図譜/日本初の本格的植物図鑑とも称される岩崎灌園『本草図譜』(1822)の「なんばんくわんぞう」。同書には現代と違う分類法で7種ものカンゾウが記載されている。当時の人々と近い植物だった証拠だ。中には薬用とされる種もある。花期は現代暦で7月〜8月。国立国会図書館蔵
七草粥が一般化した江戸時代は「青物」といえば野菜と野草
『万葉集』に「春日野に 煙立つ見ゆ をとめらし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも」という有名な歌がある。うはぎはヨメナと比定されているが、古代には春先に野に出て摘み草をするという行事があったことが伺える。
古代中国では、正月1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにした。そして7日目を人の日、つまり人日(読み「じんじつ」)とし、犯罪者に対する刑罰はおこなわなかった。中国の長江以南を意味する江南地方では、この日の早朝に若菜摘みをおこなって「七種菜羹」と呼ばれる羹(読み「あつもの」)にして、万病や邪気を防ぐという風習があった。これが現代の日本でも正月7日の朝に食べられる七草(七種)粥の原型である。

七草粥の習慣は、日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着した。人日を含む五節句が江戸幕府の公式行事となり、将軍以下すべての武士が七草粥を食べて人日の節句を祝った。江戸時代には野菜は「青物」と呼ばれていたが、『料理物語』(1643)ではハコベ、ナズナ、セリなど七草のほかにも、タンポポ、ヨメナ(よめがはぎ)、ヨモギ、つくし(スギナの胞子茎)、ワラビ、スベリヒユ、アカザなども青物とされていた。スベリヒユ科スベリヒユやヒユ科アカザも、史前帰化植物である。食用として持ち込まれて、その後顧みられなくなって野生化した「残存作物」であろう。
京都の摘み草の極意は白神山地のマタギと同じ
そろそろサクラ開花の声を聞こうという2026年3月26日、京都・洛北の大原に摘み草に出かけた。先達は、京都で創作和食店を営まれている中東篤志さんである。中東篤志さんはお父さまの「京都 草喰なかひがし」店主の久雄さんのもとで、幼少時から大原で摘み草の経験をされてきた。大原の摘み草に、これ以上の先達はあるまい。

まず小川の土手でつくしを探す。つくし採りにしては少し遅めなので、穂先が開いて胞子が飛び始めた薹(読み「とう」)が立ったものが目立つ。それでも枯れ草を掻き分けてよく探していくと、まだ穂先の開いていないつくしもあった。それからかんぞう(ヤブカンゾウ)やタネツケバナなどを採る。


別の小川に行くと、岸にはセリ、川の中にはクレソンがあった。クレソンはオランダガラシとも呼ばれ、明治初年に西洋料理の付け合わせとして栽培が始まった。いまでは一部で野生化して、帰化植物になっている。

たくさんあるからといって採り過ぎてはいけない。かたまって生えているところから間引くように、また、とくに根を食べるものでなければ根は残しておくのが、摘み草の鉄則である。折り採るものは、ポキッと心地よく折れるところから手折る。素手で摘むのが基本であるが、ヤブカンゾウなどは根を痛めないように小型の鎌で根元を切る。毎年、同じ場所で同じ分量をいただけるように、植物を絶やしてはいけない。白神山地で教わったマタギの山菜採りと同じ極意である。


植物を繁るに任せた畑には、立派に育った野草がひしめく!

つぎに中東家が摘み草を許されている畑にお邪魔して、摘み草を続ける。聖護院大根や日野菜、京水菜などを育てている畑であるが、収穫後はそれぞれのアブラナ科植物は繁るに任され、この季節はきれいな菜花を咲かせている。畑の畝と畝との間には、ナズナやコハコベ、ヒメオドリコソウなどが足の置き場もないほど、ひしめいている。ヒメオドリコソウはヨーロッパ原産で、明治時代中期にヨーロッパあるいは先に帰化した北米から渡来した帰化植物である。

さらに有機野菜を作る別の畑にもお邪魔した。ここではヤブカンゾウやノビル、セリなどを採取。土が肥えているので、ヤブカンゾウやノビルがとても立派に育っている。ノビルは元々日本にあったのか、史前帰化植物かは定かではない。ノビルの球根は水に流されたり、土と一緒に運ばれたりして、生育条件の整った畑地や土手に根付く。しかし他の植物が茂ってくると、自然に消滅してしまう。畑の主にご挨拶してから大原の里をあとにして、街中にある篤志さんの創作和食店にお邪魔する。

※写真はとくに表記のあるもの以外、すべて湯本貴和さんの撮影です。





