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黒田未来雄の脱サラ猟師からの手紙
第9回 ドキュメント〝ヘラジカ猟〟〈前編〉

「静かに! ヘラジカだ」すぐにドナがライフルを準備した。
ハンターの血がたぎる季節
9月に入ると、カナダ・ユーコンの先住民たちは勇み立つ。仕事は手につかず、打ち合わせをしていても上の空。心は原野を駆け巡り、いてもたってもいられない。結局、多くの人が長期の休暇をとる。今年もヘラジカ猟のシーズンが到来したのだ。
どこでヘラジカを見ただの、誰が早くも1頭仕留めただの、集落の会話はヘラジカ一色となる。しかし僕の師匠であるタギッシュ/クリンギット族のキースがヘラジカにかける情熱と労力は、他の人たちと一線を画する。
多くのハンターが車を走らせて沿道からヘラジカを探すが、キースは通常の四輪駆動車ではアプローチ不可能な山の深部まで分け入り、何日でも野宿をしながら粘る。
2024年9月17日から22日にかけて、僕は6日間にわたってキースのヘラジカ猟に同行した。雨に濡れ、雪に凍えながら、狩猟採集民としての想いと覚悟を分かち合う濃密な時間を過ごしたのだった。
DAY1 ベースキャンプ設営
今回のメンバーは4人。キースと、奥さんのドナ、義理の息子のブランドン、そして僕だ。
使う車両は、日本では見かけることのない8輪駆動車が2台。キースとブランドンがそれぞれ運転する。砲台のない小型の戦車のようなオープンカー、という表現が最も適当だろうか。乗り心地は決してよいとは言えない。車体は地面の凹凸を直に拾い、脳が揺さぶられる。転げ落ちないように必死に手すりを掴むが、握力はすぐに低下してしまう。乗っているだけで大変な車両だが、その走破性能は凄まじい。岩だらけの河原や、道のついていない潅木帯も問題なく突き進む。川や湖に出れば水に浮かんで航行もできる、水陸両用車だ。
キースが運転する車両はトレーラーを牽引する。後部座席とトレーラーに、キャンプ道具と食料、スコップに斧にチェンソーなどを積み込む。ヘラジカが獲れるのが初日なのか、1週間後なのかは予測不能だ。食料はクーラーボックス3つ分、ビールは80本、ウィスキー6本を準備した。
泥を跳ね上げ、岩を乗り越え、倒木が進路を塞げばチェンソーで切り、邪魔な木の根は斧を振るってスコップで掘り出す。
標高が上がるにつれ広葉樹は少なくなり針葉樹が増えてくる。2時間ほどでベースキャンプ設営地点に到着した。トウヒの木立が風を遮り、近くに水場もあるキースのお気に入りの一角だ。
キースはすぐに幹の間にロープを張り、タープをかけた。枝を切り、斧で先端を尖らせた杭を周囲に打ち込み、タープの四隅を固定する。即席の屋根ができ上がった。地面にシートを敷き、その上にマットと寝袋を広げ、あっという間に寝床が完成した。キースとドナとブランドンはそこで寝る。
僕も一緒に寝たいところだが、少し離れたところにテントを張った。悔しいかな、彼らと僕とでは、耐寒性能が全く異なる。9月とはいえ、北緯60度、標高1000メートルを超える山の夜は、体の芯まで凍える。
夕食は巨大ソーセージを焚き火で焼いたホットドッグ。ビールで流し込む熱々のキャンプ飯に敵う贅沢はない。
DAY2 オスを騙すトリック
朝食は、焚き火にフライパンを乗せてのベーコンエッグ。カナダではキャンプ用なのか、牛乳パックと同じような容器に、卵の中身だけが入ったものが売られている。運搬の衝撃で殻が割れてしまう心配がない優れものだが、黄身と白身が混ざっているために目玉焼きはできない。卵料理は必然的にスクランブルエッグやオムレツとなる。
この日は4人全員が1台の8輪駆動車に乗り込んだ。エンジン音が1台分になるので、多少なりともヘラジカの警戒心を刺激しないための配慮だ。ヘラジカが獲れたときのことを想定し、トレーラーを牽引する。北海道の真冬の装備を着込むが、手足の先は痛いほどに冷えてくる。
見晴らしの良いポイントから広範囲を双眼鏡でくまなくチェックする。キースが鼻に手を当て「んンーーーンアッ、んンーーーンアッ」とくぐもった声を上げる。発情したメスのヘラジカの声を真似して、オスをおびき寄せているのだ。何の道具も使わない、単純極まりない作戦だ。
僕も同じように声を上げると、慌ててキースに止められた。鳴き真似をするのは一人と決まっているのだ。複数の鳴き真似が入り混じってしまうとヘラジカに怪しまれてしまうそうだ。
ブランドンがようやく1頭のヘラジカを見つけるが、残念ながらメスだった。キースはヘラジカのメスは撃たない主義なので、見送ることとなった。結局その日、オスは見つからなかった。
キャンプに戻る途中、立ち枯れした木をチェンソーで倒す。今夜の薪を作るのだ。地面に寝ている木は腐っていて使えないので、倒れずに枯れている必要がある。ちょうどいい枯れ木を見つけるのは、それなりに大変だ。幹を40〜50センチに切り分け、トレーラーに積み込む。キャンプに戻った後、それらを斧で割るのは僕の役目だ。
彼らは盛大に火を焚くのが好きだ。まずは濡れた手袋や靴下を乾かし、熾火になったら料理をし、食後はビールを飲みながらまた火力を上げる。必要以上に火は大きくなるが、彼らはジャンジャン薪を投げ込む。朝食に使う分だけを残し、作ったばかりの大量の薪は全て燃え尽きる。節約して使えば3日はもつのに勿体無い、と感じてしまうのは日本人的思考なのだろうか。翌日にまた枯れ木を探し、切り倒し、斧で割って薪を作る苦労を厭わず、彼らは大笑いしながらその日の夜を楽しむ。
夕食は茹でたイモを付け合わせにステーキほどのサイズの大きくて分厚いハムを焼いた。夜が更け、満腹で酔いが回る。真っ暗な森にキースが最後のヘラジカの鳴き真似を響かせ、眠りについた。
DAY3 Middle of nowhere
朝一番、キャンプ地から5分ほど斜面を下った場所で、沢の水を汲むのは僕の役目だ。わずかに残っている熾火を使って火をおこし、鍋で湯を沸かす。皆があくびをしながら寝袋から這い出てくる。
沸騰したお湯でコーヒーを淹れようとしたところで、キースが「静かに! ヘラジカだ」とささやいた。オスの鳴き声を聞きつけたらしい。皆に緊張が走る。今回、ヘラジカを撃つのは奥さんのドナと決まっていた。すぐにドナがライフルを準備し、僕らは双眼鏡でヘラジカを探す。キースがメスの鳴き真似をすると、遠くから「ンォフッ、ンォフッ」という微かな声が聞こえてきた。間違いなくヘラジカのオスだ。朝の雑事をこなしながらも、耳を澄ませないと聞こえないほどの鳴き声に気付くキースは、やっぱりすごい。
続いてキースは、木に立てかけてある丸太を、枯れ枝で激しくこするように叩き始めた。オス同士が、角を突き合わせて闘っている音を再現しているのだ。ライバルだと勘違いして様子を見にくるオスも多いという。
一旦近付いてきたオスの鳴き声が、徐々に遠ざかる。結局そのオスは立ち去ってしまった。「発情がまだピークに達していない」とキースが悔しがる。惜しかった。
雨が降り、雪もちらつく中、この日も8輪駆動車を走らせる。雪は払えば落ちるが、雨は辛い。勢いが強くなると、雨合羽は着ていても、フードや襟元、袖口などからじわじわと濡れてきて体温が奪われる。野生の動物たちは、この寒さの中でずぶ濡れになりながら、どうやって生命を維持しているのだろう。ヘラジカのような大きい動物はまだいい。昼間には飛び回る蛾さえ見かける。冷たい雨に濡れても消えることのない、信じがたい強さとしたたかさを秘めた、小さな命の炎だ。
終日、雨と雪の洗礼を受けた一日ではあったが、山の頂上に出た瞬間、しばらくの間だけ雲が消え、陽光が降り注いだ。あまりの美しさに息を呑む。地平線の彼方まで、人工物は一切無い。見渡す限り360度、原始の自然がただ広がるだけだ。
英語で〝Middle of nowhere〟という言葉がある。「どこでもない場所のど真ん中」、辺境の中の辺境といった意味だ。まさにここは〝Middle of nowhere〟。人間界のしがらみから解き放たれ、限りない自由を掴んだような喜びが突き上がる。ヘラジカもヒグマもオオカミも、今ここで、同じ空気を吸っている。同じ大地の上で、同じ時代を生きているのだ。
夕食はヘラジカの肉の炒め煮。首やスネなどの、旨みは強いが硬めの肉をフライパンで炒め、そのまま少量の水を入れて煮込む。柔らかくなったころを見計らって食べると絶品だ。
全ての苦労は、この極上肉を来年も食べるためにある。
DAY4 全力アタック
朝、テントから出ようとするとフライシートがバリバリに凍っていた。外は一面に真っ白な霜が降りている。
前日にトレーラーのタイヤがパンクしてしまったため、この日は8輪駆動車2台で出動する。いつもの展望ポイントに登る。谷を挟んだ斜面の奥に、小さくうごめく黒い影を見つけた。ヘラジカだ。よく見るとメスだった。しばらくして。数十メートル右手に白い角が動いているのに気付いた。オスだ。皆に知らせ、作戦を練り始めると、直後にもう1頭、また別のメスが姿を現わした。3頭のヘラジカ集団。これなら接近したときに単独のオスより見つけやすい。迂回しながら谷に降り、その斜面にアタックをかけることとした。
ブランドンの8輪駆動車を谷筋の奥に隠し、キースの車両に全員が乗り込む。斜面に突入する。この周辺にターゲットはいるはずだ。足跡やヤナギの枝先を食べた跡など、わずかな痕跡を頼りに走り回るキース。草木を薙ぎ倒しながら、「ンォフッ、ンォフッ」と、自分でオスの鳴き真似をしている。まるで血気盛んなヘラジカが乗り移ったかのようだ。
急峻な坂にさすがの8輪駆動車もタイヤを空転させ、車両ごとひっくり返りそうになる。8輪駆動車の乗り心地の荒さはわかっているつもりだったが、甘かった。まさに、嵐の中の小舟。胃が口から飛び出そうになる。1時間近く必死にヘラジカを探すが、危険を感じて立ち去ってしまったのか、残念ながら見つけることはできなかった。
獲物を得ることができないままに、広い山域を走り回る日々。燃料と食料が底をついてきたため、物資を補給する必要が出てきた。パンクしたタイヤを取り替えないとトレーラーが使えないが、あいにくスペアタイヤも持ってきていない。協議の結果、キースとドナが山を降り、僕とブランドンが残ることとなった。
DAY5 「栄光を我が手に!」
朝起きると、一面の雪景色となっていた。雪が音を吸い取り静かだ。キースがいないので、僕がメスのヘラジカの鳴き真似をする。しばらく耳を澄ませていたがオスの反応はなかった。
キース不在の状況に、心細さを感じない訳ではないが、逆に彼がいない間にヘラジカを仕留めて驚かせたいという気持ちもある。射撃を託されたブランドンは「栄光を我が手に!」と気合い十分だ。しかし僕らは、キースほどにはこのフィールドに精通していない。結局、ヘラジカがいた斜面の向かい側に行き、そこで待ち伏せをすることにした。
ブランドンがメスを見つけたのも、僕がメスとオスを見つけたのも、同じ斜面だった。両日とも13時ごろ。南向きの斜面に陽がよく当たる時間帯だ。
雪が降る中、向かいの斜面を歩いて登り始める。昨日の敗因が過剰なエンジン音だったと仮定すると、今日は徹底的に無音に徹したい。焦りは禁物だ。足音を立てないよう、ゆっくりと移動する。ヘラジカがいたポイントからは200メートルほど。ライフルなら十分に射程距離だ。木の陰に身を潜め、じっと待つ。体に雪が降り積もり、僕らは白い大地と同化してゆく。メスの鳴き真似をしながら、「出てこい、出てこい」とひたすら祈り、待ち続ける。
昼過ぎ、遠くからエンジン音が聞こえてきた。僕らを心配したキースとドナが、一刻も早く合流しようと戻ってきてくれたのだ。ありがたいような、拍子抜けしたような。安心感よりも、僕らふたりで大物を仕留めることができなかった悔しさが勝る。「次回は絶対、俺たちで獲ろうぜ」。ブランドンと誓い合った。
ドナが、僕が日本から持参した麻婆豆腐の素を持ってきた。豆腐もちゃんと買ってある、夕食は僕が担当した。ヘラジカの挽肉をたっぷり入れて豆腐を煮込む。最初に持ち込んだ80本のビールは全て飲み尽くしてしまったため、ビールの補給が特にありがたい。
8輪駆動車にとってのガソリンと同様、ビールは僕らには欠かせないライフラインなのだ。
"Middle of nowhere is where we are"「俺らがいるのは、辺境の中の辺境さ」 なにもないここにこそ、すべてがある。

見晴らしのよいポイントは、風がもろに当たる場所でもある。真っ直ぐに立っていられないほどの強風が吹いてくると、8輪駆動車の陰に身を隠す。

右に曲がるときは右側4輪の速度が落ち、左側4輪の速度が上がることで方向を変える8輪駆動車。ハンドルを切るたびに結構なショックだ。
※イラスト/ブッシュ早坂(編集部)
(BE-PAL 2026年7月号より)




