- Text
CONTENTS
JR仙台駅から陸路、三陸自動車道を経由して牡鹿半島のリアス式海岸の入り組んだ道を走ること1時間半強。うねうねとした峠道を超えて、海のそばに降りていくと、巨大なコンクリートの防潮堤が壁のように現れます。
この防潮堤は、震災後に津波対策のために漁村がある各港に宮城県が整備したものです。漁港なのに陸側からは全く海が見えません。その圧倒的な存在感に驚かされながらさらにひとつ峠を越えると、絵に描いたようなのどかな漁村が見えてきました。そこが目的地の鹿立(すだち)漁港でした。

15年前の津波で何もかも失った集落

このエリアには威圧的な防潮堤はなく、陸から海が見渡せます。昨夜からの強風に吹き飛ばされて、天気は雲一つない気持ち良い五月晴れ。照りつける陽光に水面が輝いて、のどかで美しい、実に気持ちの良い場所です。15年前、未曽有の震災と津波に襲われた地とは夢にも思えません。
震災直後より鹿立浜の牡蠣養殖業復興を先導してきた漁師の石森裕治さんに、当時の辛い思い出話や、そこからの長い復興の道のりをお聞きしました。
「震災直後、手分けして家族を高台に避難させ、漁師仲間と船を沖に出したんだ。しばらく走らせて船のGPSをみてみると、散々走ったはずなのに船の位置がほとんど変わっていない。機械は壊れていないし、“あ、これは津波に押されて戻されてるんだ”って気が付いた。すぐに無線で仲間に“全速力でペラ回せ!”っていって、なんとか沖合に出た。
翌日、もう津波も引いただろうって頃に港に戻ってみると、辺り一面ほうきで掃いたみたいに何にもない。地面のコンクリも全部めくれていて地肌が見えてるんだ。牡蠣の共同処理場もタンクもないし、家が建っていたはずのところにも残骸すら残っていなかった。現金も家財道具も着替えもない。海に出た時に着ていたものだけで、本当に着の身着のままだった」(宮城県漁業協同組合石巻市東部支所運営委員長・石森裕治さん)

栄養分が豊かな石巻の海は、日本のカキ養殖のルーツ
牡蠣の養殖といえば生産量日本一の広島を思い浮かべますが、現代に続く日本の牡蠣養殖業のルーツは石巻市にあります。旧北上川の河口に位置し、森の豊富な栄養分が注ぎ込む牡鹿半島の万石浦(まんごくうら)が種牡蠣・牡蠣の養殖業の最適地として注目され、日本の牡蠣養殖の父といわれる宮城新昌がこの地で「垂下式養殖法」を確立させたことが国内の牡蠣養殖の始まりと言われています。
いまでは全国2位の水揚げを誇る牡蠣の産地・石巻市の牡蠣養殖業は、この時の津波で壊滅的な被害を受けました。

一般的に、牡蠣養殖は穏やかな湾内に牡蠣棚を並べて育てますが、この地区の牡蠣は世界でも稀な潮流の激しい外海で育ちます。垂下式養殖法で海面から10メートルの長さのロープを垂らし、一定期間浅瀬で育てた後、潮通しのよい沖に出して荒波にさらすことで、栄養価が高く引き締まった身をつけるのです。名付けて「荒波牡蠣」。
住んでいた家も漁港の施設もすべて洗い流した津波は、石森さんたちが丹精込めて育てていた荒波牡蠣にも襲い掛かりました。生活の糧を根こそぎ奪われ、自然の驚異の前に意気消沈していた漁師たちでしたが、文字通りゼロから再び立ち上がります。若手の漁師たちが牡蠣養殖再興のための調査で海に潜ってみると、わずかですが種牡蠣が生きているのを見つけました。
「これならばやれるんじゃないか」と希望の灯りがみえてきたといいます。
誰もやったことがなかったワカメの養殖が浜を救った

石森さんは仲間を鼓舞して環境を整え、しばらくの間の生業としてあらたにワカメの養殖業も立ち上げます。牡蠣の養殖は出荷できるようになるまで最短でも3年の時間が必要。「その間、無収入ではみな食い詰めちゃうので、4か月で出荷できて現金収入につながるワカメの養殖を始めることにした」(石森裕治さん)のです。
復興支援のために従前同様の漁業活動に関する融資は優遇措置がありましたが、ワカメに関しては牡蠣に加えて新しく立ち上げる事業となり、借金がかさみます。すべてを失った上にさらに借金を背負うことに躊躇する漁師も少なくなかったそうですが、石森さんのリーダーシップで共同体をまとめあげて、見事、ワカメ養殖業も軌道に乗せることに成功しました。
「ワカメっていっても道具から何からいちから全部用意しなくちゃならない。経験もないし、借金こさえて大丈夫なのかって、最初はみんな不安で3人しか手を挙げなかった。でもたまたま息子がその時、ワカメの会社で仕事覚えて帰ってきていたんで、息子に頼んで全部教えてもらってやった。そしたら即お金が入ってきて助かったのよ。それから15年経ったいまでもワカメの収入のおかげでなんとかなってる。牡蠣だけでは借金も返せないし家も建たない」(石森裕治さん)
そして、なによりも浜の復活を支えたのは、地域の若手漁師の存在でした。
「やっぱり後継者がいたのが強みだ。浜では後継者がいなければその代で終わり。でも、ありがたいことにこの地区にはお嫁さんも来てくれて、子どもたちも生まれた。震災でくじけそうになった牡蠣のオーナー制度も、若い連中が“大丈夫、やれる”って。最初は借金漬けでどうやって返そうと思ったけど、若い連中が牡蠣もワカメもがんばって震災前よりも多く水揚げしてくれた。若い連中の努力、やる気のおかげでここまでこれました」(石森裕治さん)
今も続く、支えてくれたボランティアとの縁と絆

「そしてボランティア。日本全国から来てくれたボランティアの皆さんにお世話になった。震災後に土砂で埋まった地面をひと月かけて片付けてもらったんだけど、ようやくきれいになったと思ったら、翌日の大雨で山津波にあってまた埋まってしまって、もうショック受けてね。ボランティアのリーダーに“もうやっても無駄だ”っていったんだ。そしたら“石森さん、何言ってんの。もう一回、最初からやればいいだけじゃない”って言われてさ。その時、“ボランティアってスゲー”ってなった。マンパワーってすごい。
あの時の辛い思いはいまだにあるし、もうあんな経験したくないって思いもある。でも、津波が来たからボランティアの人たちとも出会った。決して津波のおかげなんてものじゃないけど、一生のつながりっていうか絆っていうのができた。15年経ったいまこうして浜に出ているのも、日本全国から来てくれたボランティアの皆さんのおかげです」(石森裕治さん)
一時は存続が危ぶまれた荒波牡蠣の養殖業は、牡蠣漁師たちの努力と、復興支援のボランティアの手を借りながら見事に復活を果たしたのです。震災後も生産者が減少しなかった唯一の地域、鹿立の荒波牡蠣には、こんなバックストーリーがあるのでした。

現在、この地区では7世帯が力を合わせてそれぞれに家族経営の牡蠣・ワカメ養殖業を行っています。この日の交流会でも、次世代を担う子どもたちの明るい声が響き、若い漁師の家族が中心になって浜のBBQや牡蠣をふるまう姿が印象的でした。
自然相手の仕事だから良いことも悪いこともある

「津波に流された沖の防波堤も元通りになった。地盤沈下した漁港も2メーター埋め立てて元通りになった。震災前と比べても、以前より良くなった、発展した部分はあります。でも、自然相手の仕事だからいいこともあれば悪いこともある。去年は海水温が高くなりすぎて、育成の段階で牡蠣の稚貝の大半がやられちゃった。気候変動とか温暖化の影響なのかな。海面から3メートルくらいまでがやられたっていうなら、ロープを3メートル下げりぁいいんだ。でも、10メートルのロープの上から9メートルまでがやられちゃってんだから。今年の牡蠣はあきらめるしかないと思ってます。なんとかワカメとか他の魚で食いつないで、来年に向けて頑張るしかない。自然相手だから」(石森裕治さん)
自然に抗うのではなく、自然と向き合い折り合いをつけながら暮らしていく。そんな自然体の漁師たちのたたずまいが、のどかな鹿立浜の漁港の雰囲気を醸し出しているようにも感じました。
「本当はうちの共同処理場の前にも8メートルの防潮堤を作るはずだったんだけど、それだと警報出ると電動で自動で閉まっちゃうから、沖に逃げた船は帰ってこれない。東日本(震災)の時にはあの沖の防波堤だって跡形もなく流されたんだ。またあの時みたいな津波が来たら、(陸側の)防潮堤だってひとたまりもない。自然の力の前ではどうせ壊されてしまうから。それなら普段の暮らしの時に壁にさえぎられて海が見えないのは嫌だなっていうんで、でっかいコンクリの防潮堤はいらないってことになった。
だからこの港はほら、海が見えるんだよ。防潮堤はいらないからその分、お金でちょうだいといったら、ダメって言われちゃったけどね(笑)」(石森裕治さん)

荒波牡蠣同様、鹿立の海の男たちも気候変動の荒波にもまれながらも力強く、今回の牡蠣の育成不良のピンチだって乗り越えて行くに違いありません。
この地区では牡蠣の種付けや収穫など、人手が必要な時期にボランティアの働き手を募っています。応援の気持ちを込めて、一度、足を向けてみてはいかがでしょうか。




