お盆の前にカボチャを食し、「哲学の道」から大文字山に夕涼みハイキング | 山・ハイキング・クライミング 【BE-PAL】キャンプ、アウトドア、自然派生活の情報源ビーパル

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2026.08.14

お盆の前にカボチャを食し、「哲学の道」から大文字山に夕涼みハイキング

お盆の前にカボチャを食し、「哲学の道」から大文字山に夕涼みハイキング
夏の暑さに負けないよう、京都ではお盆の前にカボチャを食べてきた。瓢箪型の鹿ヶ谷カボチャだ。お盆に地上に帰ってきた祖先の霊を、再びあの世へ送る「五山の送り火」。その横綱格である東山の大文字が灯る大文字山の麓に、カボチャをふるまうお寺さんがある。年に一日だけ。「土用の丑の日」だ。それをいただき、「哲学の道」を歩き、送り火が灯る前の夕暮れ、大文字山に登って夕涼みした。

京都では「土用の丑の日」のカボチャ供養が230年続く

東山の大文字。「大文字焼き」などという人もあるが、京都の人は「送り火は焼きやない。灯るもんや」という。

お盆である。年に一度、ご先祖が帰ってくる。京都は、あの世とこの世のやりとりが身近だ。先祖の霊を「お精霊さん」(おしょうらいさん)と親しみやすく呼び慣らわし、お盆の始まりに「お精霊さんお迎え」があり、8月16日には「五山の送り火」を灯してあの世へ帰っていただく。京都のお盆はしみじみいい。両親や祖父母に生前は聞けなかったこと、いえなかったことが頭に浮かぶようになった。東京から遊びにきた娘の前で、「あの世って、あるかもしれないね」とつぶやいたら、じっと顔を見つめられた。

お盆の前に立秋がある。今年は立秋が8月7日だった。その直前の18日間が「土用」だ。土用は立秋だけではなく、「四立」(立春、立夏、立秋、立冬)それぞれにあり、季節の変わり目に体調を崩さないように用心してきたようである。「土用の丑の日」はよく聞く。土用の中に丑の日は暦のめぐりで1日、ないし2日めぐってくることになっている。今でも知られるのは、正確に記せば「夏の土用の丑の日」となる。今年は7月26日だった。

江戸時代中期、本草学者、蘭学者にして戯作者、浄瑠璃作者などなど多彩な才能を発揮した異才、平賀源内(1728〜80)が「土用の丑の日にウナギ」の文言を考案し、江戸の鰻屋の商売に大きく貢献した。という風説が広まり現代にいたっているが、どうも源内起源説は定かではないらしい。土用の丑の日に「ウ」の付く食べものをいただき、夏の暑さを乗り切る風習は各地にあるという。ウリやうどんが夏バテ防止のまじないのように食べられてきたのだ。そこにウナギも入っていたようだが、京都にはウナギよりも定着している土用の丑の日の食がある。しかも「ウ」が付かない。カボチャだ。

「中風まじないカボチャ供養」として、年中行事のひとつに組み入れているお寺さんがいくつかある。「中風」とは今や聞き慣れない病になったが、脳卒中、脳梗塞、その後遺症のことだ。カボチャに含まれる成分が、そうした病の防止に効果があると現代医学でもいわれ、古人の探究力は、それに行き当たったのである。暑さでの疲労で大病の災いがふりかかってこないようにと、カボチャ供養は京都で200年以上続いている。

カボチャ供養の日の安楽寺。手水舎にもカボチャが供えてあった。

大文字山の裾野を通る「哲学の道」を南から北へ歩いた

大文字山から如意ヶ嶽までの稜線。この山塊のすべてを如意ヶ嶽という人は今もいる。

「五山の送り火」の横綱といえば、なんといっても東山の大文字だ。8月16日の夜8時に「大文字」が真っ先に点火され、5分おきに「妙法」「船形万灯籠」「左大文字」「鳥居形松明」と反時計回りに進んで五山に送り火が灯る。東山の大文字が灯る山は大文字山(465,4m)というようになったが、この山は三角柱の万華鏡を東へ向けて横に置いたような形をしている。頂上から標高をあまり変えずに約1.3kmも稜線が伸び、東の端がもっとも高く如意ヶ嶽(472m)という。この山の裾野を細い水路が流れている。疏水分線だ。

京都の近代化を支えるため、琵琶湖の水を通して明治23年(1890)に完成したのが第1疏水だが、蹴上に水力発電所を設け、そこから分かれて北に上がるのが疏水分線である。疏水分線に沿った遊歩道は「哲学の道」だ。京都大学教授だった哲学者の西田幾多郎(1870〜1945)が近隣に住まい、ここを歩いて思索したというので後年その名が付けられた。西田は、西洋哲学に仏教を根幹に据えた東洋哲学を合わせて独自の哲学を築き上げたといわれる。京都学派とは西田と弟子たちを指して生まれた言葉だ。

南禅寺の水路閣。上部に琵琶湖の水が通る。昨年、国宝に指定された。
疏水分線の脇に「哲学の道」が伸びる。若王子から銀閣寺までは40分ほどだ。

拙宅からは東山に沿って京都市バスは運行している。大文字山を通り過ぎ、南禅寺まで行って歩き始めた。禅宗別格本山の広い境内で、疏水分線は煉瓦造りの高架水路を流れる。そしていったん東山に開けられたトンネルに入って、少し北の若王子(にゃくおうじ)で再び顔を出す。そこが哲学の道の南端である。疏水分線の界隈にあった西田邸は、今はもうない。だが、西田の後継者といっても過言ではない人物の邸宅が若王子に今も残る。梅原猛(1925〜2019)の邸宅である。

あの膨大な著作、そのふくよかな内容を考えれば、さもありなんという感じが塀越しにもわかった。まるで若王子神社の境内なのだ。もともとは、東京大学出身ながら京都にやってきて西田の下で研究した哲学者、和辻哲郎(1889〜1960)の住まいだったそうである。現在は、梅原さんが亡くなった後に設立された財団の管理のようで、ときどき市民向けの講座を開いているというが、まだ訪ねていない。

梅原猛さんの邸宅の一部は、「哲学ハウス若王子 妙喜山荘」として一般向けセミナーが催される。

安楽寺では本尊に供えた後、鹿ヶ谷カボチャをふるまってくれる

安楽寺の庭。ここを見ながら鹿ヶ谷カボチャをいただく。

若王子からしばらくは哲学の道の東はすぐに東山の深い森だが、北に歩くとやがて疏水分線は西に少し下がり、哲学の道とは別に、東山の山裾には南北を貫く道ができる。もう大文字山の東の麓だ。このあたりは鹿ヶ谷という。山に入った高名なお坊さんをシカが道案内したという逸話から地名となったとの説が伝えられる。安楽寺の小さな佇まいが見えてきた。ここで毎年7月25日、「中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供養」が開かれるのである。鹿ヶ谷はかつてカボチャの産地だった。寛政の初め(1790年頃)、近隣の粟田に住んでいた玉屋藤四郎が津軽を旅した土産に国からタネを持ち帰り、それを鹿ヶ谷の庄米兵衛に分けた。すると普通は菊座型だが瓢箪型になった。突然変異である。

これを京の人びとは珍しがり、あるいはありがたがったのか、「鹿ヶ谷カボチャ」として品種を守るようになった。鹿ヶ谷にカボチャ畑がなくなっても瓢箪型は各地で細々ながら育てられ、やがて「京の伝統野菜」に認定された。ちなみにカボチャはウリ科で南北アメリカ大陸が原産地である。日本には江戸時代が始まる少し前の16世紀半ばにポルトガル船によってもたらされ、この貿易船と縁が深いカンボジアと中国の南京からやってくる野菜として呼び名となった。

阿弥陀如来に一度供えられ、広間の床間に移された鹿ヶ谷カボチャ。

安楽寺では毎年、所在地の鹿ヶ谷の名が付いた瓢箪型で供養し、カボチャをふるまってくれる。「カボチャ供養」というが不思議だった。病気除けのまじないなのに、なぜ「供養」なのか? 大病を避けたい人が多いため、「とかく女の好むもの芝居、浄瑠璃、芋、蛸、南瓜」といわれるように女性の好物だったため、食べられすぎたのでカボチャの御霊を供養する……。まさか、と思って、居合わせた立派な講話をなさったお坊さんにお聞きした。

「カボチャを供養するわけではありません。まず、ご本尊の阿弥陀如来さまに鹿ヶ谷カボチャをお供えして、『どうか多くの人が中風になりませんようお守りください』とお祈りして、それをいらっしゃった方々にふるまわせていただきますので供養というのです。江戸時代の後半に、当時の住職に阿弥陀如来さまからお告げがあって始めたことだと伝えられており、もう230年ほど続けております」。カボチャはだし汁で煮炊きされ、庭を見ながらいただく。

柔らかく煮炊きされて皮までいただけた。

梅原猛さんの面影を頼りに、大文字寺へと向かっていった

わたしは梅原猛さんに2度だけお会いしたことがある。ともに短い取材だった。権威者にも論争となれば殴り合い、倒れたところを蹴り飛ばしたとの武勇伝は知っていた。答えにくそうな質問をすると眼光は鋭くなり、顔は強張った。「くるかっ」と身構えたが、次の瞬間に笑顔になった。それが満面の笑みとはこのことかと思わせる笑顔なのだ。直前の強面とのメリハリにも魅せられた。亡くなった直後に盟友のひとり、霊長類学者の河合雅雄さん(1924〜2021)が追悼文を書いた。あの笑顔のことでこれ以上の名文はない。「顔のすみずみまでが、笑顔に支配されて、こちらの気分までまきこんでしまう」。

梅原さんは西洋哲学の研究から始まり、仏教研究、日本史研究に学域を広げて後年の研究成果は「梅原日本学」と呼ばれるようになった。西洋哲学と仏教を研究したのは西田と同じだが、西田にとっての仏教は禅で、梅原さんは禅に馴染めなかったそうだ。惹かれていったのは法然(1133〜1212)だった。「法然の思想というのは、救済の対象を無知なる者も、悪事をなした者も、そしてそれまでの救済の対象とされていなかった女性をも含むすべての人を含むという、きわめて『平等性』の高いもの」と語り残した。さらに、仏教を皇室や貴族との結び付きが深いものから、民衆救済に転じさせた革命家だと評したのである。

法然院の山門。

鹿ヶ谷カボチャをいただいた安楽寺は、法然の死後、弟子のふたりが造った草庵である。大文字山の麓を北に歩くと、さらに法然ゆかりの小さなお寺さんが続く。まずは法然院だ。法然院は、法然が浄土宗を立ち上げた後、本山の知恩院を離れて念仏三昧のために自身で建てた草庵である。安楽寺のカボチャ供養は地元の人びとが準備する。煮炊きしたカボチャを運んできてくれたのは、手拭いを頭に被った小さな子どもたちだった。同じように法然院も市民に開かれた活動をしている。堂内では京都学派の学者たちが講演し、またコンサートやアートの展覧会がしばしば催される。

第31代貫主の梶田真章さんの剃髪温顔と温厚な声は、自然保護活動をするもので知らない人はいない。法然院を過ぎると、大文字山の麓は銀閣寺(慈照寺)の境内となる。室町幕府8代将軍の足利義政が山荘として建てたものだ。銀閣寺が建つ前、この地には浄土寺という大きなお寺さんがあったようである。法然がこの世に現れる前からあったが、銀閣寺を建てるために立ち退かされた。今では銀閣寺の総門の北隣に浄土院が残るだけだ。本当に小さなお寺さんだが、ここが東山の大文字を管理し、別名「大文字寺」ともいわれているのである。

浄土院(大文字寺)の境内。ここの住職が大文字が点火される前、火床まで上がって祈祷を行う。

夕暮れどきから大文字山を登り始め、帰りはナイトハイク

大文字山の登り始め。

安楽寺のカボチャ供養の日は、山仲間との納涼登山と重なった。夏の暑さでなかなか市内の山々に行けないので、7月最終土曜日の陽がだいぶ傾いた頃に待ち合わせ、大文字山で夕涼みをしようという趣向である。大文字の送り火は市内の各所から見えるわけだから、逆に山に上がれば市内をぐるりと見渡せる。西山に陽が沈み、暗くなって気温が下がってきたらヘッドランプを灯して下山する。下りはナイトハイクとなるのだが、この楽しみは京都でけっこう親しまれている。若いカップルも少なくない。

標高340mあたりというから7合目付近だが、耐火煉瓦で火床が点々と備え付けられている。ここで火を焚いて「大」の字に見せるわけだ。火床は全部で75基もある。広く知られる登山口は北側、銀閣寺の奥だ。登山道は随所に階段が作られており、最後は長い石造りの階段である。これを登り切ると、大の字の「一」の左端に出る。カボチャをいただいた後、うたた寝してしまい銀閣寺前の集合時間におくれたが、真っ暗になる前に火床まで登れ、3人の仲間と無事に会えた。

火床へ上がる最後の階段。途中の青い構築物は、ケーブルが上を通るために設けられた防御屋根だ。
娘はスニーカーで上がってきた。

火床まではゆっくり歩いても1時間ほどである。登山道は送り火の日には火を焚く役職の方々の専用となる。東山の大文字は、かつて浄土寺村といった地域に住む人びとが代々灯してきた。現在は特定非営利活動法人「大文字保存会」として活動している。松割木を井桁に組み上げ、間に松葉を入れ、麦わらを着火に使う伝統的なやり方で毎年火が灯る。焚き付けを上げるために簡素な電気式ケーブルカーが備えられている。送り火の日以外の登山道は一般に開放されており、暑い夏の日のほかはジョギング、散歩を楽しむ人によく出会す。犬連れで登っている人も少なくない。夏の終わり、遊びにきていた娘に「登るか?」と聞いたら頷くので一緒に登った。向こうはさすがに若い。息も切らさず付いてくる。途中、「そんだけ歩ければ、まだいいね」と後ろでつぶやいた。やけに素直に応じたと思ったら父親の老化のほどを確認したかったのである。老いても娘に世話をかけまい。この決心はカボチャより効くおまじないかもしれない。大文字山の火床に座り、黄昏時の市中を眺めた。車の動きはかすかに見える。人の動きまでは見えない。「民衆」とは誰を指すのだろうか?

火床に座って西山に沈む夕陽を眺める。

大文字に送り火が灯るとき、世の中の平和も祈りたい

昨年は梅原猛さんの生誕100年だった。今年になって梅原さんを初代所長に迎えて発足した国際日本文化研究センター(日文研)の主催で、「梅原日本学の可能性」と題するシンポジウムがあった。若き日に梅原さんの下で学び、現在は日文研の所長を務める井上章一さんによる「梅原猛と鎮魂の系譜」という講演は印象的だった。井上さんは梅原さんが注目したのは、「日本の歴史は恨みを呑んで死んでいったものの祟りが動かしてきた」ことだと、まず飄々といった。

敵として死んでいったもの、また政権によって不遇に追いやられ客死したものは怨霊となって祟りを起こすだろう。それに怯えた勝ち組は、敗者を神にして鎮魂してきたというのだ。井上さんは講演の最後、梅原さんの汚名を注ごうという願いを込めた発言をした。戦後の総理大臣として初めて靖国神社を公式参拝したのは中曽根康弘首相だが、公式参拝の前に諮問委員会が作られ、梅原さんは委員への就任要請を受諾した。これを今もって右傾化する政権に加担したと梅原批判をする論客が少なくないという。汚名とは、この左翼思想家からの批判である。

明治以降の日本の国家を護る神社なら、「敵として死んでいった西郷隆盛ほか薩摩の人びと、会津や越後の人びとも神として祀って鎮魂すべきである。それが古くからの神社のあり方だ。これをいいたくて梅原さんは委員会に入ったんです」。と井上さんはいった。飄々とシニカルで相手を煙に巻くような調子だが、珍しくその日は目を潤ませていた。梅原さんの委員会での発言は議事録に残っているそうだが、一般にも見られる文書には大幅に削除されているという。ご本人は、それをずいぶん怒っていたらしい。

梅原さんは学徒出陣で戦争に駆り出された。最初の取材のとき、わたしは出征直前の写真を見せていただいた。学友の寄せ書きで埋め尽くされた国旗を掲げ、決意なのか覚悟なのか、それとも絶望なのか、非常に強張った20歳の梅原さんが写っていた。あの笑顔は、恨みと祟り、そして鎮魂を知ってから身に付けたものだったのかもしれない。今年も終戦記念日がやってくる。現在の首相がどういう態度に出るのかは知らない。その翌日は五山の送り火だ。梅原さんの邸宅の背後に灯る東山の大文字に平和を祈りたいと思う。

土用が終わっても旬のカボチャを食べ続けている。暑い日は辛いカレーが好みだ。

(経路)

自宅→「修学院離宮道」バス停→「南禅寺・永観堂道」バス停→南禅寺→若王子→哲学の道→安楽寺→法然院→銀閣寺→浄土院→大文字山→「銀閣寺道」バス停→「修学院離宮道」バス停→自宅

著者画像

藍野裕之

ライター・編集者

あいの・ひろゆき 1962年東京生まれ。東京と埼玉を転々としてきたが、50歳を過ぎて京都に移住。現在は京都の山に遊び、京料理に耽溺し、ときどき京都学を紐解く。著書は『梅棹忠夫』(山と渓谷社)、『ずっと使いたい和の生活道具』(地球丸)など。編集作品はビーパル本誌連載をまとめた山極壽一著『森の声、ゴリラの目』(小学館新書)、『出西窯と民藝の師たち』(青幻舎)など。

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