新茶の刈り取りが始まった! 修験道の山を越え「宇治茶」の聖地を巡るハイキング | 山・ハイキング・クライミング 【BE-PAL】キャンプ、アウトドア、自然派生活の情報源ビーパル

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2026.06.10

新茶の刈り取りが始まった! 修験道の山を越え「宇治茶」の聖地を巡るハイキング

新茶の刈り取りが始まった! 修験道の山を越え「宇治茶」の聖地を巡るハイキング
京都の初夏は「宇治茶」の産地から届く新茶の話題で幕を開ける。「八十八夜」は5月初旬だが、フレッシュな新茶は6月いっぱい味わえるいう。京都府南部の和束町と宇治田原町は、お茶の聖地といっていい。だが、そのふたつの町を一気に訪ねるには修験道の山、鷲峰山を越えなければならない。

京都府内でもっとも生産量が多い「茶源郷」和束町へ

「夏も近付く八十八夜」。初夏の京都は新茶で騒がしい。新茶の刈り取りは4月のうちから始まり、5月が最盛期だ。フレッシュな茶葉は6月まで楽しめると聞いた。京都は日本の本格的なお茶栽培が始まった地であり、茶道はもとより煎茶道もここで始まった。茶祖と呼ばれる栄西禅師(1141〜1215)は、中国からお茶を持ち帰って本格的なお茶栽培への道を開いた。祇園の建仁寺を開いた高僧だ。茶聖の名で尊ばれる千利休(1522〜1591)はいうまでもないだろう。市中の千本通の界隈は今も千家の中心で、そこを歩くと厳粛さに身を正される。お茶をたしなみたい、とはずっと思い続けていた。しかし、深さは桁違いだ。最近ようやく、抹茶も楽しむようにはなった。こっそりだが……。

お茶の本場は宇治ではある。だが、近年の生産高を市町村別に見ると、和束町が断トツでトップだ。宇治市は2位に下り、南山城町、宇治田原町と続く。他の町は宇治市に近接している。「宇治茶」の生産範囲が広がったのだ。5月23日、京都府最大のお茶生産の和束町へ向かった。まずJR「京都」駅から奈良線に乗り、「木津川」駅で関西本線に乗り継いで「加茂」駅まで行く。そこからはバスに乗った。

1時間に1本しかないバスに乗ったら驚いた。乗客は8人だったが、そのうちの5人までもが外国人なのである。ヨーロッパ系が多いように感じられた。みんな和束の山々に延々と広がる茶畑は「日本遺産」に登録され、「茶源郷」の名のもとに世界に知られることになった。それをひと目見ようというのだ。バスが進むにつれ、わたしも車窓から飛び込んでくる風景に釘付けとなった。「野にも山にも若葉が茂る」そのものなのだ。

茶畑が小高い山が一面に広がるが、少しずつ区分けされ持ち主が異なる。写真で4軒ほどの農家の茶畑がある。

カフェに入って新茶をいただき、その価値を知らされた

バスからひとり、またひとりと降車していく。カフェらしき建物が見えてきたとこで、わたしもいったんバスを降りた。あたりには数軒のカフェがあった。後で知ったのだが、和束町にはカフェが点々とあるのだ。その日、「和束茶屋 山甚」に入った。早速、お目当ての新茶をたのんでみた。煎茶である。おいしい淹れ方を説明され、にわか仕込みでやってみた。一番煎じの香りと味を確かめる。若々しい香り、甘い味だ。少し間を置いて二番煎じ。俗世で語られる「二番煎じ」は新鮮味が欠けて格下ということだ。若い頃、原稿を書いては先輩から「二番煎じだ!」と、こっぴどく叱られた。しかし、なかなかどうして。一番茶とは別世界で甲乙は付け難い。さて、新茶の価値とは何だ……。

新茶の「一煎セット」は茶葉の銘柄によって値段が違う。500円〜。
「抹茶あべかわ餅」700円。

「お茶は新しいものがいいわけではありません。そやけど、新茶はまず、茶摘みの季節の到来を寿ぐもの。そして、植物の葉としての茶葉の香りと味を愛でるもの。お茶好きの方々も、そういう楽しみをしてくらはりますね」と、農家さんと思しきお店の女性はいう。お茶を淹れた後でも新緑の木々を思わせる色艶だ。彼女に勧められるままに、湯を通った新茶の茶葉を食べてみた。するとどうだ。山菜の隠れた王様のコシアブラにも負けず劣らずの香りと味である。二番煎じをいただきながら、ひつまみ、またひとつまみと止まらない。いっしょにたのんだ「抹茶あべかわ餅」もいただくと、おなかの虫も静まり、再びバスに乗った。

「茶源郷」の一角から修験道の行場がある鷲峰山に取り付いた

和束町原山の集落。山間に茶畑と近接して瓦屋根の民家が並ぶ。

バスの終点は「原山」といって和束町中央部の地区だった。ここも山の斜面は茶畑だ。バス停のすぐ近くに「東海自然歩道」の道標があった。矢印にしたがって山道を登り始めた。初めは広かった舗装路は次第に狭くなり、軽トラが精一杯になると曲がりくねりながら山の斜面の集落へ入っていった。茶畑に寄り添いながら木造民家がある。平らな石を積んで法面が補強されている。瓦屋根が道ぎりぎりにまで張り出している。茶畑、木造で瓦屋根、石積み……インド・ダージリンかアッサムかと紅茶の名産地を思わせた。西洋人が「お茶の聖地」と憧れるのも納得である。現在、和束町は日本茶の聖地といっていいだろう。近隣では若い人が紅茶や烏龍茶も作っていると聞いた。

鷲峰山は上部の稜線が長く一定高度で延びる。

東海自然歩道は茶畑に隣接して延びていてうれしい。だが、かなり登ったところで自然歩道を東に外れた。鷲峰山(682m)の山頂に向かうバリエーション・ルートに進んだのだ。この山を越えると、もうひとつのお茶の聖地、宇治田原町に下りていける。鷲峰山は東西に長く稜線が延び、遠望すると山頂部は台地のように見える。進んだのは東端から登るルートなのだが、細心の注意が必要だった。「行場」なのである。鷲峰山と書いて「じゅうぶせんorじゅうぶさん」と読む。役小角(634~701)が修験道の修行の山として開いたといわれている。修験道は日本の山岳信仰から生まれた。難所が続く山で修行し、霊験を積んで霊力を身に付けようというのだ。その行場だから、難所が続々と出てくるルートだった。

向かった行場は奇岩怪岩が目白押しの岩場だった!

東海自然歩道から外れて林道を進むと、どうやら鷲峰山の東端の麓に達したようだ。あたりは森が深く薄暗い。遠くから見ると、山頂部の長い稜線は東端でガクンと落ちていた。つまり鷲峰山のうちのもっとも急な登山道の入り口にたどり着いたのだ。目の前は沢だった。大きな滝も見えたので近付いてみた。「五竜の滝」というそうだ。落差は15mといったところか。ここも行場である。滝を後にして登りにかかった。行く手には「護摩壇」「鐘掛」「小鐘掛」「平等岩」という行場が待っている。いずれも奇岩怪岩が目白押しの岩場だ。消えそうだったが赤ペンキでルートが指示してあるのがありがたい。しかし、2つめの「鐘掛」の下で早くも立ちすくんだ。

もっとも下部にある行場「五竜の滝」。
行場「鐘掛」。下からだと上の鎖の様子がわからない。恐怖に勝てず迂回路を進んだ。
岩を避けて回り込むトラバースの道は、カニの横ばいよろしく恐る恐る進んだ。

垂直に限りなく近い岩には、どうにも手や足が掛かりそうな箇所が見付からない。後年のものらしい鎖が下がっていた。だが、それを頼りにしたところで登れそうもない。無理は禁物だ。「帰ろうか?」とひるんだ。それでも、岩の右側に目をやると迂回路があって、モチベーションは復活した。とはいえ楽でなかった。慎重に岩や木の根をまさぐり、手掛かり、足掛かりをしっかり確保しながらゆっくりよじ登った。なんとかなった。だが、岩場は続く。「小鐘掛」をやり過ごし、崖に抱きつきながらトラバースする。チラッと下が見え、あまりの高度に肝を潰した。そして、最後の「平等岩」は大きな岩で、やはり垂直に近いのであった。鎖はない。迂回路があるにはあったが岩の裂け目のようなところだった……。

「平等岩」を登ると、それまでと一転して視界が開けた。
役小角の像があったのは行場の起点であり終点の位置だった。多くの人が手を合わせ、神の領域に近付きたいと願ったことだろう。

西洋由来の登山が定着したのは、日本式の登山文化があったから?

行場をなんとか終え、役小角の像の前に立った。先達は遠い。そう感じて手を合わせた。通ってきたので南半分なのだ。北半分に下りの行場がある。周回ルートなのだ。修験道の先達は相当なクライマー、登山家であるのは明白だった。また、先達は自然の伝道者でもあったはずだ。修験道は山岳信仰から生まれ、やがて仏教のうちの密教と結び付いた。そして、全国各地に行場ができた。本拠は紀州・熊野の北に位置する大峰山から奈良・吉野の金峯山までのルートである。かつて鷲峰山は「北大峰」とも呼ばれ、大峰山に匹敵する繁栄を極めた行場だった。しかし、明治に入って廃仏毀釈、修験道禁止令により衰退を余儀なくされてしまったのだ。長い稜線に沿うように西へ延びる古道をたどり、金胎寺の境内に入った。奈良時代に開かれた寺で、真言宗醍醐派の別格本山である。

金胎寺の多宝塔は鎌倉時代の建造で国の重要文化財に指定されている。

京都学派の巨星のひとりに、梅棹忠夫(1920〜2010)がいた。幸運にも、わたしは生前にお話を聞く機会に恵まれ、この人の縁から始まって京都に移住した。民族学、比較文明論を専門とし、京都大学教授、大阪・千里の国立民族学博物館初代館長を歴任した。西陣の商家に生まれた生粋の京都の町人だ。「京都は日本の中でもっと都市らしい都市なんです」と何度も聞いた。弁舌は鋭いが物腰やわらかく、たくみに論争を避け、相手を煙に巻く。だが、優しい人だった。

歴史の見方は独特で、日本の近代は江戸時代後期の文化文政時代(1804〜1830)にすでに始まったというのが持論だった。わたしたちは、日本の近代は明治からと教えられてきたが、梅棹さんは明治からのは西洋化であって近代化ではないと譲らなかった。西洋の様式を受け入れようにも、自前の素地がなければ定着しない。そこが大切さと気付け、ということだったのかもしれない。「日本人は、いいものは全部他所からきたものだと考える。舶来崇拝やな」ともいっていた。

登山家でもあったので、その歴史観は登山史にも反映された。日本人の登山は明治に西洋から伝来して始まったと定説的にいわれる。確かに、登山靴、ピッケル、テントといった道具、ザイルワークなどの技術は西洋由来だ。しかし、もともと日本には山岳信仰にもとづいた「登拝」という登山文化があった。これが西洋の登山文化を受け入れた自前の素地だというのが、梅棹さんの登山史観だった。

京都大学の南にある聖護院は天台系修験宗の総本山だ。修験道は、禁止はされたものの仏教の一部としてしたたかに生き延びたのだ。聖護院といえばお菓子の八ツ橋の老舗が有名か。界隈の町名でもあるのだ。その総本家に近接した大きなお寺さんが聖護院である。梅棹さんの父親は、この聖護院派の先達だった。家業の経営とともに、能の謡、煎茶道もたしなみ、修験道では元鱗組という講を組織し、まだ経験の浅い者を連れ、せっせと行場のある山へ行っていたそうだ。

修験道の講は江戸時代に大きく発展した。その伝統を受け継いだ父親を間近に見てきた梅棹さんは、修験道の講を日本式の「大衆登山団体や」といっていた。先達というリーダーがいて講という登拝、修行のパーティーができる様子は、わたしたちも享受する西洋由来の登山、山仲間でパーティーを組んで山へ行くの同じだというのだろう。梅棹さん自身は、旧制中学時代には山岳部に入って西洋由来の登山を日々行う一方、修験道の先達である父親とも山に登った。そして、中学の最後の夏には山岳部の遠征を企画して吉野、熊野という修験道修行の本拠を山旅した。もちろん、鷲峰山にも登り、立派な山岳誌を書いた。そして、そこで、こう結論した。「この鷲峰山は南山城らしい味をもつ真の南山城の山である」。

京都と出雲の縁で知った民衆の器で抹茶を楽しむ

金胎寺の境内を出て、下りにかかった。東海自然歩道で宇治田原町へ延びる。ほどなくベンチとテーブルが置かれた屋根付きの休憩所に出た。トイレもある。そこで抹茶を点てた。作法を習ったわけではなく、無手勝流である。野点というまでにはいたらないのだが、ときどき道具をザックに入れて山に入る。火を使うのが許されれば湯を沸かす。沢の水をすくうこともある。上手くいっているとは思わない。しかし、湯が沸くのを待ち、茶筅を振るってお茶を作り、ひとときゆっくりいただくうちに、気持ちが鎮まっていくようで好きなのだ。

そんな楽しみは島根県出雲市の出西窯の「ぼてぼて茶碗」に出会ってから始まった。もう30年も前だ。お茶どころの島根県には、たたら製鉄やら野良仕事やらをやりながらいただく「ぼてぼて茶」というのがあった。お茶漬けである。ご飯にお漬物などを加えてお茶を入れ、長めの茶筅でざっざっとかき混ぜ、いただくのだ。そのための茶碗だから抹茶碗でない。値段も手頃である。とはいえ同じように使えるし、何より丈夫だ。アウトドアと相性がいいだろうと、京都にきてから出西窯に注文して少しずつ集めていった。

焼くことができるのは4色だといわれ、すべての色を買い揃えた。
「Kanjiro’s House」として外国人の訪問も多い。今年、ニューヨークで初めて海外展覧会が開かれる。

市中の五条坂は清水焼の本拠だ。窯を郊外に移したところも多いようだが、茶碗屋さんは今でもたくさんある。その一角に河井寛次郎記念館がある。河井寛次郎(1890〜1966)は陶芸家であり後年は木工でも独特な世界観を表した。大正末から昭和の初めに、仲間たちと民藝運動を始めた。民藝運動は、近代化、西洋化の中で失われつつあった、各地に昔からある生活道具に光を当て、積極的に使おうという生活改革運動だった。地方の伝統文化を再構築しようとした点では、今でいう地方創生のさきがけであり、社会改革運動でもあった。寛次郎は20代から五条坂に住んだが出身は島根県安来市だ。同郷の縁もあって、戦後すぐに農家の次男、三男たちが陶芸の知識も技術もなく始めた出西窯の若者たちを支援した。そして、出雲の風土が育てた民衆の器、「ぼてぼて茶碗」を残せと勧めたのである。

「仕事が暮し、暮しが仕事」の言葉を残した寛次郎が、自身で設計した仕事場と住居をたくみに合わせた建築が今の記念館である。じつは、寛次郎の娘婿である河井博次(1919〜1993)は梅棹さんの旧制中学の同級生で、両家は親しく交流していた。ご遺族が北白川の梅棹忠夫旧邸をギャラリーにしたとき、そのお祝いもあって博次さんの娘さん、つまり寛次郎の孫である珠江さんが茶会を開いた。贅沢にも寛次郎の茶碗でいただこうというものだった。そのとき珠江さんがいった。「出雲の人はお抹茶もよく飲まはります。それも作法にあまりこだわらずに薄めで。いってみれば抹茶のアメリカンですよ」。確かに、若い頃に出西窯で点てていただいたのも、そういう抹茶だった。

鷲峰山を宇治田原町へ下ると、もうひとつのお茶の聖地だった!

永谷宗円の生家は土曜、日曜、祝日のみ内部見学ができる。維持管理協力金200円。

抹茶をいただき終え、鷲峰山からの下山を再開した。やがて東海自然歩道を外れて古い登山道を進んだ。ひとつ東の谷に下りるルートである。湯屋谷という谷だ。帰りのバスが出る操車場には遠くなるが、湯屋谷を通りたかった。地元の人々は「やんたん」というそうだ。登山道は森の中を通り、やがて大神宮社の境内に出た。この神社には茶宗明神が合祀されている。江戸時代中期に現代の煎茶の基礎となった青製煎茶製法を開発した永谷宗円(1681〜1778)も祀っているのだ。宗円は湯屋谷の庄屋に生まれた。生家は神社の目の前だった。生家は現在、しっかり復元されてもともとあった地に往時の佇まいのまま立っている。

大神宮社の境内から撮影。参道を経て鳥居の向こうに湯屋谷の集落が続く。

98歳まで生きたというから、老境にいたった姿は、おそらく後年授けられた茶宗大明神にふさわしかっただろう。しかし、存命中に煎茶の繁栄を見ることはなかった。喫茶において、煎茶を主体にした町人文化が抹茶中心の上級文化を凌駕するのは、宗円が没してから四半世紀ほどたった文化文政時代だった。どうも、梅棹さんがいう通りらしい。この時代に旧政権を武力で倒す近代革命はなかった。おそらく、それまでお茶も味わえなかった町人たちが、血を流さない静かな革命を起こしたのだろう。

軽トラックの荷台に山積みしてきた抹茶用の茶葉を下ろす農家の兄さん。

永谷宗円のゆかりの地を後にし、さらに下っていった。煎茶が普及していくと、湯屋谷にはお茶農家に加えてお茶問屋が軒を連ねるようになった。往時を彷彿させる町並みは今も残り、鷲峰山の反対側の和束町にある茶畑の広がりとともに「日本遺産」になっている。ちょうど、お茶農家の若い兄弟が軽トラに山のようにお茶袋を積んで帰ってきたところに出会した。「うちのお茶は抹茶用ですわ。抹茶にするお茶は日除けを掛けて育てますのや。刈り取った茶葉は蒸した後、煎茶のように揉まずに乾燥させるのや。それから石臼で挽いて粉にします。昔はうちでもやっていましたが、今は製茶業者さんに茶葉を出荷するだけです」。

昨年、京都府の抹茶生産は史上最高となった。外国人人気が後押ししたのだ。こっちはまとめ買いができなくなるほどだった。この状況はここしばらく続くのだろう。まとめ買いができないなら、こまめに買えばいいし、煎茶がある。急須をひとつ買おうか… …やがてバスの操車場に着いた。20km近く歩いただろう。バスは京阪電車「宇治」駅が終点で、そこで降りるから気が楽だった。座席でまどろんでいるうちにウトウトし、気が付いたら終点だった。夕暮れまではまだ時間があった。平等院のほうのお茶問屋街へ行き、人気の中村藤𠮷本店に寄ってみた。

写真の竹筒に入った抹茶パフェは期間限定。あるかないかはお店に確認する必要がある。

経路/JR「京都」駅→「加茂」駅→奈良交通バス→「和束山の家」バス停→和束茶カフェ→「和束山の家」バス停→「和束町原山」バス停→徒歩→鷲峰山の行場→金胎寺→湯屋谷→大神宮社・永谷宗円生家→「維中前」(宇治田原バスセンター)バス停→京阪バス→京阪電車「宇治」駅→「出町柳」駅

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藍野裕之

ライター・編集者

あいの・ひろゆき 1962年東京生まれ。東京と埼玉を転々としてきたが、50歳を過ぎて京都に移住。現在は京都の山に遊び、京料理に耽溺し、ときどき京都学を紐解く。著書は『梅棹忠夫』(山と渓谷社)、『ずっと使いたい和の生活道具』(地球丸)など。編集作品はビーパル本誌連載をまとめた山極壽一著『森の声、ゴリラの目』(小学館新書)、『出西窯と民藝の師たち』(青幻舎)など。

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