
そんな雄の雪豹も、数百メートル離れた場所に姿を現した人間たちの姿を警戒し、羊の死骸から距離を取って、後方に離れた斜面で様子を見ていました。
【雪豹に会いに、インド・スピティへ 第9回】
一頭の羊の死骸を巡る、野生動物たちの駆け引き

雄の雪豹が離れている隙に、一頭の狐が、羊の死骸に近づいてきました。雪豹と人間の両方に目配りをしながら、死骸に近づいては少し肉を食いちぎり、また離れるといった動作をくりかえします。

上空に、何羽もの巨大な禿鷲が姿を現し、ひゅうん、ひゅうん、と次々に舞い降りてきました。この土地で、動物の死骸のあるところには、必ず現れる鳥たちです。

羊の死骸を禿鷲たちに奪われてしまった狐は、しばらくその様子を眺めていましたが、やがて意を決したように、シャーッ! と禿鷲たちを威嚇して、何とか羊の死骸を取り戻そうと試みます。

羊の死骸を挟んで、狐と禿鷲たちが対峙していたところに、突然、1頭の狼が現れて、さーっ、と羊の死骸を奪い去っていきました。あまりの見事な手際に、呆然と見送る狐と禿鷲たち。狼はほかにも数頭いて、戦利品を群れで分け合うつもりのようです。

しかし、雪豹は狼たちの所業を放ってはおきませんでした。羊の死骸を奪い去った狼に向かっていった雪豹は、狼を威嚇して羊を奪い返し、岩の上に陣取って、一人ゆっくりとその肉を頬張りはじめました。
雪豹の周囲を、ワォォーン、と遠吠えをくりかえしながら取り囲む狼たち。彼らの間にも、縄張り争いの意識のようなものがあるのかもしれません。
雪豹に屠られた一頭の羊の命が、ほかの動物たちの命を、少しずつつないでいくという現実。彼らの棲む世界の厳しさと儚さを、まざまざと見せつけられた思いがしました。
野生動物たちの世界には、善も、悪も、存在しません。みな、己の命を保ち続けるために必要なことを、精一杯しているだけです。憎悪や欲望というくだらない理由で平気で殺し合う、僕たち人間の方が、彼らよりずっと、愚かな生き物なのかもしれません。