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2026.06.11

故・星野道夫が出会った老人、ビルのような「清蔵さん」のお話

故・星野道夫が出会った老人、ビルのような「清蔵さん」のお話
北海道の自宅を修繕することにした、ミキオ。そこで出会ったのが92歳の清蔵さん。あたかも故・星野道夫が出会った老人、ビルのようだった。
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黒田未来雄の脱サラ猟師からの手紙 第6回 清蔵とビル

92歳の〝超人〟

「超人」と称される人は世に多かれど、我が家のご近所に暮らす清蔵さんを超える人はいないと、僕は思っている。
 
昭和8年生まれの清蔵さんは、御年92歳。僕の家から2キロほどのところに暮らしている。たまに我が家を覗きに来てくれるのだが、運転免許を持っていない清蔵さんは、自転車で颯爽とやって来る。「その歳で自転車を乗り回すなんて!」と思うかもしれないが、驚くのはまだ早い。清蔵さんは、地元では引っ張りだこの現役選手だ。守備範囲は広く、大工仕事全般、電動工具や機械の修理、草刈りや庭木の剪定に、間伐の依頼までが舞い込む。森に分け入って立木を伐採するなど、とても高齢者がやることとは思えないが、その仕事を請け負うために清蔵さんは少し前にチェーンソーを新調した。しかも、プロの林業家が使う、本気のマシンだ。
 
90代のご老人が福祉サービスの世話になるどころか、現役の労働力として地域に貢献しているという事実。超高齢社会を迎えている日本にとってこんな朗報はないだろう。清蔵さんは歳を重ねるほどに輝きを増す希望の星であり、国家の宝だ。

 
築50年以上が経つ我が家のリフォームでは、いつもお願いしていた大工さんが来られない日にキッチンの天井を張っていただいた。脚立を2台並べて上段に足場板を渡し、その上をヒョイヒョイ歩きながら針葉樹合板をインパクトドライバーで留めてゆく。壁や床と違い、天井を張るのは重力に逆らう仰向けの作業となり、技術的にも体力的にも難度が高い。50代の僕でも、すぐに首や肩が辛くなる。それを、清蔵さんは難なく仕上げてしまった。

 
朝8時になると同時に仕事を始め、作業中は無駄口を叩かずに動き続ける。自分で作ってきた弁当を12時に食べると、板の間に直接ゴロリと横になって寝てしまう。そしてきっかり1時間後には目を覚まし、また仕事に精を出す。
 
リフォームが素人の僕はどのように作業を進めていいかわからず、何かと迷走しがちだった。憂鬱な気分で相談を持ちかけると、「なんも。だいじょぶだ」と力強くいうなり、すぐに解決のために動きだしてくれる。
 
清蔵さんの「だいじょぶだ」に、僕は何度、心を救われただろう。

 
屋内のリフォームがあらかた済んだ後、今度はリビングの外に張り出している、コンクリートのポーチの修理をお願いした。ひび割れがひどく、中心がへこんでいて、雨水が溜まってしまうのだ。僕が所用で外出している間に、清蔵さんはポーチの周りの土をぐるりと掘り、廃材をうまく再利用した型枠を1日かからずに設置してくれた。
 
その2日後。型枠にモルタルを流し込む作業は僕も手伝った。モルタルは、セメントと砂と水を練って作る。この日用意したセメントは4袋。1袋25キロなので、合計で100キロだ。運ぶだけで息が切れる。ところが、清蔵さんが若かったころには、セメントは50キロの袋でしか売っていなかったそうだ。それを左右の肩に2個ずつ乗せ、200キロを一度に運んでいたという。小柄な体の、どこにそんな力を秘めていたのだろう。
 
セメントと砂の配分、水の量、混ぜ方のコツなどを教わりながら作業を進める。清蔵さんは簡単そうにこなしているが、いざ自分でやってみると、腕は張り、腰は痛み、大変な重労働だ。それでも清蔵さんは「疲れた」という言葉を一切発しない。黙々と働き続けた結果、昼過ぎに作業は終了した。

大きな苦労 小さな幸せ
 

休憩時に清蔵さんがぽつりぽつりと話してくれる昔話も、僕にとってはかけがえのない学びだ。
 
裕福ではない家に育った清蔵さんは、10歳で近所の乳牛牧場に丁稚奉公に出された。労働時間は、なんと午前5時から午後8時の15時間にも及んだ。土日はない。唯一の休暇である盆と正月も、もらえる休みは1日か2日しかなかった。
 
特に辛かった仕事は、牛に飲ませる水を井戸から汲み上げる作業だ。その地域は、地下水の水位が低く井戸が深かったため、強い圧をかけないと水は上がらない。ポンプのレバーは清蔵少年が全体重をかけてようやく押せるほどだった。四苦八苦して汲んだ水を、牛は一度にバケツ2杯分ずつ空にしてしまう。毎日、30頭の牛に二度三度と水をあげるのは、涙が出るほど辛かったという。
 
米は滅多に食べられず、イモやカボチャの塩煮が主食だ。年端もゆかぬ少年にとって、どんなに過酷な日々だったことか。ところが清蔵さんは「それでも俺は幸せだったわ。なんせ、牛乳が飲めたからなあ」と目を細める。清蔵さんの話を聞くと、今の自分がどれだけ恵まれているか、抱える悩みがどれだけちっぽけかを思い知らされる。

 
厳しい少年時代を送った清蔵さんは、37歳のときに生まれ育った集落を後にした。その地区が大規模な工業地帯として開発されることが決まり、全員が立ち退く羽目になったのだ。集落の住民には、破格の賠償金が支払われた。多くの人が、そのお金をもとにして事業を興すなど、新たな道を切り拓いた。
 
ところが、清蔵さんが多額の現金を手にすることはなかった。立ち退き料は土地の面積に応じて支払われたが、一家の所有地は狭かった。更に兄弟が4人いて、もらったお金を皆で分配したところ、大した金額にはならなかったのだ。結局、清蔵さんは生涯を通じて肉体労働に勤しむこととなり、そのまま現在に至っている。
 
こうした状況を、不運と捉える人も多いのではないだろうか。ところが清蔵さんは、全くそうは思っていない。慣れない事業経営に失敗し、多額な借金を抱えた知り合い。贅沢を楽しみすぎて生活習慣病となり、早くに世を去った隣人。彼らに比べて、清蔵さんはお金には苦労したものの、健康を維持し、日々の労働に喜びを感じ、未だに近所の人たちに頼りにされている。

「人生、何が幸いするかわからんもんだで」。清蔵さんがつぶやくからこそ、重みを増す言葉だ。

 
午後4時。時計を見た清蔵さんが、慌てて立ち上がる。「おっと、ハルナに飯食わさねば」。ハルナは、清蔵さんの家の向かいに暮らす馬だ。清蔵さんの友人だった飼い主は、残念ながら鬼籍に入られた。今は毎日2回、清蔵さんがエサをあげて世話をしている。
 
いそいそと自転車に跨り、力強くペダルを踏みながら遠ざかってゆく後ろ姿は、年はとっているが老いてはいない。僕はいつも清蔵さんが角を曲がって見えなくなるまで、ずっと眺めている。見送るというよりは、見とれている、という表現のほうがしっくりくる。この時間が、僕はたまらなく好きだ。
 
そして、自転車の上で左右に揺れるその背中は、30年ちかく前に一度だけ会った、ある老人を彷彿とさせる。


星野道夫の〝真のヒーロー〟

1998年の冬。26歳だった僕はアラスカを旅していた。
 
目的は、憧れの写真家の軌跡を辿ることだった。極北の情景や生きものを珠玉の作品として残した、星野道夫。1996年に、カムチャツカでヒグマに襲われ、43歳でこの世を去った。星野は名文筆家としても有名で、僕は彼が文章で紡ぎ出す世界観にも魅了されていた。

 
代表作として知られるエッセイ集『旅をする木』の中で、1章を割いて語られるお年寄りがいる。星野の近所に暮らしていた、ビル・フラーだ。

「何を話す目的がなくとも、今年75歳になるビルに、僕は時どきふっと会いたくなった。人間とは生きてゆく上で時どき励ましを必要とする生き物なら、僕は確実にその力をビルからもらっていた」

 
ビルはあらゆる職を転々としながらアラスカに辿り着き、引退後は幼稚園で音楽を教えるボランティアをしていた。彼を慕う理由ついて、星野はこう書いている。

「ぼくたちのヒーロー、ビル・フラーは、別に何を成し遂げた人でもない。何の肩書きがあるわけでもない。が、ビルは本物だった。いや、だからこそ真のヒーローなのかもしれない。彼を知る人々にとってだけの……」

 
ビルは、いつも自転車に乗っていた。しかも気温がマイナス20度Cまでは、素足にサンダルといういで立ちだ。自転車は、清蔵さんと同様にビルのトレードマーク。無名ではあるが、本物の偉人。どうだろう。ビルと清蔵さんが重なって見えた理由が、おわかりいただけただろうか。

 
その冬、僕は星野道夫の友人で、犬橇家のメアリー・シールズの家にホームステイをしていた。せっかくアラスカまで行くのだから、ビル・フラーにも会いたいと思っていたが、さすがに何の手掛かりもなく、連絡先を突き止めることはできなかった。するとメアリーが電話帳で彼の番号を探し当て、連絡してくれることになった。メアリーは、「会えるかどうかは全てビル次第。期待はしないでね」といいながら受話器を上げた。そのころ、ビルがなかなか人に会おうとしないことを知っていたからだ。星野道夫の没後、彼が「真のヒーロー」と呼ぶビルのもとを、多くの星野ファンが訪れるようになった。そうした状況にビルは疲れてしまい、「自分は特別な人間ではない」と面会を拒絶するようになっていたのだ。
 
そんなビルに、メアリーは「日本から来た若者があなたに会いたがっている」と丁寧に僕のことを説明してくれた。ビルの返答を聞いているメアリーが満面の笑みで僕に頷きかける。なんと、ビルが特別に会ってくれることになったのだ。

 
僕が会いに行った日も、ビルは裸足だった。質素なリビングには古ぼけたピアノとギターくらいしかなく、真ん中には座卓と座椅子が置いてある。アメリカでは見ないスタイルだ。緑色のお茶を出してくれたので、緑茶かと尋ねると「イイエ、ゲンマイチャデス」と教えてくれた。ビルは60代後半になってから日本語を学び始め、600以上もの漢字を覚えた勉強家だった。
 
立ち居振る舞いはゆったりとし、常に柔らかく控えめな声で話す。北海道から新潟までを自転車で旅した話には惹き込まれた。利尻の花、山形の里山、佐渡の荒波。僕の知らない日本の美を、ビルは嬉々として語ってくれた。
 
2時間の滞在はあっという間で、僕は満ち足りた気持ちでビルの家を出た。「自分は特別な存在でもヒーローでもない」という彼の意思を尊重して記念写真も撮らなかったが、目が合っただけで抱き締められたように感じるビルの笑顔は、今も僕の心のフィルムにしっかりと焼き付いている。

〝清貧〟の偉人たち
 

ビルから感じる包容力と、清蔵さんから漂う安心感はとても似ている。彼らの生き方を、敢えてひと言で表わすなら、「清貧」という言葉がしっくりくる。欲は少なく、生活は質素だ。シンプルで身軽な暮らしの中に、精神の自由と幸せを見出す。古来、日本人が最上の美徳として尊んできた境地であると同時に、現代社会で最もおざなりにされている思想ではないだろうか。
 
名誉ある肩書きや、経済的な成功といった、よく目立つ花を咲かせているわけではない。しかし彼らの言葉やまなざしは、見えない地中に深く伸びた根のしなやかさや、どんな強風にも折れない幹の強さを思わせる。艱難辛苦から逃げず、言い訳もせず愚痴もいわず、そこからの学びを糧にしてきた証だろう。

 
共通点の多いビルと清蔵さんには、偶然にも同じ試練が降りかかっている。最愛の我が子に先立たれるという不幸だ。おふたりが、耐え難い苦痛をどのように飲み込み、また立ち上がったのか。僕には想像することさえできない。
 
ビルは「喜びと悲しみは、常にひとつのものとして絡み合っている。子供に大きな喜びを与えている、まさにその瞬間の中にあっても、そこには同時に深い悲しみが存在する」と語っていた。
 
陰と陽。盛者必衰の理。永遠に続く喜びはなく、悲しみもまた同様であること。紆余曲折の長い旅路を振り返ってみれば、そのとき険しいと感じた坂も、広大な大地に連なる緩やかな起伏のひとつに過ぎないのかもしれない。

 
そうした人が傍に立ち、「なんも。だいじょぶだ」と励ましてくれる幸せ。腐敗した政界に、利益至上主義の経済界。僕らにとっての本当のヒーローは、そうした脆弱な舞台で空騒ぎをしている人間ではない。
 
正真正銘の偉人たちは、きっとあなたのすぐそばにいる。決して声高に語ることない彼らは、今この瞬間も、優しいまな差しで世界を見つめている。そして、試練に立ち向かう者の背中をそっと押し、苦しみに喘ぐ者の心を両の腕で抱き締めてくれているはずだ。

清蔵さんの「だいじょぶだ」に、僕は何度、心を救われただろう。

筋力では50代の僕のほうが優っているはず。それでも1日の作業を終えて成果を比べると、やっぱり90代の清蔵さんにはかなわないのが不思議……。

この笑顔に地域の皆が癒やされているが、たまに甘えたことをいってしまったとき、ギロッと睨まれるときの眼光は鋭い。正しい老人の姿だ。

今月の未来雄語録「金や学歴で鹿は獲れない」

問われるのは観察力、想像力、体力 最後は気力。

※イラスト/ブッシュ早坂(編集部)
※撮影/大川原敬明、山田貞司

(BE-PAL 2026年4月号より)

著者画像

黒田未来雄

狩猟家・作家

1972年生まれ、東京都出身。元NHKディレクター。2006年からカナダ・ユーコンに通って狩猟経験を積み、10年後、北海道転勤を機に自らも狩猟を始める。現在はNHKを早期退職して北海道に移住。狩猟採集生活を行ないつつ、執筆や講演を通じてその魅力を発信している。BE-PAL本誌にて「黒田未来雄の脱サラ猟師からの手紙」を連載中。

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