
今回は東京都中央区〜千代田区の「大手町川GREEN WAY」です。
2nd ルート:大手町川GREEN WAY
今回歩く「GREEN WAY」のベースとなるのは「大手町川端緑道」です。この緑道は、東京都千代田区を流れる日本橋川沿いに2014年に整備された全長約780mの歩行者専用道路。ルートは、日本橋川に掛かる一石橋から錦橋までとなっています。
今回は、日本橋観光案内所をトレイルヘッド(=トレイルの起点となるアクセスポイント)とし、大手町川端緑道の親水広場出入口までの約2kmを、斉藤的「大手町川GREEN WAY」として歩いていきます。
今回のルートの攻略・確認ポイントは、緑豊かな景色がどのくらいつながっているのか、緑道間の道路をスムーズに渡れるか、です。平面の地図だと不確かで、実際に歩いてみないと分からないことも少なくありません。
それは僕の主戦場であるロングトレイルの計画を立案するときも同じです。事前にできる限りの情報収集や準備をした上で、あとは歩くのみ、という心境に至るのです。
ということで、早速スタート。まずは、日本橋観光案内所を出発したら、そのまま真っすぐ進んでいきます。西河岸橋の手前に、まだ若い桜の木が植えられていました。
東日本大震災の後で福島からきた桜だそうです。この桜が大きくなるころ、都会のど真ん中で行き来する人々を楽しませてくれるのでしょうね。そのまま真っすぐ進むと、一石橋が続いていきます。
一石橋の手前に石標がありました。一石橋迷子しらせ石標「満よひ子の志るべ」です。
今もそうですが、江戸期〜明治期にかけて日本橋付近は人出が多くあり、迷い子がたくさん出たそうです。当時、迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元である西河岸町の人々によって1857年(安政4年)に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が建てられました。
このしるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られ、上部に窪みがあります。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたそうです。
単なる記念碑かと思ったら、迷子のための機能というか役割を担っている石標だったんですね。

一石橋迷子しらせ石標の周辺は工事中でした。工事関係者のらしき方が、僕が手にしているカメラに気づいたのか、「このあたりの景色も20年ぐらいで一気に変わるよ」といいました。「どういうことですか」と話を向けると、日本橋周辺の工事について説明してくれました。
現在、「日本橋に青空を取り戻そう」という機運が高まっていることに加え、高速道路の老朽化も進んでいます。そこで、首都高速道路株式会社は都心環状線・日本橋区間地下化事業を進めているそうです。いずれは、日本橋周辺の空を覆っている首都高速道路も地下に移動させるという計画なのだとか。
そのうち「昔は東京の空が高速道路に覆われていたんだよ」などと懐かしむ日がくるんでしょうか。だとしたら、2025年の日本橋川の様子も記録に残しておこうとパチリ。そして、20年後に再び「大手町川GREEN WAY」を歩いてみたいなと妄想をふくらませつつ、歩を進めます。

一石橋迷子しらせ石標の先、常盤橋の手前に公園がありました。なぜか新潟県小千谷市の錦鯉の泳ぐ池と、佐渡島市の金鉱石がありました。なぜ小千谷市?佐渡?日本橋と新潟県に何のつながりが?と、いくつも「?」がわきます。
少し調べてみると、三菱地所が東京と地方を結ぶ場所「TOKYO TORCH」として常盤橋タワー周辺の開発を進めていて、新潟ゆかりのものが設置されたりしているようです。都心のビル街にふと現れるこうしたミニ公園のようなスポット、個人的にけっこう好きです。取ってつけたような感じもなくはないですが、意外となごみます。


新潟ゆかりのものがある公園を過ぎると、立派な銅像が見えてきました。今や一万円札でおなじみ、渋沢栄一さんの像です。
渋沢栄一像
関東大震災後の日本橋一帯の復旧と整備に尽力した功績を称え、ここに渋沢栄一さんの像が建てられたそうです。また、常盤橋を渡った先には、渋沢栄一が開業に携わった日本最古の銀行、第一国立銀行がありました。さらに、渋沢栄一は江戸末期に幕臣でしたが、この場所は江戸城を守る常盤橋門の内側にあたります。
ということで、ぼんやり歩いていたら急に大きな渋沢栄一像が現れて驚きました。が、少し調べたら、この場所と渋沢栄一との深い縁が分かり、大いに納得です。そして、銅像のすぐ近くに、常盤橋御門跡がありました。

常盤橋門
江戸城の城門だった常盤橋門は、寛永6年(1629)に築かれました。城門は1873年(明治6年)に撤去され、残った枡形石垣と旧常盤橋も、関東大震災で被害にあいました。その後、昭和初期に復旧整備され、現在も保存されています。
また、旧常盤橋とは別に、1877年(明治10年)に外堀門であった小石川門の石材を用いて、新たに石造二連アーチ橋「常磐橋」が架橋されました。橋の上は歩道と車道が安山岩(あんざんがん)と花崗岩(かこうがん)の敷石で分離され、洋風の笠が付いた八角形の灯籠風親柱(大理石)や意匠性の高い手摺柵が設けられました。
文明開化の様相を今に伝える希少な橋となっていて、橋のある常盤公園内には橋の歴史を伝える石や欄干の材料が展示されています。


渋沢栄一像と常盤橋御門跡のある常盤公園を通り、高架下を抜けると、日本橋川方向に大手町川端緑道の入り口が見えてきました。
大手町川端緑道は、桟敷広場、小紋広場、親水広場と、大きく3つのエリアに分かれています。まずは、そのまま東側から進んでいき、桟敷広場に入ります。
桟敷広場
タイルの敷かれた幅の広い道が、日本橋川沿いに伸びています。高速道路とビルの間にこんなに広い空間があるなんて想像もしていませんでした。両脇には緑が生い茂り、ここが日本の、東京のど真ん中とは思えません。皇居も東京駅も徒歩圏内なのですが。
ベンチなどもあるのですが、平日の昼間なのに(平日の昼間だから?)ほとんど人の姿を見かけません。穴場といえば穴場なのかもしれませんが、ややさみしい雰囲気です。

小紋広場
桟敷広場を抜け、道路を渡ると小紋広場に入ります。入り口では、数台のキッチンカーが営業していました。その中に、山形の芋煮もありました。僕の地元の山形の郷土料理と、こんな都心で出あうなんて!
キッチンカーのエリアの先に、エコミュージアムがありました。といっても、モニターが消灯していたりして、展示というより放置といった方がふさわしいような状態のものが多く、立ち入り禁止になっている場所もありました。特に告知案内などはありませんが、リニューアルか何かの準備中なのでしょうか…。


その先は現在工事中ですが、ビル沿いに進むと大手町仲町通りという、カフェ・レストランゾーンがありました。
ちなみに、大手町仲町通りに入る少し前、ビルの一角に庄内藩酒井家上屋敷跡がありました。庄内藩は山形県の海沿いのエリアになります。徳川四天王筆頭とされる酒井忠次を祖とするのが旧庄内藩主酒井家です。まさか、芋煮に続き、我が故郷・山形とのつながりを東京の中心で発見するとは!

さらに川沿いに歩いていくと、出口付近にはドックパークがあったようですが、こちらも現在は工事中。やはり地図では分からなかったのですが、案の定、日比谷通りを渡るのがちょっと難儀しました。その先に大手町川端緑道の最後のエリアである親水広場があります。
親水広場
親水広場に入ると、大手町合同庁舎のビルの合間を歩く道になります。実は、この合同庁舎の付近、あの田沼意次の屋敷跡だとか。
また、このエリアには、かつて気象庁がありました。その当時は、標本木としてソメイヨシノやイロハモミジが植えられていたそうです。その名残なのか、今も緑道沿いは木々が多く植えられています。
親水広場は、大手町川端緑道の中でもっとも緑豊かで季節を感じるエリアです。お昼休憩している人も多く、たくさんあるベンチもほぼ埋まっていました。やはり、緑道=GREEN WAYは多くの人が行き交い、活気がある方が良いですね。

今回、歩いた「大手町川GREEN WAY」は、各橋のたもとにも歴史が刻まれています。上に紹介した以外にも、鎌倉橋のたもとには江戸城外堀の石垣・荷上場跡地があったり、神田橋のたもとには神田橋門の石垣が残されていたり…。
日ごろはスタスタ通り過ぎるだけの道も、目を凝らしてキョロキョロしてみると、いろいろな発見があります。落としものを探すかのようにじっくり丁寧に歩いてみると、興味をひかれるものがいろいろあり、いくら時間があっても足らないほどです。

それにしても、日本橋川沿いの「大手町川GREEN WAY」は、水と緑に囲まれていて、とても気持ちの良い場所でした。これでもっと空が広ければ言うことなしですが、それは20年後のお楽しみということで。
ともかく、ちょっとした空き時間に一息つくにも最適ですし、ぜひ緑を眺めながら「大手町川GREEN WAY」を歩いてみてください!
■今回歩いたルートのデータ
|距離約2km
|累積標高差約2m

今回のコースを歩いた様子は動画でもご覧いただけます。