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第5回 六根清浄、お山は快晴
さて、連載も最終回となりました。今回は実際に富士山に登って感じたこと、気がついたこと。ぼくたちにとって、富士山とはどんな存在なのか。また富士山にかぎらず、現代の社会で山に登ることは、どういう意味をもっているのか。そのあたりもドーンと考えてみたいと思います。
上吉田の御師の家、大国屋さんで一夜を過ごした翌朝の午前8時。天気は引きつづき快晴である。ぼくたちはバスで5合目の小御嶽神社(こみたけじんじゃ)に来ている。ここで宮司さんから登拝の安全祈願を受ける。バスやマイカーで登ってきた一般の登山者も、5合目で一時間くらい過ごすのが通例になっている。高山の気圧に慣れるためである。

今回の富士登山、ぼくは気力も体力もいまひとつなので、5合目で待機させてもらうことにした。世田谷の本部から一緒にやって来た人たちのうち、元気な若手を中心20人ほどが8合目を目指し、高齢者や子どもを含む10人ほどが、ぼくと同じように5合目に残るといった割り振りである。
ぼくの最初の富士登山は2017年で、そのときは山頂まで登った。当時と比べて、小御嶽神社をはじめ、売店やレストハウスのたたずまいは変わっていないようだが、とにかく人が多い。8年前はこれほどではなかった。まさにごった返しているといった感じである。とくに外国人が目立つ。いま日本の主な観光地はどこもインバウンド中心だが、富士山も例外ではないようだ。
事故も毎日のように起こっているらしい。ぼくたちが到着したときも、ちょうど救急車が怪我人を収容しているところだった。乗馬用のお馬さんが遭難者の救助に向かうことも多いと聞く。ちなみに料金は、獅子岩下まで15,000円となっている。迎えに来てもらうわけだから、往復で30,000円。さらに夜間および雨風のときは30%割り増しとある。6合目のちょいと先で動けなくなったら、たちまち30,000円~39,000円の出費である。これは痛い! 体調をととのえ、天候や体力とも相談しながら慎重に登りたいものだ。

変わったことといえば、管理センターのところに赤い鉄の門ができている。知る人ぞ知る富士の関所である。ここで通行手形を見せなければならない。ぼくたちは事前にピンク色の腕輪をもらっている。関所といっても、箱根の関所跡に再現されているような大仰なものではなく、ときどき見かける女人結界門に近い。しかし関所は関所である。怪しい者は大門で止められます、というのは吉原を舞台にした落語『明烏』のオチだが、あまり軽装備の人はNGということはあるそうだ。そうして近くのモンベルに連行される……わけではないだろうが、下界ならワークマンなどで安く済ます手もあるが、ここでは他に選択肢がないないのは事実である。そのあたりもよく考えたいものだ。

もう一つ気がついたのは、頂上付近に雪がまったくないことだ。8年前にはちゃんと雪があった。反対に植物が進出している気がする。赤茶けた斜面だったところが緑っぽくなっている。インターネットで調べてみると、5合目付近の森林限界が、ここ何十年かで上昇しているという調査報告みたいなものが出てきた。地球温暖化などの気候変動が影響している、と研究者はみているようだ。今後も温暖化が進行すれば、日本各地で森林限界のラインが上昇し、植生が変わってしまうことが懸念される。

時刻は午前9時半になっている。登攀組はいよいよ登山開始である。このとき「六根清浄、お山は快晴」と唱えながら登る。信仰的な意味合いもあるが、深呼吸状態となることで高山病を防ぐ効果もあるらしい。歩きながら腰に吊るした鈴の音が、涼やかな風を運んできてくれる。
富士山を高さによって、「草富士」「木富士」「焼富士」と三つに分けて呼ぶことがあるそうだ。草富士は朝霧高原のように、ススキや野草が生えて、牧草地や畑が広がっているところ。標高500メートルから1000メートルといったところだろうか。木富士は吉田口の5合目あたり、標高にすると2500メートルくらいまでだ。そこから上は草木があまり育つことができず、土砂、石、岩に覆われた焼富士になる。いわゆる森林限界である。
落石避けのシェルターを抜けると6合目。標高は2400メートルくらいになっている。そろそろ森林限界だ。背の高い木は姿を消し、地面は赤茶けた小石まじりのザラザラした土になる。斜面に背の低い植物がまだらに群生している。主にオンタデとイタドリという種類で「パイオニア植物(先駆性植物)」とも呼ばれる。
このあたりの地面は土というよりも、ほとんどが砂利や小石である。当然、水も養分も少ない。風で飛ばされたり、雨で流されたりして土壌も安定しない。普通の植物は生育しにくいコンディションだが、オンタデやイタドリは地中に深く根を伸ばすことによって生きていくことができる。枯れると自らが養分になる。そうして他の植物たちが生育しやすい環境をつくっていく。まさにパイオニア(先駆者)である。両種とも可憐な高山植物というわけではないけれど、富士山の緑をつくるのに大きな役割を担っている。
午後1時、7合目の「富士一館」という山小屋に到着。この山小屋には神殿(というか立派な神棚)が設けられている。「無事ここまで登らせていただきました」というお礼の気持ちを込めて、簡単な神事を執り行う。講中は全員「おつたえ」という小冊子を携えている。印刷されているのは、いわゆる「祓詞(はらえことば)」である。儀式に応じて、そのなかから幾つか見繕って唱える。ここでは「身禊祓詞」という比較的短いものと、最後にかならず唱える「御神語」「御神名」である。それが終わると昼食、各自がいなり寿司やうどんをいただく。

腹ごしらえを済ませた一行は、8合目の冨士山天拝宮(ふじさんてんぱいぐう)を目指す。ここが今回の登拝のゴールになる。東京都世田谷の扶桑教の太祠から、「御神實(みかんざね)」とよばれる、絹に包まれた箱に入った「御神鏡」を天拝宮へ届けることが、この登山の最大の目的であり、また他の登拝には見られない、扶桑教が独自に守り伝えているものである。

信仰に不可欠の霊地
富士山にまつわる神話伝承の歴史は古く、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折に現在の北口を開いたとする記述が『古事記』や『日本書紀』に見られる。時代が下ると、聖徳太子や役行者(えんのぎょうじゃ)による登山・開山などが伝えられている。現在に至る富士信仰の伝統は、富士山北麓を中心に活動した藤原(長谷川)角行(1541~1646)にはじまるとされる。
肥前国長崎に生まれた角行さんは、18歳のときに治国済民祈願のため諸国巡礼の旅に出る。そして元亀3年(1572)に北口登山道を開き、霊峰頂上に立って富士道なるものを興す。ここから富士山の厳しい自然の中を登山修行し、天地平安・萬人安福を祈る冨士講が組織される。その後、隆盛をきわめた富士講は、江戸中期には伊勢詣り、金毘羅詣りとともに、「三大詣り」として江戸庶民のあいだに深く根付いていく。
角行さんから数えて6代目にあたるのが、富士講中興の祖といわれる食行身禄(じきぎょうみろく)である。俗名を伊藤伊兵衛といい、伊勢国一志郡に生まれた。江戸で商いをして財を蓄えたのち富士講を志し、60歳のときに蓄財は悪であるとして財産を処分してしまう。「食行(じきぎょう)」というのは聞き慣れない言葉だが、要するに食を断って修行することをいう。円空とともに「造仏聖」と称される木喰(もくじき)という人がいる。彼の場合も、木の根っこばかり食べていたわけではないにせよ、滅罪や作善のために、五穀なり十穀なりを断って菜食のようなことをしていたのだろう。
食行身禄も、庶民救済のために断食修行により入定したことから、この名で呼ばれる。彼が断食入定を決意した直接のきっかけは、享保17年(1732)の大飢饉だったという。江戸の四大飢饉といわれるものは、いずれも冷夏、大雨、干ばつなどの異常気象によって引き起こされたものである。加えて享保の大飢饉では虫害も深刻だったらしい。
瀬戸口明久さんが書かれた『害虫の誕生』という、とても面白い本がある。それによると明治のはじめまで、害虫の発生は「神罰」と考えられていたそうだ。つまり自然災害と同じように一種の「天災」であり、人間の手によってはコントロールできないとされていた。そんな自然観も、食行身禄の富士入定の背景にはあったのかもしれない。
古代より人身御供は、人間の願いを神に伝えるための有効な手段と考えられてきた。中国などでは、日照りがつづくと巫女などを焚殺(焼き殺す)した。白川静さんによれば、儒家の「儒」は「雨を求める人」という意味で、雨乞いのときに焚殺される身分の人々だったそうだ。こうした背景から考えても、食行身禄の断食入定が、人々の苦しみを救いたいという、利他の思いに駆られたものであったことは間違いないだろう。
8合目の手前に「亀岩」という亀の甲羅に似た大きな岩の出っ張りがある。現在の登山道からははずれるが、ここには古くから湧水があり、食行身禄はその水を飲んでいたらしい。記録によれば、彼の断食修行は31日間に及び、その間、一日一椀の水だけによって命をつないでいたという。そして享保18年(1733)7月13日、63歳で入定を果たす。
食行身禄が入定した場所が、8合目にある烏帽子岩と呼ばれる岩穴で、現在は「烏帽子岩神社(えぼしいわじんじゃ)」として冨士山天拝宮の奥に鎮座している。つまりここは、食行身禄が断食修行の末に即身仏になられたという、富士講にとって最も神聖な場所なのである。

身禄入定のあと、遺体を納めた石棺の上に小さな祠を建てて、身禄堂・元祖室と称されてきた。その後、明治15年に、冨士山頂上の金明水脇にあった天拝所を8合目に降ろし、元祖室に移し合わせて冨士山天拝宮とした。以来、冨士信仰に欠くことのできない重要な霊地として、信者たちの信奉を集めている。
その天拝宮において、到着御礼の儀式が執り行われる。いつもの「身禊祓詞」を唱えたあと、全員がお祓いを受ける。つづいて「大祓詞」という、やや長い祓詞をみんなで唱える。これが終わると「天拝神事」に移る。祝詞が読み上げられ、さらに薄暗いお宮のなかで、ちょっと不思議な儀式がはじまる。「教師」とよばれる神職によって、御神實の底の部分を行講の者たちの頭に押し付け、念を入れてもらうのである。
この間、「御神語」を唱えつづける。異体字が使ってあるので平仮名で記すと、「こうくうたいそく みょうおうそくたい じゅっぽう こうくうしん」という文言で、神人合一の境地に身を置くという意味があるらしい。
ご来光が照らし出すもの
時刻は午後7時になっている。天拝宮での神事を終えたあとは、隣接する元祖室という山小屋で一泊する。午前2時ごろには山頂へ向けて出発するので、実質は仮眠という程度だ。午前2時などというとんでもない時間に出発するのは、ご来光を拝むためである。ちなみに富士講では、山頂でご来光を見ることは厳禁とされ、かならず少し手前の9合目か、9合5勺目のあたりで仰ぎ拝む。富士講にかぎらず、富士信仰では富士山がご神体である。その頂上に立つことは、神様の上に立つことになるから慎まなければならない、という道理である。
8年前の登山のときも、山頂ではなく8合目付近でご来光を見た。やはり同じ時期で、日の出は午前4時半ごろだったと思う。日の出とともに、思わず手を合わせて拝んでしまう。ぼくだけではない。みんな自然に手を合わせている。拝んでいる。初日の出のときもそうだけれど、昇ってくる太陽を見て「ありがたい」という気持ちになるのは、どういうことなんだろう? きっと一人ひとり、いろんなことを考えながら手を合わせているのだろう。拝んでいるのだろう。祈っているのだろう。

ミヒャエル・エンデが書き留めている忘れがたいエピソードがある。一度だけ会う機会があったという、ロシア人の人形つかいの話だ。大戦中、何年もナチスの強制収容所に入れられていた彼は、ほんのひとつまみの練りジャガイモから小さな指人形を作って、子どもたちの前でおとぎ話を演じてみせた。すると子どもたちの多くは笑みを浮かべた。人形つかいが演じたのは子どもたち自身の運命であり、彼らの死だったにもかかわらず。大人の囚人たちにも同じことを演じてみせた。
しばしば死刑の執行前夜に、かれは死刑囚とともにその運命を演じてみせたのです。そして、かれが演じたかたちが、死刑囚に自己への尊厳をふたたびよびおこしました。死刑囚は死ぬ運命をまぬがれなかった。それでも死に方がちがいました。やすらかでした。なぐさめのなかで死んだ人さえいました。(「永遠の幼きものについて」田村都志夫訳)
なぜ死刑囚たちは自己への尊厳をふたたびよびおこされたのか? 大いなる「善」に触れたからだと思う。それはナチスの悪を包み込んでしまうほど巨きなものだった。そのとき死は様相を変えただろう。「それでも死に方がちがいました」とエンデは書いている。「やすらかでした。なぐさめのなかで死んだ人さえいました。」まるでエンデ自身の祈りのようだ。
ぼくたちもいま、大いなる「善」に触れているのだと思った。ここには善良なものしかない。善良なものだけが、朝の冷たい空気のなかで純化されて、昇ったばかりの太陽に照らし出されている。それは個人の小さな善ではなく、もっと遥かに規模の大きな善、人類的な善だ……と地上で考えると大げさで嘘くさくなるようなことも、ここでは素直に、謙虚に実感できる。美しいご来光のおかげなのか、それとも富士山という場の力なのか。
日本人の信仰の原型がある気がした。きっと古くから、人々は自分が信じたい神を、信じたいように信じてきたのだろう。その本質は「自由」ということだ。素直にしておおらか。最初に「ありがたい」という気持ちがある。美しい日の出を見て、富士山のような立派な山を見て、思わず手を合わせたくなる。それが日本人の原初の宗教的体験だったのではないだろうか。その体験は、いまぼくたちが体験していることと変わらなかったはずだ。
富士というお山の魅力
このあと一行は頂上へ向かい、山頂の山小屋で朝食をいただく。メニューはカップ麺かうどんだが、いままで食べてきたどんなものよりうまい、と多くの信者が口を揃えるそうだ。同感である。これも富士山のご利益だろう。しばくらく休憩して、希望者は吉田口の頂上にある、富士山本宮浅間大社の末社「久須志神社(くすしじんじゃ)」で焼印や御朱印をもらう。

午前6時過ぎに富士山頂上の浅間大社奥宮へ移動。久須志神社からは40分ほどだ。ここで白装束の背中に巨大な判子を押してもらう。この背中の判子こそ、冨士登拝修行を終えた証であり、何個も押してある白装束は、数重なる登拝を経てきたことを示している。かつては7回の山頂登拝を達成した者にかぎり「先達」と称されたらしい。現在と違い、江戸市中から徒歩でやって来て登るわけだから、並大抵のことではなかっただろう。これを33回達成した者は「大先達」と呼ばれた。ほとんど超人である。

さて、無事に判子もいただいた。さらに余力のある者は、標高3776メートルの「剣ヶ峰」まで登る。途中に「馬の背」と呼ばれる心臓破りの坂があるので、体力に自信のない人は、無理をせずに久須志神社へ引き返す。健脚組は剣ヶ峰を越え、さらに頂上を一周する「お鉢巡り」も済ませてから久須志神社に戻る。待機組と合流したあと、3時間から4時間かけて5合目の小御嶽神社まで下る。

時刻は正午過ぎになっている。昨日、ここを出発したのが午前9時半ごろだから、すでに丸一日以上が経っている。途中、仮眠と何度かの休息を挟んだだけの過酷な修行である。しかも参加しているのは、女性を含む一般の市民である。ごく普通の人たちを厳しい修行へ誘う。このあたりにも富士講の、そして富士というお山の不思議な魅力があるのかもしれない。





