スリランカでの遺跡探検を半世紀以上続けている75歳の現役探検家、岡村隆さんが語る「探検へのこだわり」
探検家・関野吉晴さんが、時代に風穴を開けるような「現代の冒険者たち」に会いに行き、徹底的に話を訊き、現代における冒険の存在意義を問い直す──BE-PAL8月号掲載の連載第25回は、2019年に70歳で植村直己冒険賞を受賞した岡村隆さんです。
「私はあくまでも探検家です。自分の中では探検と冒険を峻別しています」と語る岡村さんは、探検と冒険をどう定義しているのか? 関野さんが迫ります。その対談の一部をご紹介します。
関野吉晴/せきの・よしはる
1949年東京都生まれ。探検家、医師、武蔵野美術大学名誉教授(文化人類学)。一橋大学在学中に探検部を創設し、アマゾン川源流などでの長期滞在、「グレートジャーニー」、日本列島にやってきた人びとのルートを辿る「新グレートジャーニー」などの探検を行なう。
岡村隆/おかむら・たかし
1948年宮崎県生まれ。法政大学探検部OB。本業は雑誌・書籍の編集者で、『泥河の果てまで』(講談社)など小説も執筆。スリランカのジャングルでの遺跡探検を50年以上続け、その間に約250の遺跡を発見した。その功績により、2019年、第23回植村直己冒険賞を受賞。
冒険は行為自体の困難さに意味がある
関野 岡村さんたちの探検はこれまでスリランカで約250の遺跡を発見していますが、発掘はしないんですか?
岡村 発掘は考古学の世界です。もちろん必要な考古学の勉強はしていますが、本気で考古学をやろうとしたら、250の中のどれかひとつに絞り、他の遺跡を全部捨ててそこに全精力を傾けて発掘をやらなければなりません。しかし、発掘は探検と違ってものすごくお金がかかりますし、権利・許可の問題もあります。それはできません。だから、探検で遺跡を探し出して、地上に出ている物をきちんと記録して、後の考古学者が発掘・調査するための資料を提供する――私がやるのはそこまでです。私はあくまでも探検家です。
関野 探検部の人間って探検にこだわっていて、冒険家といわれると、皆、「違う、探検家です」と否定しますよね(笑)。私もそうでしたが、最近はどうでもいいやと思い始めています。
岡村 私も、探検と冒険の違いを深く意識しない人に対して目くじらを立ててもしかたないと思うようになりましたが、とはいえ自分の中では探検と冒険を峻別しています。
関野 岡村さんは、探検と冒険の違いをどう考えているのですか?
岡村 人によっていろいろな説明がありますが、冒険はその行為自体におもな意味を認めてやること、探検は行為の先に何か目的があってやること、というのが私の説明です。たとえば、スリランカのジャングルで、「ここからあそこまで途中に崖があるかもしれないし猛獣が出てくるかもしれないけれど、誰も行ってないところだから突っ切って行こうぜ」というのが冒険です。行為自体の困難さに意味がある。一方で、同じジャングルに入って行くにしても、遺跡の発見という目的を持っていたら探検です。
関野 目的とは社会的意義ともいい換えられます。でも、たとえばコロンブスの新大陸発見はヨーロッパの人びとにとっては意義がありましたが、アメリカ先住民にとっては帝国主義の尖兵という悪魔でした。社会的意義は社会的悪魔にもなりうるわけです。だから最近は、冒険のほうがピュアでいいなと私は思っています。
岡村 たしかに、冒険家は探検家にくらべてとても純粋です。われわれ探検家は目的を持っているので濁っていますよね(笑)。
この続きは、発売中のBE-PAL8月号に掲載!
公式YouTubeで対談の一部を配信中!
以下の動画で、誌面に掲載しきれなかったこぼれ話をお楽しみください。