今回は東京都台東区の隅田公園をめぐる「隅田公園GREEN-WAY」です。
- Text
 
前回はこちら↓
15th ルート:隅田公園GREEN-WAY
今回は「隅田公園GREEN-WAY」と題し、浅草近辺を歩きます。何しろ浅草ですから、名所や見どころにも事欠きません。いつものように事前に地図をチェックしたり下調べしたりすることもなく、さっさとターミナス(=トレイルの起点や終点となるアクセスポイント)の東京メトロ銀座線・浅草駅にやってきました。

いうまでもなく、浅草は東京有数の観光地、繁華街、歓楽街です。そうでありながら、考えたら浅草周辺にはJRの駅がありません。浅草は古くから栄えていたので、土地の買収が難しかったりしたのでしょうか。って、素人考えなので、違う理由だったらご容赦ください。もっとも、浅草には地下鉄など4路線が乗り入れているので、まったく不便ではないのですが。
とかなんとか、銀座線の浅草駅から隅田公園方面へと進んでいきます。なお、今回向かうのは「台東区立」隅田公園です。一方、隅田川の対岸には「墨田区立」隅田公園があります。隅田川を挟んで同じ名前の公園がある経緯などは、追々ふれていきます。
さて、この連載ではこれまでにも隅田川沿いを歩いてきて、何度か工事に行く手を阻まれました。浅草周辺も工事中のところが多く、招き猫が行く手をふさいでいました。

寺社仏閣の多い浅草だから招き猫なのかと思ったのですが、調べたら「そらちゃん」という名前でした。この招き猫のオブジェは、2012年に設置されたもので 、東京藝術大学(G)、台東区(T)、墨田区(S)の三者による地域連携のGTS観光プロジェクトという取り組みだそうです。
よく見たら招き猫の右肩(?)にもGTSの文字がありました。どういう観光プロジェクトなのか、きちんと理解できたわけではありませんが、ひとまず先を急ぎます。すると、あっという間に隅田公園に到着しました。
隅田公園
ここは、1923年の関東大震災の復興事業の一環として、浜町公園(中央区)、錦糸公園(墨田区)と並んで、計画・整備された公園です。先述したように、現在は隅田川を挟んで台東区と墨田区の2つの隅田公園に分かれています。でも、もともとは東京都が管理するひとつの公園だったそうです。園内を隅田川が通っている公園って考えると、何だか豪快ですね。
隅田公園内には約700本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されています。隅田川両岸の約1kmの桜並木は、もともと八代将軍・徳川吉宗のはからいにより植えられたものが由来だとか。現在は毎年さくらまつりが開催されていますが、江戸時代から多くの人でにぎわう桜の名所だったそうです。

隅田公園の脇には助六夢通りという道が通っています。歌舞伎の演目である「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の主人公花川戸助六にちなんでいるとか。
この助六の愛人は吉原の花魁(おいらん)で、その名を揚巻(あげまき)といいます。揚巻の揚を油揚げのいなり寿司、巻きを海苔で巻いた巻き寿司になぞらえ、この二つを詰め合わせたものを助六寿司と呼ぶようになったとか。という由来を知り、何だか助六寿司が食べたくなっちゃいました。

隅田公園の中は桜並木が続く沿道が整備され、桜の季節以外でも心地よく歩くことができます。園内をずんずん進んでいくと、隅田川方面に真新しい案内板が出ていました。
アリの街
昭和20年代、現在の隅田公園のあたりには「アリの街」と呼ばれる場所がありました。そこでは、戦災で家や家族を失った人たちが廃品回収をしながら共同生活を送っていたそうです。
そうした中、アリの街に住んで戦災孤児の支援に尽力したのが、北原怜子という人物です。彼女は病によって28歳で他界するまで奉仕活動を続け、「アリの街のマリア」と呼ばれました。また、彼女の活動は映画や舞台の作品にもなったそうです。
隅田公園には、2021年に設置されたアリの街に関する案内板がありました。GREEN-WAYを歩いていると、案内板や史跡によって出会い頭に街の歴史を知る機会があります。すると、通りすがりの街であっても、その土地への親近感がぐっと増したように感じられます。こうしたことも、GREEN-WAYを歩く醍醐味のひとつだと思っています。

隅田公園内の言問橋の近くには、「花」の歌碑や正岡子規の句碑もあります。
武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の「花」は「春のうららの隅田川♪」の歌い出しで知られていますが、まさしく歌碑があるあたりの光景を描いたものです。

一方、子規の句碑には、「雪の日の 隅田は青く 都鳥」と刻まれています。都鳥(みやこどり)とはユリカモメのことで、冬になると隅田公園にも多くのユリカモメが渡ってくるとか。また、この句は浅草の「山」の上から見た景色を子規が詠んだといわれています。

ということで、僕にとってはおなじみの山を再訪することにしました。隅田公園の近くにある、標高10mほどの待乳山(まつちやま)です。

待乳山に登った後、その先に進むと神社が現れました。
今戸神社
1063年(康平6年)に源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したことが始まりといわれる今戸神社。関東大震災や東京大空襲など見舞われながらも何度も再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に建てられたものです。
ここは、浅草寺や浅草神社、豪徳寺(世田谷区)などと並び、招き猫発祥の地のひとつとして知られています。江戸時代の地誌「武江年表」などによれば、浅草に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」といい、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内の三社権現(三社様、現:浅草神社)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったとか。
ただ、史料は浅草寺や浅草神社に由来するものとしての記録で、今戸神社との結びつきを示すものではないそう。招き猫の発祥地がどこかはともかく、浅草と縁があるのは確かなようです。だから、冒頭の工事現場にも招き猫のオブジェが置かれていたのかもしれません。

今戸神社は、新選組の沖田総司の終焉の地としても知られています。境内には、その旨を記した碑がひっそりと建てられていました。結核を患っていた沖田は、今戸神社の境内にあった医師の邸宅で最期を迎えたと伝えられています。ただし、沖田は浅草から千駄ヶ谷の植木屋に移った後に他界したとする説が、現在は有力だそうです。

真相はともかく、沖田総司ほどの著名人の最期がどこなのか、説が二転三転しているのって面白いですね。「真相はともかく」なんていっていると、歴史家に怒られそうですが。
浅草駅から今戸神社までは1.5kmほどの距離です。史跡にキョロキョロしたり写真を撮ったりせず、スタスタ歩けば所要時間は20分ほど。でも、初めに記したように浅草は見どころ過多です。知られざる土地の歴史から、知ってる人物の知られざる説まで、短時間で多量の情報を浴びてしまいました。なので、今回の「隅田公園GREEN-WAY」は、ここでいったんゴールとします。
機会があれば、墨田区側も含め、また隅田公園を歩きたいと思います。桜並木はもちろん、それ以外にも見どころがこれでもかとあるので。
■今回歩いたルートのデータ
|距離約1.5km
|累積標高差約2m
今回のコースを歩いた様子は動画でもご覧いただけます。
●隅田公園GREEN-WAY
		
					
							
									
									
									
									
									
									
									
						
						
						
						
						
                    


              
              
              
              
                    
                    
                    
                    
					
					
					
					
					
				
				
				
				






