極地旅行家・角幡唯介はなぜ北極圏で犬橇を始めたのか? そして、やってみてわかった犬橇の危険性 | ★未分類 【BE-PAL】キャンプ、アウトドア、自然派生活の情報源ビーパル

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2026.04.01

極地旅行家・角幡唯介はなぜ北極圏で犬橇を始めたのか? そして、やってみてわかった犬橇の危険性

写真/竹沢うるま

 毎年冬になると、世界最北の村グリーンランド・シオラパルクを拠点に北極圏を漂泊する極地旅行家の角幡唯介氏。当初は犬1頭と橇を引いて歩くスタイルだったが、あるときから犬橇での旅に変えたという。その理由とは?
(この記事は角幡唯介著『どうせ死ぬなら北極で』(小学館)の内容を抜粋したものです)

2018年以前にやっていたのは犬を連れた人力橇スタイル

 これまで重たい橇を引き、自分の足で歩いて何十日も北極を旅してきた。しかし、今年(編集部注・2019年のこと。以下同)から故あって行動のスタイルを抜本的に見直し犬橇をはじめることにした。

 今年から犬橇をはじめると聞き、首をひねる読者もいるかもしれない。
 私の本の読者なら知っているかもしれないが、これまでの旅でも私はウヤミリックという名の犬を連れて一緒に橇を引いていた。北極探検とは無縁な一般の方は、犬に橇を引かせている時点で犬橇とみなす人が多いようで、よくプロフィール欄に〈今年の冬は犬橇で冬の北極を探検〉みたいな紹介をしてくれる編集者も少なくなかった。

 しかし、犬一頭に手伝わせていたとはいえ、おもに橇を引いているのは私であるのだから、これまでの旅の方式は犬橇ではなく人力橇である。だから私の旅を犬橇と紹介する編集者にもかならず訂正を依頼してきた。
 だがこの冬からはじめている犬橇は正真正銘の犬橇である。つまりたくさんの犬に大きな橇を引かせて人間サマはその上に乗り、後ろから鞭むち、かけ声等で指示を出すという植村直己が乗っていたアレだ。

人力橇で感じた限界と犬橇が秘めた可能性

 人力橇から犬橇に転向したのにはいくつか理由があるが、一番は人力橇というやり方にこれ以上の発展性を感じなくなったことが大きい。

 いままで人力にこだわったのは、犬橇より人力のほうがトータルでみてスケールの大きな旅をできるのではないかと考えていたからだ。
 たしかに機動力は犬橇のほうが圧倒的に高い。積み荷が軽く、かつ海氷上であれば一日五十キロ以上移動することが可能で、そこだけ見たら人力橇の二倍から三倍は進めるだろう。

 だが、犬橇にはどうしても餌の問題がつきまとう。犬は一頭につき一日一キロのドッグフードを消費する。つまり人間と同じぐらい食う(そして人間よりもはるかに大量の糞をする)。そんなに大量の食料をすべて橇にのせるのは無理なので、一カ月から二カ月の長旅を実現するにはどうしても狩りをして現地調達しなければならない。もちろん狩りといってもウサギなどの小物では焼け石に水で、アザラシやジャコウウシのような大物を何頭も獲らなければならず、それを考えると昔のイヌイットのような狩猟能力がないと長旅は現実的ではないような気がしていた。

 人力橇は犬橇にくらべるとたしかにスピードは出ないが、二カ月分の食料を橇に積めるので、気象条件や海氷の状態にめぐまれ一日平均二十キロで進むことができれば一千キロの旅が可能となる。狩りで食料を現地調達するにしても、人間一人に犬が一頭加わったぐらいなら、ウサギ狩りだけでも十分に対応できた。

 実際、私は二シーズン前の極夜探検のときは八十日、去年の春の放浪旅行でも七十五日間にわたり狩りをまじえながら旅をつづけたが、犬橇ではこれほど長期間の旅をするのはかなりハードルが高い。

 でもその人力橇による長期放浪旅行にも限界をおぼえはじめてきた。去年の旅では七十五日間でジャコウウシを二頭、ウサギを十羽ほど仕留め、九百キロ近く歩き、その間、のべにして標高差四千メートルほどのアップダウンをこなし、これまでの冬の旅では到底とどかなかった、はるか北の彼方まで足をはこぶことができた。
 去年は積雪が多く、コンディションはよくなかったが、それでもこれだけの旅ができた。年齢的にも人力でこれ以上のスケールの極地旅行は自分にはもうできないだろう。そんなふうに悟ってしまったわけだ。

 はっきりいって人力橇は行為自体としては面白味にかける。人間界から隔絶した真のウィルダネスで自分の命をつなぐという意味では魅力があるが、それはフィールドの魅力であって行為の魅力ではない。正直なところ人力橇は疲れるだけで、体力と根性がためされるだけだ。歩くだけなので技術的深みがあるわけでもなく、年を経るごとに新しい発見が得られるわけでもない。ひたすらシジフォスのように延々とつまらない労苦に耐えなければならず、途中で狩りでもして獲物を獲り、生命をつなぐ喜びがなければやってられない。よく「角幡さんってマゾですか?」と訊かれることがあるが、私はマゾではない。その証拠に私はかつて一度も人力橇それ自体を楽しいと感じたことはないのである。

 十頭もの犬を飼わなければならない犬橇は、技術面だけでなく、資金的な面でも高いハードルを感じてきた。だが、人力橇にこれまで以上の発展を感じなくなったことから、とりあえず何がなんでも五年は続けるという覚悟で思い切って方針転換することにした。

 犬橇をはじめると冬の半年近くは現地に滞在しなければならず、もう冬山には登れないだろうし、その間、かわいい盛りの娘の成長を見届けることもできない。十頭以上の犬を飼うわけだから経済的にも苦しくなり、生活の不安も増すだろう。妻に「来年から犬橇をはじめることにしたから」と告げたとき、「本当に?」とおどろきを隠しきれない様子だったのはそのせいだ。

やってみて気づいた犬橇の危険さ

 さて、犬橇をはじめてつくづく実感するのは、犬橇とは何と危険な行為なのだろうかということである。
 犬というとどうしても愛玩犬としての愛くるしくてかわいいイメージがあるので、その延長線上で考えてしまい、犬橇もまたかわいい犬たちとともに雪原を疾駆する、どこかほっこりとした旅という印象をもちがちである。
 犬が走るというと、われわれの頭にはまず公園の芝生の上でフリスビーを追いかけるゴールデンレトリバーが思いうかぶ。幸せな家族の象徴としての犬だ。その犬が橇を引くのが犬橇なのだから、芝生のレトリバーがグリーンランド犬にかわり、舞台が芝生から雪上に移り、頭数が十頭に増えただけだと考えがちである。
 芝生のレトリバーが脳に刷り込まれているのだから、犬橇と危険が結びつかないのも無理はない。事実、カナダで犬橇レースに血道をあげる本多有香の『犬と、走る』を読んでも犬橇の危険は微塵も感じなかったし、植村直己の一連の北極探検物を読んでも、犬橇の危険性より北極の危険性のほうがつよい印象をうける。

 しかしいまの私なら断言できるが、植村直己が北極で何度も危機を迎えたのは、北極という自然環境に原因があるのではなく犬橇行為に危険があったからだ。
 感覚として犬橇は人力橇の二倍から三倍、いや五倍は危険かもしれない。

北極での旅の危険性とは?

 一般的に北極での旅には次のような危険がともなう。
 一番危険なのは海氷の割れ目に気づかず、海に落ちてしまうことだ。これは本当に危ない。とくに春の融氷期になると積雪の下で海氷が割れていることがあり、見た目にはわからないので踏み抜いて落水することがある。落水すると大抵、潮の力で氷の下におしやられてしまい氷上にもどれなくなる。私も極夜のカナダ徒歩旅行で新雪の積もった海の上を、そうとはまったく気づかないまま十メートルほど渡りきったことがある。そして、その直後に自分の歩いたところがじつは海水の上に雪が積もっただけの場所だったと知り、ぞっとした。

 同じような種類の危険に氷河におけるヒドゥンクレバスの落下があげられる。ヒドゥンクレバスとは積雪により見えなくなったクレバスのことで、氷河では気づかないままその上を歩いてしまい踏み抜いて死亡という事故がしばしば起きる。簡単にいえば自然が作った落とし穴だ。グリーンランドは氷河をルートにとることが多く、注意が必要だ。私も去年はじめてクレバスを踏み抜き、そしてじつはつい一昨日も村の近くの氷河でも同じことをやって、危うく落ちかけるところだった。いずれも腰のあたりで停止したが、ヒヤリとする瞬間ではある。
 クレバスの踏み抜きは感じとしては雪山における雪庇の踏み抜きに近い。このあたりは雪庇じゃなくて地面だろうと油断して登っているとズボッと足が抜けて心臓が止まりそうになる、そんな経験をもつ登山者も少なくないかと思う。

 それ以外にシロクマにテントを襲われるとか、強烈なブリザードによる衰弱や凍傷といった危険があるわけだが、これらはいずれも人力橇、犬橇にかかわらず発生する、いわば北極という地に特有の危険である。
 しかし私がいう犬橇の危険とはこれらとは別物だ。つまり犬橇だけにともなう特有のリスクのことである。

犬橇が抱えるリスクは犬そのものの危険性

 犬橇の何が危険なのか。ひと言でいえば犬が危険なわけだが、だからといって犬に噛まれるのが危ないとか、犬が飢えて旅の途中で食料を荒らされるのが怖いというわけではない。いや、後者はかなりの注意を要するリスクであるが(植村直己も旅の途中で自分の犬に食料を荒らされている)、今回、私がいいたいのはもっとダイレクトに命にかかわる危険だ。いったい犬の何が怖いかというと、犬が混乱に陥り制御不能となって走り出してしまうことである。走り出した瞬間に橇に乗れないと、自分はその場に置いていかれてしまう。混乱した犬はほぼ止まることはないため、ご主人様である私をのこしてどこまでも、壊れた暴走列車のように地平線の彼方に消えて見えなくなるまで走りつづけてしまう。
 つまり犬の暴走リスクだ。

命にかかわる犬の暴走

 犬が一番暴走しやすいのは氷河や定着氷、乱氷帯などの雪のないカリカリとした氷の上である。つるつるとよく滑り、橇の摩擦もほとんどないためか、犬たちも自分で止まることができなくなるようだ。状況としては一頭の犬が何らかの理由で突然、走り出したときがもっとも危険である。
 たとえばカリカリの氷を嫌って一頭が急に別の方向に走り出すとか、あるいは犬の喧嘩を止めようと私が怒るとそれを怖がり別の犬が急に走り出す、といった状況である。

 一頭が駆け出すと、その犬に他の犬がついていき、一瞬で暴走がはじまるので、私も瞬間的に橇に飛び乗らないとその場に置いていかれてしまう。慣れないうちは犬の引綱に自分の脚が絡まって自分が橇に轢かれそうになったこともあった。

 ロープが堅雪や氷にひっかかって外すときも危険だ。外した瞬間に犬たちがいっせいに駆け出し、置いていかれてしまう。私はまだ経験がないが、シロクマが出現したときも非常に危ないらしい。犬橇を走らせていると途中で引綱がからまるので、十キロぐらい走ったら一度停めて、犬の休憩ついでに引綱をほどくのだが、ほどいているあいだにシロクマがあらわれると悲惨なことになる。何しろグリーンランドの犬はシロクマを見ると追いかける習性があり、そのままもどってこなくなってしまうからだ。二、三頭失うだけならまだしも、旅先ですべての犬がいなくなれば絶体絶命の危機におちいることになる。

犬橇に乗っているときもっとも不安な状況

 何より危険なのは氷河での下りだろう。氷河の下降は橇のランナーに鎖やロープでブレーキをかけて、鞭で犬たちをなだめながら慎重に下るのだが、何かの拍子に犬が暴走すると、下りだけに一気に駆け出してどこかに消えてしまう。
 先日、本当に危ないことがあった。そのとき私は氷河での荷上げを終え、犬が駆け出さないように鞭を振りながら海に向かって下っていた。

 一瞬、氷河の裸氷の上で右足のチェーンスパイクが滑り、バランスを崩し、犬を制御する鞭振りがわずかに遅れた。その瞬間、前に行きたくて行きたくて仕方ない気性の一頭の犬がわずかに駆け出し、その動きにつられて全頭が走り出した。

 そうなるともう止まらない。私は橇後部の舵棒をつかもうとしたがまにあわず、犬は暴走をはじめ、一気に氷河を下りはじめた。アイー! アイー! アウリッチ! と停止のかけ声を叫びつづけたが、たぶん犬たちも後ろからがりがりと恐ろしげな轟音をたてて追いかけてくる橇が怖くて止まれないのだろう。みるみる姿は小さくなり、やがて急斜面の向こうに姿を消した。私は茫然と見送りながら、嗚呼、終わった、もう駄目だと思った。犬たちが向かった先はクレバスだらけのアイスフォールになっており、助かる見込みはほとんどないと思われた。

 奇跡的なことに犬たちはそのアイスフォールの直前でうずくまり、私のことを待っていた。暴走しても崖に飛び込まないだけの理性は、犬にもあるらしい。犬が無事なのを見て本当にホッとしたし、同時に、だったら最初から走るなよと呆れもした。そこから先も犬が崖の下に走り出さないようになだめ、慎重にアイススクリューを打ちこみ、急斜面を安全地帯まで誘導するという緊張感のあふれる作業がつづいた。

 このような危険が犬橇には常にともなっている。村の近くで犬に逃げられても自分は歩いて帰ればいいので最悪死ぬことはないが、人里から何百キロも離れた旅の途上で犬に逃げられたら、かなり深刻な事態になるだろう。

 地元のイヌイットは基本的に一人で犬橇の旅をすることはないが、それも歴史にささえられた知恵なのだろう。要するに犬は常に、一瞬で状況をカオスに陥れるニトログリセリンみたいなものだ。この取り扱い危険物を爆発させないようにうまいことあやつって、一緒に行動をともにするのが犬橇という乗り物であり、芝生のレトリバーとはやはりちがうのである。
(BE-PAL2019年6月号、7月号より)

新刊『どうせ死ぬなら北極で』(角幡唯介、小学館)。3月6日発売の小学館文庫『エベレストには登らない』とあわせて読むと、角幡氏の30代後半から40代半ばにかけての極地旅を網羅的に知ることができる。

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