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縄文時代以来、とくに西南日本で重要な食料になってきた

縄文時代以来、東北日本の河川で重要な食用魚がサケ・マス類ならば、西南日本の河川ではアユであろう。東北日本ではサケ・マス類は、季節になると群れをなして川を遡上する。そのため、多量に捕獲できて燻製など長期保存も可能なので、堅果類と並ぶ貴重な食料源であった。それに匹敵して西南日本で大量に捕獲できる淡水魚があるとしたら、アユか、やはり大群で川を遡上するウグイぐらいだ。ただし食味では、ウグイはアユに到底及ばない。
これまでは考古遺跡から小さな淡水魚の遺物を見つけ出すのは困難であった。しかし、目の細かい篩で遺跡から採集した土を漉す「水篩洗浄法」を用いることで、たとえば琵琶湖の粟津湖底遺跡(縄文早期〜中期)からはフナなどと一緒に多くのアユの骨が検出された。寿命が1年のアユは、年魚の別名を持つ。時代が下って、延喜式(927年に完成した律令の施行細則をまとめた法典)には煮塩年魚、塩漬年魚、押年魚、火乾年魚、酢年魚など、アユをさまざまに加工したものが美濃国や伊勢国、但馬国など西南日本各地から朝廷への貢納品として登場している。延喜式には、貢納される魚種のなかでアユがもっとも多く記録されている。これらのことからも、アユの食料としての重要性が窺える。
アユは両側回遊性といって、川で孵化した仔魚は秋に海に下り、翌春まで仔魚〜稚魚期を海で過ごす。3〜5月に川に遡上してきて、春から秋にかけて若魚〜成魚期を主に川の中流域で生活し、10〜12月に中流域と下流域の境にある砂礫底の瀬で産卵する。産卵期は北ほど早くて北海道では9月から始まり、南に行くほど遅くなる。秋の産卵期を迎えて川の上中流から下流の河口付近へと下っていくアユを「落ちアユ」という。腹にたくさんの卵や白子を抱えているため「子持ちアユ」とも呼ばれ、塩焼きや甘露煮、あるいは内臓や卵、身などを塩で漬けて熟成させた「うるか」として賞味される。産卵を終えたアユの大部分はそのまま死ぬので、年魚なのだ。
遡上期にはアユの体長は7〜8cmで、川の中流域に入ると岩盤や石礫のある瀬に定住して、石の表面の付着藻類を食べる。上下の唇には櫛状の細かい歯があり、それを石の表面にこすりつけて藻類を齧りとる。このように付着藻類を食べる食性のため、優良な餌場である瀬や一部の淵に縄張りを構え、他のアユが侵入すると盛んに攻撃を仕掛けることが知られている。
画期的な新釣法の友釣りが、狩野川から利根川、そして長良川へと伝播


このアユの習性を使ったのが、友釣りである。友釣りに関する記録は、元禄10(1697)年に京都・八瀬川に現れたものが最古とされるが、天保3(1832)年には伊豆・狩野川で友釣り禁止の訴えが代官所に出されている。小百姓が生活の糧に営んでいた従来のアユ漁を効率的な友釣りが圧迫して、みんな年貢を払うにも難儀しているという訴えだ。このように画期的な新釣法であった友釣りが、伊豆から利根川、長良川へと伝播していったとされている。長良川に伝わったのは、大正年間になってからのようだ。
友釣りは、まずオトリとなる元気のよいアユを入手して、オトリと釣糸をつなぐために鼻環(読み:ハナカン)と呼ばれる小さな円形の器具をアユの鼻に通す。獲物のアユを引っ掛ける掛針(読み:カケバリ)と、掛針を安定させるためにオトリの尻鰭付近に刺す逆針(読み:サカサバリ)が結ばれた仕掛けを使用するのが基本だ。

9mクラスの長い竿と、釣り上げたアユをキャッチする口径40cmほどのタモ網、それに生きたオトリを活きの良いまま運ぶオトリ缶が、現在の友釣りの標準装備である。オトリのアユをごく自然な様子で泳がせ、オトリを追いかける縄張りの主が掛針に掛かるように長竿をさばくのが、友釣りの腕の見せ所である。熟達者は、新しく釣れたアユをどんどんオトリとして置き換えていって、活きのいいオトリを絶やさない。
「長良川システム」が世界農業遺産に認定された!

かつての美濃国、全国有数のアユ釣りのメッカである長良川では、各地の漁協が定める漁業期間に遊魚料金を払ってアユを狙う釣り人がやってくる。2026年には長良川漁業組合では5月11日、上流の郡上漁業組合では6月1日がアユ解禁の日となった。長良川では、あとで詳述する鵜飼以外にも、瀬張り網漁、夜網漁、簗漁など、アユを狙ったさまざまな伝統漁法があり、2015年12月に「清流長良川の鮎」として、世界農業遺産(本来の名称はGlobally Important Agricultural Heritage Systems)に認定された。


そのひとつの手投網漁は、偏向のサングラスを掛けて待ちかまえる川漁師がアユの群れを見定めて、「ていな」と呼ばれる手投網を打つものだ。長良川では、手投網漁をおこなう人にも時々出会う。

写真はすべて湯本貴和さんの撮影です。




