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5世紀の後半頃には日本で鵜飼がおこなわれていた?!
鵜飼とは、飼い慣らした鵜を操って魚を捕らえさせる漁法である。日本列島だけでなく、中国やインド、ベトナムなどでも広く行われてきた歴史があり、いわゆる照葉樹林文化の一要素であるといわれたこともあった。起源はかなり古い。群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳(5世紀後半頃)から出土した鵜形埴輪(読み:うがたはにわ)などが知られ、首に紐(首輪)を巻いて魚をくわえた姿から、当時の日本ですでに鵜飼がおこわれていたことを示す考古資料とされている。

7世紀初めに中国・隋王朝に記された『隋書倭国伝』には、鳥を使って水中の魚を捕らえさせ、その漁獲は1日に100匹あまりに及ぶと表現されている。現在インドやベトナムでは鵜飼は廃れてしまったようだが、中国では淡水漁業として健在である。またヨーロッパにも16世紀に東アジアからもたらされ、鷹狩の手法に準じて王侯貴族のスポーツハンティングとしておこなわれていた。旧ユーゴスラビアの北マケドニアでは、現在でも漁民による生業として鵜飼がおこなわれている。このあたりについては、国立民族学博物館の卯田宗平氏の詳細な研究の数々が出版されている。
ウミウだけを使うのは、彼らが野生に戻る本能を呼び起こさないから?

現在、日本列島では11ヶ所で鵜飼がおこなわれている。南から、三隈川の鵜飼(大分県日田市)、筑後川の鵜飼(福岡県朝倉市)、岩国錦帯橋鵜飼(山口県岩国市)、三次の鵜飼(広島県三次市)、大洲鵜飼(愛媛県大洲市)、宇治の鵜飼(京都府宇治市)、嵐山の鵜飼(京都府京都市)、ぎふ長良川鵜飼(岐阜県岐阜市)、小瀬の鵜飼(岐阜県関市)、木曽川鵜飼(愛知県犬山市)、石和鵜飼(山梨県笛吹市)である。

すべての鵜飼地で、各地にふつうに見られるカワウ(Phalacrocorax carbo)ではなく、ウミウ(P. capillatus)を使う。それはカワウよりもウミウのほうが、体サイズが大きくて丈夫なためだと説明されている。わたしはそれ以外にも、近くでたくさん飛び交っているカワウの群れを鵜が見ても、ウミウなら里心がつかない、つまり野生に戻って彼らと一緒に飛び立ちたいという本能を呼び起こされないからではないかと睨んでいる。ウミウは鵜飼地では繁殖させず、野生のウミウを3年訓練したのちに鵜飼に使用する。


全国で唯一、茨城県日立市にウミウの捕獲場として伊師浜海岸が指定されており、年2回だけウミウ捕獲伝統技術保持者によって捕獲され、11ヶ所の鵜飼地に供給されている。この方式は、交通網が発達した大正時代以降である。それまで長良川の鵜飼では、知多半島先端・師崎や篠島からウミウの供給を仰ぎ、ときには越後粟島、伊豆、駿河産のウミウを使っていたという。
夜に篝火を焚いた舟でおこなうだけではなく、鵜飼にはいくつものやり方がある

近年、女性の鵜匠が活躍している宇治の鵜飼では、ウミウを人工孵化させることに成功した。現在、宇治では人工孵化で育った「ウッティー」たちと鵜匠の強い信頼関係によって、鵜匠と鵜をつなぐ「追い綱」を使わずにウミウを川に放ち、自由に魚を獲らせてから呼び戻す「放ち鵜飼」を復活させている。

それ以外にも各地の鵜飼地にはそれぞれの特徴がある。他の鵜飼地では鵜匠が鵜舟とよばれる舟に乗って鵜を操るのに対して、石和鵜飼では浅瀬を歩いて鵜を操る徒歩鵜飼(読み:かちうかい)という形式である。また、ぎふ長良川鵜飼と小瀬の鵜飼では、鵜匠は宮内庁式部職という国家公務員の地位を持っておられる。

基本的に鵜飼は夜、篝火を焚いておこなわれる。昼間活動して夜は石陰に休んでいるアユを篝火で驚かせて、鵜に捕らせる。しかし、木曽川鵜飼では、観光用に昼間の鵜飼、つまり昼鵜飼をおこなう。確かに昼間の明るい光の下では、鵜飼の全体像や、鵜匠が鵜を操る様子、個々の鵜の行動などがよく見える。犬山では東海地方初めての女性鵜匠として、稲山琴美氏が活躍されている。彼女は「美しすぎる鵜匠」として一時期、大きな話題になった。2013年のデビュー以来、犬山市観光協会の職員として鵜匠を務め、出産・育児休業を経て今日に至っている。
※写真はすべて湯本貴和さんの撮影です。




