厳冬期の北海道の山やヒマラヤ高峰を登り、ホーン岬やアリューシャンの海を漕いできた二刀流冒険者、新谷暁生さんが語る「山と海の共通点」
探検家・関野吉晴さんが、時代に風穴を開けるような「現代の冒険者たち」に会いに行き、徹底的に話を訊き、現代における冒険の存在意義を問い直す──BE-PAL9月号掲載の連載第26回は、「ニセコのレジェンド」と呼ばれている新谷暁生さんです。
「自然が牙をむけば人間は太刀打ちできない」と語る新谷さんは、なぜ厳しい山と荒れる海を両立させたのか。同世代であり、シーカヤックの弟子でもある関野さんが迫ります。その対談の一部をご紹介します。
関野吉晴/せきの・よしはる
1949年東京都生まれ。探検家、医師、武蔵野美術大学名誉教授(文化人類学)。一橋大学在学中に探検部を創設し、アマゾン川源流などでの長期滞在、「グレートジャーニー」、日本列島にやってきた人びとのルートを辿る「新グレートジャーニー」などの探検を行なう。
新谷暁生/しんや・あきお
1947年北海道生まれ。登山、シーカヤックの二刀流冒険者。1975年にニセコでロッジ・ウッドペッカーズを開業。雪崩事故防止に携わり、「ニセコルール」創設に尽力。冬季は毎朝、「ニセコ雪崩情報」を発信している。主な著書に『北の山河抄』(東京新聞出版局)など。
海は山ととても似ていた
関野 新谷さんは私のシーカヤックの師匠です。1993年、私は、アフリカ大陸で誕生した人類が拡散したルートを逆に遡る旅「グレートジャーニー」を始めました。旅の出発地は南米最南端、パタゴニアのナバリノ島。そこからビーグル水道をカヤックで進み、フエゴ島のダーウィン山脈を越え、マゼラン海峡をカヤックで渡りました。このときサポートしてくれたのが新谷さんです。初っ端から強風、荒波に苦しみ、停滞も続く厳しい旅でした。
でも、新谷さんに叱咤激励され、アドバイスをもらい、一緒に漕ぎきることができました。一方で、新谷さんは山の人でもあります。70年代後半からヒマラヤ、中国への遠征を重ね、86年にはネパール・ヒマラヤのチャムラン登山隊、92年にはパキスタン・カラコルムのラカポシ登山隊で隊長を務めました。海もやり山もやる。どちらも一流で、まさに二刀流です。
新谷 札幌で生まれ育った私は、中学時代に登山を始め、その後、アルピニズムと高峰登山に情熱を傾けました。
関野 高峰登山以上に私がすごいと思うのは、厳冬期に十勝岳から大雪山までテントなしで縦走した記録です。
新谷 北海道の山は険しくないけれど、気象条件が時としてとんでもないことになります。問題は気温より風です。マイナス30度Cは耐えられますが、秒速50mの風には耐えられません。北海道の冬山ではもっと強く吹くこともあります。そんな冬山に数えきれないぐらい登りました。十勝・大雪を縦走したときは、サポートもデポもなしで、20日ぶんの食料を担いで仲間とふたりで縦走しました。
16日間の山行中、すべてイグルーを作って過ごしました。大雪山の稜線はだだっ広くて雪洞を掘れるところが少ないからです。そこで重要になるのは、イグルーをどれだけ手早く作れるか。半日かかっていたら登山になりません。私たちはふたり用のイグルーを1時間以内で作ることができました。それが唯一山で誇れる成果かもしれません(笑)。
関野 テントを持っていかなかったのはどうしてですか?
新谷 テントなしのほうがシンプルで好きだからです。
関野 できるだけ持ち物を減らして自然の中に入る。獣のようでいいですね。もともと山屋だった新谷さんがカヤックを始めたきっかけは何だったのですか?
新谷 パタゴニア創業者のイヴォン・シュイナードとの出会いです。85年冬、テレマークスキーをするためにニセコを訪れたイヴォンのガイドをしました。イヴォンはニセコのパウダーが気に入ったようで、朝から日が暮れるまで森の中を滑っていました。
それで親交が深まり、カリフォルニアのベンチュラでイヴォンからサーフカヤックを教わったんです。自然が牙をむけば人間は太刀打ちできないこと、だからこそ生き残るためには危険察知能力と逃げ足の速さが大切なこと――海と山は似ていると思いました。
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以下の動画で、誌面に掲載しきれなかったこぼれ話もお楽しみいただけます。