京都の「食・登山・信仰」の修行と修業のホームグラウンド、大原の山と里を歩く | 日本の旅 【BE-PAL】キャンプ、アウトドア、自然派生活の情報源ビーパル

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2026.08.02

京都の「食・登山・信仰」の修行と修業のホームグラウンド、大原の山と里を歩く

京都の「食・登山・信仰」の修行と修業のホームグラウンド、大原の山と里を歩く
大原は今でこそ京都市左京区に編入されているが、長く大原村だった。市中から近い山里として近隣の別世界で、古くから隠遁者、逸脱者をあたたかく迎えてきた。今、いい野菜が育って京料理を支える。大原盆地の西側の山はクライマーたちが集まる。また、古刹では修行が続いけられている。夏はシソ。大原名物のしば漬けの「ヌーボー」の漬け込みに合わせ、大原三山と大原の里を歩いた。

大原三山の縦走でホームグラウンドを持つ重要さが見えてきた!

右奥が焼杉山、左端が金毘羅山、金毘羅山の右のピークが翠黛山。3つ合わせて「大原三山」と呼ばれる。

「山登りはなぁ、自分のホームグラウンドを持って、そのコースをどのくらいの時間で歩けるかで点検するんやな。いつものルートを物差しにして、自分の体力、体調を測るわけや。物差しを持てるようになれば、地図見ながら北アルプスのルートをやれるかどうか見極められるようになるで」と先輩にいわれた。東京にいるときは山々は遠く、ホームグラウンドにはできないできたが、京都にきてからは玄関を出るとすぐに山である。しかし、「物差しを持つ」という意味がわからないでいた。距離と起伏を体験しても、比較する対象が据えられなかったのだ。それが今回、初めて大原三山の縦走をしたら少し違ってきたのである。

大原は京都市左京区に編入されているが、市中とは別世界の里である。東は比叡山から北に続く山々が伸び、西には大原三山を中心にして山々がぐるりと囲み、その間の高野川が作った盆地が大原の里だ。大原三山は、大原の盆地の西側を囲むように連なる山々のうち、象徴的にそびえる3つのピークのことである。北から焼杉山(やけすぎやま717.6m)、翠黛山(すいたいさん577m)、そして金毘羅山(こんぴらやま573m)である。登山口から下山口まで、ざっと6kmほどだ。ただ、縦走といっても縦直線的にピークが並んでいるわけではない。むしろS字に近く、ピークとピークの間に無名のピークがあり、登り下りがかなりあった。登り始めから下山まで約6時間だった。里に下りた後、この距離と疲労感は2年前に北アルプスの槍ヶ岳に登ったときと近い。低山ハイクのつもりできたが、こういう感覚を味わえるのかと不思議だった。

3月下旬でも大原に雪が降ることがあった。霧がかかることも少なくない。

大原の里人は古くから移住者をあたたく迎えてきた

登ったのは7月24日だった。この日、京都市の最高気温は38.8度Cとなった。市中より大原はやや低く、登山道は森の中で日は和らくのだが、気温は高くどっぷり汗をかいた。朝、モタモタしたのを後悔した。大原三山のうち、焼杉山がいちばん高く裾野も広い。北側は高野川の水源で、そちらからのほうが頂上までの距離は短い。だが、バスの便が悪い。大原は南北に長く、東の三千院にも西の寂光院にもアクセスしやすいところが中央部で、市中からのバスはここで折り返し運転。そこから北へのバスもあるにはあるが本数が圧倒的に少ないのだ。バスの折り返し場所があるのは草生地区という。観光客の乗降が多く、昔ながらの店に混じって洒落たカフェもある。その一角に地元の人に登山者が使うのをおおめに見てもらっている山道がある。しかし、登る人が減ったからか、道標もなかった。下りてきたのは、草生地区より1kmほど南の戸寺地区だった。

大原の草生地区を流れる小塩川。高野川に注ぐ。
焼杉山の登り始め。

大原は、古くから隠遁者、逸脱者の移住が少なくない。京都は狭く、しかも職住近接だ。ある会合で、ふたりの初老の紳士がヒートアップするのを見た。議論が論争になり、ついには胸元を掴み合って殴り合わんばかりになった。周囲にいた人が割って入ったが、ひとりは端然と和服を着こなし、もうひとりは仕立てのよさそうなスーツだった。ともに高名な大学教授だ。学問上での争いから端を発した小競り合い。狭さゆえ、会わずにいようとしても出会してしまうほど、隠れ家を持ちにくい。度を越して不満がたまっていれば、「ここで会ったが百年目」となりかねないのである。それを避けるためには距離を置くのがいい。大原は市中からほどよい距離の身の隠し場所となってきたのだ。

貴人、賢人の流離も少なくなく、とくに平安時代末から鎌倉時代の逸話が今に伝わる。この時代、大原には寺が今よりも多かったという。比叡山延暦寺が天台、禅、密教、律の道場となるにいたって巨大化した。異なる考えの同居となれば組織維持のために官僚化するだろうし、リーダーは肝心なことにウヤムヤにするようにものなる。どこかの国の巨大与党と同じだ。結果、比叡山延暦寺は民衆救済という仏教の本意がおろそかになった。それに抵抗して比叡山を離れ、大原にやってきたのが法然(1133〜1212)だった。勝林院での「大原問答」を経て、民衆救済の浄土宗を立ち上げた。一方、平清盛の娘で高倉天皇の皇后だった建礼門院徳子(1155〜1214)は、壇ノ浦の戦いで平家一門が敗れ、息子の安徳天皇は皇后時子とともに入水した。これを見て、徳子は京を離れ寂光院に出家して息子夫婦と平家一門の菩提を守り抜いたのである。こうして京を離れざるを得なくなった貴人、賢人を、大原の里人はあたたかく迎えたと伝えられている。

大原では平安時代から赤ジソを育て続けてきた

シソのほか、バジル、ミント、ローズマリー、セージなど、「ハーブ」として流通する植物の大半がシソ科に分類される。

6月に入ってから、戸寺にたびたびきていた。畑と野菜の様子をうかがいにきていたのだ。お目当てはシソだった。シソには赤ジソと青ジソがあり、夏の大原は紫色の赤ジソ畑が、他の野菜や田んぼのイネの緑とくっきりしたコントラストを作る。ヒマラヤ山麓が原産地といわれるが、日本では縄文時代の遺跡からもタネが出土していて、そもそも日本列島に自生していたのではないかとの説もある。大原では平安時代から栽培が行われていたようだ。6月の初めには膝上ぐらいだったものが、少しずつ伸び、胸高ほどにまで成長すると、辻和豊さんから連絡がきた。今年最初の漬け込みが、いよいよ始まるという。辻さんは「辻しば漬本舗」の2代目で、移住者をあたたかく迎えたという伝聞が本当なら、辻さんは古い大原の里人の人柄を、そのまま受け継いだような人である。

刻んだナスに塩を加え、よく混ぜながらシソを絡めていく。

しば漬けは、寂光院に出家した建礼門院に大原の人びとが届けた。そのとき「柴葉漬」と称したので、その名が付いたともいわれる。もうひとつ説があり、大原の若い女性たちは市中に柴、つまりは焚き木を売り歩いた。この「大原女」が柴といっしょに売り歩いた漬物で「柴漬」となったというものだ。辻さんはいう。「どちらが真相かはわかりません。うちはそれまで自分の家で食べるために作っていたのを、父が大原女さんに頼んで売ってもらうようになりました。1970年頃のことです。大原女さんは昭和の終わり頃まではいたんです。うちは昔ながらの作り方ですね。調味料を使うものもありますが、古くから塩だけで乳酸発酵させきて、今はそれを『生しば』と呼んでいます。しば漬けはナスです。キュウリも着けますが、大原で古くからやっているのはナスで、ナスのほうがいい色になります。シソはジャパニーズ・ハーブの代表格ですね。しば漬けに使う赤ジソは自家栽培です。大原から赤ジソが茂る風景をなくしたくないですからね」

辻さんは漬物のいい食べ合わせをさまざま提案する。写真は日本酒と漬物の試食会にて。「辻しば漬本舗」には5席だがイート・インのカウンターがある。

6月25日の初漬け込みは朝5時から始まった。辻さんが一切を仕切る。気立てのいい奥さんはバックヤードで、78歳になる辻さんのお母さんも作業場でキビキビ動く。従業員の方々と合わせて10人ほどだ。一日に漬け込むナスは1tで、薄くスライスして塩とシソを絡めて次々と樽に入れられる。するといちばん体重がありそうな若い男性が樽の中に入って、ビニールに詰められた漬け込み始めに乗った。少し足踏みする。ナスはこれほどまで水分を持っていたのかと思わせるほど水分が出る。大きな漬物石を乗せるとさらに出る。こうして8樽が浸け終わった。加工前のナスの重量で1樽125kgになる。これが商品として出るときは1樽50〜60kgになっているそうだ。まだまだ水分が出るようだ。

7月下旬、「しば漬けヌーボー」が漬け上がった

生しばのヌーボーは酸味も色もまだ浅い。

「漬け上がりは……祇園祭が終わった頃なら確実かな」といわれたので、大原三山の帰り道に訪ねてみた。するとできていた。2袋買った。辻さんのところでは、その年に漬け込んだのは翌年の春までに売り切るようにしているという。ファンは毎年最初の漬け込みのものは、ワインにたとえて「ヌーボー」と呼んでいる。今年最初の出荷を祝おうというのだ。味わいどころは酸味だ。関東育ちのわたしは、乳酸発酵に特有の酸味に最初は驚いた。京都のお節につきものの、すぐきの漬物も酸っぱい。熟成していくと酸味はまろやかな深みを増すが、ヌーボーはフレッシュである。だが、酢の酸味を無垢とするなら、生しばの酸っぱさはスーボーでさえ深みがある。これを大原の人びとは、ご飯に載せたり、それにお茶をかけたりしていただいてきた。冷やし茶漬けにして夏の暑さを乗り切ろうか。

辻さんの店のある戸寺は大原の野菜の集積地である。朝市が立ってかつてはそこだけだったが、そのうちに「里の駅」ができて、大原の野菜が集まることになった。一般市民も買えるのだが、高級料亭の料理長、有名ホテルのシェフも通う。そんな中には大原に自前の畑を持つ料理人、志の高い農家と契約して優先的に質の高い野菜を仕入れる料亭、ホテル、旅館も少なくない。また、京料理に関心を寄せる外国の料理人も京都にくると戸寺に足を運ぶ。今や、「Ohara」の野菜を知らずして京料理は語れないという状況のようだ。市中に近いことも幸いしている。名うての料理人の来訪は、野菜の生産者を刺激するのだろう。オーガニック、有機栽培という実験的な農業も行われている。先祖代々の畑を耕す人たちのほか、移住して営農し始めた人も目立つようになった。

「里の駅」の店内。

昔も今も大原は修行者、修業者のホームグランド

里の駅では、摘み草料理で知られる料理屋の大将によく出くわす。「土を知らずして料理はできない」との言葉を残しているベテランだ。こちらは顔を覚えているが、向こうはわたしをわからない。野菜を手に取り、しばらく眺め、ほんの1籠ほどを買っていく。その見立てには興味がわくけれど、とても話しかけられるようなムードではない。「毎朝きはりますよ」と店の人から聞いた。野菜の見立て、料理のイメージ・トレーニングが日常化しているのだろう。それはまた、自身に課した修業なのかもしれない。修業といえば、わたしが歩いてきた大原三山のうち、いちばん南の金毘羅山だ。こちらは修業ではなく修行というべきかもしれない。この山は修験道の行場であったことは間違いなさそうだが、他の行場とは少し違った歴史を歩んでいる。

金毘羅さんの山域に入ると、稜線にも岩が目立ち始める。

金毘羅山は、江文山といわれてきた。社伝によれば平安時代初期、この山に祀られていた神々を勧進し、大原全村の氏神さまとして江文神社が創建された。それ以来の山名だが、北隣の翠黛山を含めて江文山だったのかもしれない。今はふたつのピークとして数える山には、両山合わせて小塩山という里人の呼び名も並立していたようだ。ちなみ、翠黛山の山名が始まったのは麓の寂光院に隠棲した建礼門院の死後しばらくしてからである。平家滅亡の後、鎌倉時代に編まれた『平家物語』の最終章には建礼門院の余生が描かれている。そこで寂光院の周辺の美しい新緑を「翠黛」としているのだ。これにちなんでの山名である。さて、金毘羅山のほうは、その名が普及したのは江戸時代からようだ。四国・香川県の象頭山(616m)を総本宮にした金毘羅信仰との関連からである。

江文神社の本殿。
金毘羅山の山頂にある金毘羅大権現を祀る三壺社。

「こんぴらさん」といえば航海の守り神として知られる。総本宮には海運の大企業から漁師さんまで航海安全祈願の絵馬が並ぶ。だが、大原の金比羅山は海から遠い。そこには、本来の金毘羅大権現の神通力にわけがある。そもそも金毘羅大権現は水を司る神さまなのだ。そこから発展して航海の守護神となった。かつて、高野川が暴れて大原の里全域が水浸しになり、水は江文神社のすぐ下まで達したことがあった。また、日照りが続いて雨乞いが必要になることもあった。それが金毘羅信仰を受け入れた下地だろうが、大権現は水だけではなく風と火も司る。金比羅山の山頂には金毘羅大権現を祀るお社があるが、ここは三壺社という。雨壺、風壺、火壺の3つを合わせたわけだ。「壺」とは神さまが潜む洞窟と考える向きもあり、神社の近隣に洞窟があるのかもしれないが定かではない。

金比羅山の中腹にある岩場で、先輩、先達の手ほどきを得てロッククライミングをやった。

大原三山を北から歩くと、翠黛山を過ぎてから岩が現れ始め、金比羅山の山域に入ったことがわかる。金比羅山は露岩が多い山で、各所はロッククライミングのゲレンデとして開発された。関西のクライマーは、兵庫県の六甲山と並んでここをホームグラウンドとしている人が多い。「チムニー」「Y懸」などと、修験道の行者が行場に名を付けるように、クライミングの歴史の中で岩場の難所に名前がある。修験道から派生した金毘羅道の行者は白装束に赤い天狗の面を被って布教に回ったという。金毘羅山の岩場に行場の名を付けた様子はないが、金毘羅道の行者は鉱物資源の開拓者、山師でもあったというから、あるいは山や岩に通じていたのかもしれない。現代のクライマーもその系譜、とまではいわないが連続する山と岩の文化の中にはある。修行も修業も身体と頭脳のトレーニングだ。大原の地は、腕を磨こうとする食と登山と信仰の人びとにとって、修行・修業のホームグランドであり続けていると思う。

著者画像

藍野裕之

ライター・編集者

あいの・ひろゆき 1962年東京生まれ。東京と埼玉を転々としてきたが、50歳を過ぎて京都に移住。現在は京都の山に遊び、京料理に耽溺し、ときどき京都学を紐解く。著書は『梅棹忠夫』(山と渓谷社)、『ずっと使いたい和の生活道具』(地球丸)など。編集作品はビーパル本誌連載をまとめた山極壽一著『森の声、ゴリラの目』(小学館新書)、『出西窯と民藝の師たち』(青幻舎)など。

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