私の夏は、朝市に始まって朝市に終わります。朝5時半に森の家を出て、6時になるのを車の中で待ちます。
6時になったら、荷物を素早く下ろします。6時半から8時まで、わずか1時間半が私の勝負です。そんな夏を私はもう30年も繰り返しています。


お客さんがたくさん来るかどうかは、当日にならなければわかりません。しかも、お客さんがたくさんきたからと言って、たくさん売れるとは限りません。
私が一年かけて作ってきたものの出来と、センスと、天候とお客さんの数と好みや、その時々の運不運など、そんな絶妙なバランスの上に、私の30年間の朝市は成り立っています。
もともと、私は絣(かすり)の着物を織っていました。森へ移り住んでからは、周りに生えている藤蔓(ふじづる)や、近所で分けてもらった屑繭(くずまゆ)で、糸を作り、布を織り、朝市で売っていました。
けれど、織物は一枚仕上げるのにあまりにも時間がかかります。そこで、染めた布を縫い、洋服や鞄、帽子などを作るようになりました。
一年中、染めたり、縫ったりしています。そうして作った品物をコンテナに積み込み、店開きです
30年前は、織ったものがほとんどだったので、コンテナはひとつかふたつでした。今は、6個のコンテナに詰め込んだものをテントの中に広げます。たたんであったTシャツやブラウスなどをハンガーにかけていきます。
その合間に興味のある人たちが、テントの中をのぞいていきます。
小さなテントの中に、6個のコンテナのものを全部は出せません。それなりに賑やかに並んだら、朝作ったお弁当を食べます。
朝市では、薪窯で焼いた天然酵母パン、上海出身の人が作る本場のちまき、揚げたてのドーナツ、手で握ったおむすび、淹れたてのコーヒー。朝市にはおいしいものがたくさん並びます。



でも私は、1日に500円から1000円くらいしか食費に使っていないので、おいしいものを買ったら、1日分の食費が全て消えてしまいます。おいしそうなものを見て想像して、自分の持ってきたお弁当とコーヒーをいただきます。
商売としては、全く売れない日もTシャツ一枚だけの日も、たくさん売れる日もあります。出してみなくてはわかりません。
40代の頃は毎日、出店していました。雨が降っても、お客さんは傘をさしてきてくれます。今はもう毎日なんて、体力的にとても無理です。土日中心に出ています。


あの頃、腰が曲がったお婆さんが、野菜や、自分の織った布やら所帯道具を背負ってくるみたいに、たくさんのものを持って毎朝やってきました。
朝市が好きで、最初はお嫁さんに連れてきてもらっていたんだけど、75歳で一念発起、自動車学校に行って免許を取りました。軽自動車も購入しました。
腰の曲がった体でフットボールみたいに大きな冬瓜を車から下ろして、難儀して並べていました。大抵のものは売れず、また車に戻していました。切り花や野菜や冬の間に織った裂織りの布もたくさん広げました。
あんまり売れているようには、見えませんでした。
それでも、朝市でお客さんや出店者と話すのがとても楽しかったようです。
それから5年後、帰り道、藪につっこんでしまいました。それで車に乗ることを断念して、80歳でおばあさんの朝市は終わってしまいました。
木工や陶芸をやっていた私のクラフト仲間も、たくさん出店していました。その仲間たちは、もうほとんどクラフト自体をやめてしまいました。
それでも今も、ガラス、かご、木工、革、ステンドグラス、陶芸、布製品、アクセサリーなど、さまざまなクラフトが並びます。作り手は代替わりし、おいしい食べ物の店も増えました。キッチンカーだって3台も出店しています。本当に賑やかになりました。


木工大好き小学生の潤くんは、自転車で毎朝やってきました

自分で作った木製のボールペンや木製の鉄砲などを出店者に見せて、熱心にアドバイスを聞いていました。すごく器用な子で、学校から帰ると、たくさんの器やオブジェを作っていました。
やがて林業の学校へ進み、今は本当に林業の仕事をしています。朝市に通っていた少年は、日本の森を背負って立つ頼もしい青年へと育っています。朝市の大人たちは、少しだけ彼の先生だったのかもしれません。
私より10歳ほど年上で、本業は保険外交員だったらしい女性が、クーラーボックスにラズベリーのサイダーを入れて販売していました。昔懐かしいラムネ瓶に入っていて、注文されたら、その場でプシュンとビー玉の蓋を押してあげるんです。
実は、この朝市は始まった当初から、手作り品を販売する場ということになっていました。これを手作り品と呼べるかどうかは、難しいところでした。
そういうわけで、彼女は周りの出店者から、少し冷ややかにみられていたかもしれません。それがわかっていたらしく、彼女自身も、わりかし肩身が狭そうでした。それでも毎日、朝市に通っていました。何年くらい出ていたかは、もう忘れました。
その人が、娘さんといるところに偶然出会いました。
娘さんは病気だった母親の看病のため、たまたま香港から帰国していました。その日は、全快祝いの母娘のショッピングだったようです。
「ママのおかげでアメリカの大学へ行けた。今はアメリカ人と結婚して、香港で幸せに暮らしている」
そう話す娘さんに、彼女は嬉しそうに頷いていました。年数を考えると、彼女が朝市でサイダーを売っていた頃、娘さんはアメリカの大学に通っていたことになります。
「なんでサイダーなんか売ってるんだ!」と、実は私も思っていました。
あのサイダーの売り上げも、娘さんへの学費の一部になっていたのだろうか。そう思うと、肩身が狭そうに小さく立っていた彼女の姿が、以前とは全く違って見えてきました。

4人の幼い子どもをおんぶしたり、よちよち歩かせたりしながら、朝採ってきた株ごとのセロリやドライフラワーを並べる、肝っ玉母さんもいました。子どもも野菜も一緒くたになったような、にぎやかな店でした。
出店者の数だけ、その中に物語がある
お客さんは、ペンションの宿泊客、近くの別荘の人、地元の人、近県から来る人たちです。
以前はペンションの宿泊客が多かったのですが、オーナーの高齢化で廃業する宿も増えました。その一方で、朝市そのものが知られるようになり、日帰りできる範囲の遠方から訪れるお客さんも増えています。
初めの頃によく来てくださっていた別荘のお客さんたちも、いつしか姿を見なくなりました。出店者もお客さんも、バトンを渡すように少しずつ入れ替わっていきます。それでも、朝市の賑わいはどんどん増してきました。
できることなら、これからも朝市の片隅で、人や品物が入れ替わっていくのを眺めていたいなあ。でも私にも、出店できる時間に限りがあります。
実は、眺めてばかりいる場合ではない。私は朝市出店者なんです。頑張って染めて、そして縫って、出店しなくては。
頑張って行ったって、お客さんがすごくたくさんいたって、まったく売れない日だってあるんだよ。
もちろん、そんな日は楽しくない。でも、それも朝市です。わずか1時間半の私の晴れ舞台、今朝も楽しく踊ってきましょう。
そして、森の家に帰ってきたら、疲れたって、ソファーにどすんと落ちる。落ちている場合じゃないって、気を取り直し、ぐわって立ち上がるんだよ。
朝市で食べたお弁当は、とっくに晴れ舞台のエネルギーに変わっています。もう一度しっかり食べて、藍を染めて、柿渋布を干し、また明日の品物を作ります。
私の夏は、朝市に始まって朝市に終わります。
標高1300mの朝市広場では、8月も終わりになると、早朝は涼しいを通り越して少し肌寒くなります。短い夏はあっという間に終わって、秋へと向かいます。
※文、写真/ウリウリばあちゃん




