼ばれてきた。鳥居本に運ばれた保津川の上流、つまり桂川が大堰川と呼ばれ始めるあたりのアユにも魅せられたのだろう。それでも、東京の永田町に美食倶楽部「星岡茶寮」を出すと、そこに運ばせたのは和地川のアユだった。

鳥居本は現在、国の重要伝統的建造物群保存地区である。上地区には茅葺きの古民家が点在し、下地区はベンガラ格子のある町家が並ぶ。地区の上下の境にあるのが化野念仏寺だ。「化野(あだしの)」とは寒気のする地名である。かつての葬場だ。日が落ちる前でよかった。平日でそれほど観光客はいなかったが、日本人やアジア系は少なく、アメリカ、ヨーロッパからと見受けられる人が多かった。バスに乗ろうかと思案しているうちに、だらだら歩き続けてとうとう嵐山まで歩いてしまった。後日、我が家にも由良川のアユのお裾分けが届いた。21cmだった。初夏の小さなアユの背ごしの透明感もいいし、料理屋で食べる三口サイズの塩焼きも捨てがたい。大きな落ちアユの魅力は野手であろう。身の多さと川苔の香りに魅了された。この秋、二の腕サイズにお目にかかれるだろうか。





