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地球五大陸を駆ける前人未到のランニング
自動車エンジニアがダイエットのために始めたランニング

五大陸走破=トランス アトラス ランニング(以下、TAR)に挑む飯野さんがランニングと出合ったのは20代前半。大学院を卒業後、自動車メーカーに就職し、エンジニアとして赴任したドイツでのことだ。
「ドイツではビールを飲んで、ソーセージをパクパク食べる生活が続き、太ってしまいました。そこでダイエットのために始めたのがランニングでした(笑)」
飯野さんはその後も職場の仲間とサークル活動程度にランニングに取り組んでいたが、そのうち徐々にヨーロッパ各都市で行われるシティマラソンにも参加することになる。
「ストックホルムやフランクフルトのシティマラソンに参加して、周辺を観光して巡ることを楽しんでいました。ところがある日、仲間からスイスにトレッキングに行こうと誘われて参加したのが、実はトレランのレースだったのです(苦笑)」
騙されて参加したそのトレランレースがスイス・ダボスマラソン。ヨーロッパ有数の国際的なトレイルランニング大会だ。しかも飯野さんが参加したのが約68キロの最も過酷な部門だった。
「そこで私よりずいぶん年上で60歳くらい女性に抜かれたのです。ゴール後その女性から『もっとがんばりなさい』と励まされて、悔しくて……。それが刺激になって長距離のウルトラレースを始めるきっかけとなりました」
2010年、帰国した飯野さんは国内外のレースに参戦していくことになる。その結果、優勝や入賞というタイトルも数多く獲得し、一流のランナーとしての地位を確立していく。
「優勝できることもあれば、できないこともあった。最初は喜びや悔しさもあったが、そのうちに入賞の常連となったことで、感情の起伏がなくなってきました。大会をこなしているだけの自分に気が付いたのです。そんな時にコロナ禍となりました」。
内省するうちに浮かび上がった新たな旅の構想

前職を辞め、世界各国の過酷なレースを転戦するかたわら、旅行会社で海外のランニング大会のツアーコーディネーターとして働きはじめた飯野さん。
トレイルランニング人気が高まる中、海外レースの参加希望者は多かったが、言語や移動に不安がある。そのため海外レースに精通し、語学堪能な飯野さんの存在は貴重で、仕事も順調だった。しかしコロナ禍により旅行業は打撃を受け、職を失うことになる。
「ツテもあったので前職に戻ることもできました。でもその上司たちの姿から、10年後、20年後の自分がはっきり想像できてしまう。それが怖かったんです。安定した人生より、別の人生のほうを選びたかったのです」。
ハローワークに通う日々を過ごす中、ウルトラレースに参加するランナーの姿を追うNHKの番組「グレートレース」に何度も取り上げられたことが転機となった。画面の中で活躍する飯野さんの姿を見た、とある会社の経営者・此下(このした)竜矢さんから声が掛かり、会うことになった。
その頃にはすでに飯野さんの頭の中には<五大陸走破>の大まかなプランは出来上がっていた。その挑戦を此下さんに語ると「やったらいいよ!」と即答。飯野さんは同社に籍を置きつつ、ランナーとして活動できることになったのだ。さらに此下さんはTARの活動のサポートも買って出た。
「かつて間寛平さんが挑戦したアースマラソンは北半球一周。それなら私は今まで誰もやったことがない地球五大陸全てを走破してみたくなった。活動資金は一大陸につき2000万円。五大陸で約1億円が必要です。主な資金集めはクラウドファウンディングがなりますが、協賛企業の獲得などは此下さんのサポートがあったからこそ実現しました」
一日平均70キロのランニングを続ける旅
2023年6月、北米大陸の北端・アラスカから始まったTAR。一日の走行距離は約70キロ。毎朝4時半に起床し、5時半から約10時間走り続ける。夕方には終了し、状況に応じてドライバーに連絡して、ピックアップしてもらう。近隣の町で投宿したら、洗濯や翌日の準備をして、深夜に就寝。一般人には想像を絶するハードな日々が続く。
当然身体はボロボロになっていく。走った翌日は体がスムーズに動かない。それでも疲労を誤魔化して走る。しかし、2週間ほどその生活をしていくと、不思議と体が慣れてくるという。
「人間の順応性はすごいと思いました。毎日70キロ走れる体になるのです」

TARの旅はカメラマンやコーディネーターはおらず、ドライバーが兼任することも多い。それだけにドライバーにも負担がかかる。
「最初の頃は6日走って1日休むペースでしたが、私よりもサポートするドライバーの疲労が大きかった。そこで最終的には4日に1日の割合で休息日を設けることにしました」。
肝を冷やすトラブルと心温まる出会い

トラブルはドライバー問題だけではない。アラスカではほぼ毎日グリズリー(ハイイログマ・大型のクマ)に遭遇した。大半は向こうが逃げていくが、飯野さんに興味を持って近づいてくるグリズリーもいた。ほかにもバイソンに迫られ、南米では狂犬病の恐れもある野犬にも追いかけられ、実際に噛まれたこともあった。
「ただ犬は基本的に仲良く慣れることが多かった。50キロくらいずっと一緒に走ってくれた犬もいました」。

メキシコで走っていると「お前、何をやってんだ?」と男が声をかけてきた。事情を説明すると、その男が経営するバーに連れて行かれた。話してみるとその男はギャングだと聞き、血の気が引いた。とはいえ、これは稀なケースで、途中で出会い、話しかけてきた人の多くは、好奇心と優しさに満ちていた。
偶然何度も出会う長距離トラックドライバーは「まだ走っているのか?」と声をかけてきた。そのうちにバナナやヨーグルトなどの差し入れをもらうようになり、やがて家族を連れてきて、一緒に走ってくれた。
またある時はバイクに乗った女性がジュースを提供してくれ、さらに自宅に招かれ食事をごちそうしてくれた。ほかにも庭にテントを張らせてくれた老人、また別のトラックドライバーは自分の子供を連れて来て『一緒に記念撮影してくれ』とせがんできた。そんな現地の人々との心温まる交流は枚挙にいとまがない。

「雄大な風景はもちろん感動する。でも結局一番印象に残っているのは『人』ですね」
家に泊めてもらい、その人の家族の話を聞き、人生に触れる。裕福ではないが家族を大切にして幸せそうに生きている人が世界にたくさんいる。それを何度も目の当たりにして、『幸せとは何か?』を考えるようになったという。
大陸を走破するための7つ道具
極寒のアラスカから高温多湿な中南米、そしてオーストラリアの乾燥地帯まで、様々な環境の中を走り続けるには、その状況に応じた装備が必要だが、どんな条件であれ飯野さんが常備する主な七つ道具は以下のとおりだ。
1.シューズ
最重要装備はやはりシューズ。HOKA社から提供されるランニングシューズを愛用している。ある程度傷んだら新たなシューズに交換すればいいものの、ボロボロになるまで履き潰すのが飯野さんの流儀。

2.遍路笠
約1200キロある四国遍路を、2週間で走破した経験もある飯野さん。TARでも身に着けるのは、お遍路さんが着用する白衣と輪袈裟、そして遍路笠だ。
「普通の格好だとただジョギングしているだけの人に見られる。でもお遍路さんのスタイルだと、“何かをしている人”として興味を持ってもらえる」とその狙いを語る。実際に遍路笠のインパクトは大きく、「サムライみたいだ!」と声をかけられることも多いそうだ。
そんな遍路笠は、目立つだけでなく、日除け、防砂にも役立ち、さらに野犬を追い払う護身具としての側面もある。

3.リップクリーム
数百キロ続く乾燥地帯を走る時には、上下の唇が張り付き、時に裂けることもある。
4.IBUKI GPSトラッカー
10分ごとに現在地を発信。携帯電話が繋がらない場所でも、送迎ドライバーが先回りしてくれる。
5.Paagoworksウエストポーチ
ランニング用のバックパックは暑くて重い。必要最小限のものを収納できるウエストポーチを愛用。
6.テント
やむなく野営をする場合、送迎車に積んでおく。ドライバーは車中泊で飯野さんはテント泊するのが基本だ。

7.気持ち
最終的には「諦めない気持ち」が一番大切だという。また大陸横断という途方もない距離を完走するためには、1年後のゴールをイメージするのではなく、小刻みにゴールを設定することで気持ちも楽になるという。
「次の町、次の休息地点と眼の前にゴールをイメージすれば、フルマラソンと同じ。『あそこまでなら行ける』って自分に言い聞かせるのです」。
次なる大陸とその先にある途方もない夢
2024年3月、北米大陸の南端パナマに到達。走行距離は1万4千キロ。
2024年6月、コロンビアから南米大陸を南下し、2025年4月に同大陸南端のアルゼンチン・ウシュアイアに到達し、1万1千キロを走破。
2025年8月、オーストラリア・パースから同大陸を東進。4357キロを走りきってシドニーへ到達。これまでの走行距離は約2万9千キロに及ぶ。

しかも驚くべきことに、通過する国で開催されるウルトラレースにはできる限り出場するという、更に厳しさを加えたノルマをこなしつつ走っている。
次はアフリカ大陸の縦断を目指す。同大陸の東部にあるケニアから南アフリカ・ケープタウンを目指す旅だ。その後はポルトガル・リスボンから日本・東京へ至るユーラシア大陸横断へと続く。最終的にTARが終わるのは2029年を予定している。
飯野さんには、前人未到への挑戦以外にも、この長い旅を続ける理由がもう一つある。それは、海外の文化に触れる面白さを伝え、多くの日本人に世界を感じてもらうこと。
長年、多様な異文化に触れてきた飯野さんだけに、極めて低い日本のパスポート取得率(イギリス約74%、アメリカ約50%、日本約17%)の現状を危惧している。
「海外に足を運び、観光地だけでない現地の暮らしに触れることで、見えてくるものがあると思います」

TARの挑戦が終わる2029年。その先の飯野さんの予定は決まってはいない。ただ次なる夢がある。それは「月面を走ってみたい」という規格外の物語だ。
「おそらく自分が生きている間には実現できないかもしれない。でも、次の世代なら可能かもしれない。だからのその準備をしたい。重力が軽い月で人間がどう走るのか、どんな装備が必要なのか、そんな研究もしてみたい」。
人懐っこい笑顔で冗談交じりに夢を語る飯野さん。しかし地球規模の挑戦を続ける飯野さんなら、それも案外実現してしまうかもしれない。
なお、飯野さんはアフリカ大陸横断に向け、2026年9月より活動資金のクラウドファウンディングをスタート。詳細は以下のホームページをチェックしてほしい。
https://kibidango.com/projects/2961




