今年も富士山が山開きの時期を迎える。山梨県側の吉田ルートが7月1日、静岡県側の須走・御殿場・富士宮ルートが7月10日である。年々、登山者が増えているという富士山。とくに外国人登山者の数は近年急増し、この傾向は登山規制が導入された後もあまり変わっていないらしい。

そんな富士山の魅力を伝える記事を書いてみないか、という依頼を受けたのが昨年春のこと。しかも今回は、江戸時代からつづく富士講の人たちの登拝に同行しての取材だという。願ってもないチャンスと、二つ返事でお請けすることにした。さっそく登山を開始したいところだが、その前に、わが国の文化の中心にどっかり腰を据えるお山の山容を遠望してみようと思う。
富士山の魅力、さまざま

日本の浮世絵(もちろんオリジナル・プリント)が、海外へ輸出される陶器などのクッション材として使われていたことはよく知られている。伊万里焼の皿や壺のあいだに、くしゃくしゃに丸めて押し込まれていた紙屑を広げてみると、なんと富士山を描いた北斎の絵だった。それが「神奈川沖浪裏」だったとしよう(実際は『北斎漫画』だったらしい)。「なんだ、これは!」と西洋人は驚いた。そして呆れた。「なんてもったいないことをするんだ!」
画家たちはもっと驚いた。美術的な観点から驚いた。大胆な構図、見事な色彩、生き生きとした輪郭線。さらに遠近法の無視、遠景と近景の同質性。これこそ、われわれが描きたかったものだ。ロートレックもマネもモネもゴーギャンも、そう思った。そしてみんな浮世絵から大きな影響を受けた。モネにいたっては晩年、自分の家に日本情緒たっぷりの睡蓮の池まで造らせている。こうした事績を鑑みるに、印象派は富士山から生まれたと言っても過言ではあるまい。いや、明らかに過言であり、むしろ暴言に近いものであるが、いまの気持ちとしてはそう言っておきたい。
パリで浮世絵の模写をしていたゴッホは、誰に聞いたのか知らないけれど、日本に似ているということでアルルへ移住してしまう。そこで「はね橋」が描かれる。「ひまわり」が描かれる。「郵便配達夫ルーラン」や「夜のカフェ」や「耳を切った自画像」が描かれる。つまりぼくたちが知っている画家ゴッホもまた富士山から生まれた。極論を通り越して、そう言えないこともないだろう。
さて、問題の北斎であるが、「富嶽三十六景」に描かれた富士山は、どれも意外と控えめである。「神奈川沖浪裏」を含め、遠景に小さく描かれたものが多い。「信州諏訪湖」や「登戸浦」などは、「あっ、こんなところに富士山が」ってくらい小さい。橋の下や、底の抜けた木桶の向こうにちょこんと描かれたものもある。しかも描き方はじつにあっさりしている。白一色のもの、黒いシルエットとして浮かび上がっているもの、輪郭線だけでさっと描いたもの。
それでも一目で富士山とわかる。考えるまでもなく、見た瞬間にわかってしまう。シルエットだけで世界中の人たちが「それ」と認識できるものは、チャップリンとマイケル・ジャクソンと富士山くらいではないか。確証はないが、そういうことにしておこう。エベレストなんて、世界最高峰の山と威張っているけれど、普通の人が写真などで見ても、まわりに似たような山がいっぱいあって、どれがそれだかわからない。
そこへいくと富士山、小さなアイコンであっても見まがいようがない。お酒やビールのラベルに使われても、銭湯の壁に描かれても、富士山はちゃんと富士山である。たとえ幼児が描いても、富士山以外の何ものでもありえない。稚拙な描き方をしたからといって、わからなくなってしまうような、そんなヤワな存在ではないのだ。

しかも驚くべきことに、幼児が描いた富士山の絵からも、その雄大さや崇高さは伝わってくる。これも確証はないが、たぶん伝わってくると思う。お酒やビールのラベルも同様である。銭湯富士に崇高さを求めるのはいかがなものかと思うが、だがやはり銭湯には富士山、他の題材は考えられない。芸者などを描かれては、どこに来ているんだかわからなくなってしまう。
もはやカリスマ性と言っていいだろう。『富嶽三十六景』と題されたシリーズに、北斎が肝心の富士山を小さく、控えめにしか描かなかったのは、主役の性格をよく理解していたからではないだろうか。仮に富士山を大きくにぎにぎしく描いていたら、絵は安っぽく下品なものになったに違いない。
しかし、いざ描くとなると富士一点を威風堂々と描いている。描き切っている。それが「凱風快晴」と「山下白雨」である。辞書によれば、「凱風」とは初夏に吹くそよ風のことだそうだ。なるほど、上空には気持ちのいい雲が描かれている。さらに「南風が万物を長じ養うことから転じて、恩沢のたとえ」とある。まさに神様ではないか。仏様ではないか。
ゴッホの絵を棺桶に入れたいと言った人はいるけれど、富士山を所有したいという人はいないだろう。たんに大きいからではない。神様だから。仏様だから。神仏を所有することはできない。それは遠くから仰ぎ拝むものである。北斎はまさにそのように富士山を扱っている。
神の威容を正面から描いた二つの絵、だが二点とも、富士山はちょっと脇によけている。この演出が心憎い。やはり北斎は富士山の本質をつかんでいたとしか思えない。日本人にとって神や仏は、ちっとも威圧的ではない。どこか控えめで奥ゆかしいのである。まさにそういう富士山である。このとき絵師は七十歳を超えていたと思われる。きっと彼自身が富士山とともに苦労してきたのだろう。娑婆苦を知った人の老練な技と言うべきか。
身も蓋もない言い方をすれば、浮世絵版画は商品である。売れてなんぼのものである。いまでいえば少年マンガの作者みたいなものだ。北斎も広重も、芸術家である前に、ヒット商品を生み出せる優秀な絵師だった。『富嶽三十六景』は、のちに十図が追加されて全四十六図揃いで出版されているから、かなり人気が高かったのだろう。それは顧客の要望に適うものを北斎が描いたからである。遠くから自分たちの暮らしを見守ってくれている、神や仏のような存在。江戸庶民が描いてほしかったのは、まさにそのような富士山だった。
江戸時代のトレイル・ランニング

神仏に見守られているわけだから、悪いことはできない。町人や職人、市井の人々の襟を正させる。そうして江戸市中の治安と規律を護る。富士山はお天道様でもあったのだ。いつも富士山に見守られているという感覚とともに、人々は生きてきた。暮らしを律してきた。博打をしても、酒を飲んでも、女を買っても、心のどこかに富士山があった。それこそ北斎の絵のように、小さく控えめだけれど、けっして消えてなくなるものではない。
背戸の不二青田の風に吹過る(一茶)
前書きに「浅草不二詣」とある。江戸時代には富士信仰の流行を反映して、市中に溶岩や石で「富士塚」と呼ばれるミニチュアの富士を築き、その上に浅間神社を祀ることが流行した。体力的に登拝が無理な老人や子ども、登拝を許されていない女性(富士山は1872年まで女人禁制だった)、毎年お詣りできない人たちにも、富士登拝と同じご利益が得られるようにという願いが込められていた。「浅草不二」とは浅草にあった富士権現をさす。句が作られた六月一日は、浅草浅間神社の祭日だったらしい。
もう一つ、「夕立に打任せたりせどの不二」という句もあり、こちらには「浅草反甫にて」という前書きが付いている。前句の「青田」も同じ田圃である。落語には吉原田圃として出てくる。幕府公認の遊郭である吉原は、当初は現在の人形町のあたりに開設されたが、後に新吉原として浅草寺の裏手にあたる千束に移転した。周囲は吉原田圃(浅草田圃)と呼ばれる田園地帯だった。
夕不二に尻を並べてなく蛙
一茶といえば蛙。芭蕉の「古池や」といい、俳句(俳諧)と蛙は相性がいいようだ。雄大な富士と小さな蛙の取り合わせもさることながら、「並べて」という一語が江戸俳諧らしいユーモアを生み出している。北斎や広重の浮世絵に描かれた富士と同じように、庶民の暮らしのなかに溶け込んだ、身近で親しみやすい富士山である。
富士塚とともに、江戸庶民の富士信仰を代表するのが富士講である。最盛期には「大江戸八百八町」にならって八百八講といわれるほど、市中には多くの講社が存在した。八百八は誇張としても、実際に四百ほどはあったといわれている。
昔は山へ登るとなると、ほとんどが信心である。一人二人で登ることは少なく、たいてい団体で登った。これを「講中(こうじゅう)」、あるいは「講」という。その世話役が講元で、先達の役も務める。いわゆる引率者。この先達さんに率いられ、ぞろぞろと山に登って、お詣りをして帰ってくる。当時の人々は、自分の町内を出て旅をするなどということはめったになかった。スマホも携帯もない時代、家を出てしまえば連絡のとりようがない。「この機会に」ということで、多分に行楽遊興の要素も含まれていたと思われる。
その様子は、落語『大山詣り』などからもうかがえるが、噺のマクラにあるように、「帰りに藤沢でもって女郎買うんだ」「そうかァ。じゃ行こうか」といった浮ついた料簡ではなかったはずだ。ある資料には、「江戸から吉田は健脚で片道三日、強力を雇って七合目まで丸一日、翌日は夜中に出て山頂で御来光を拝んで、下山後は山麓で宿泊する」とある。帰りに丹沢の大山に登り、そこから江ノ島にまわる人もいたというから、大変な体力・脚力である。これを一週間ほどでやってのけたらしい。ほとんどトレイル・ランニングではないか。ちなみに大山の場合も、江戸を真夜中に出て、新宿から双子玉川あたりを経由し、その日のうちに目的地に着いていたという。おそらく当時の人々は、一日六十キロくらいは平気で歩いていたのだろう。
親しみやすい世界遺産

いまや世界が認める日本のランドマーク、富士山。それは米や味噌や醤油や緑茶や梅干や茶碗や箸や畳や布団と同じように、日本人の生活感覚のなかに溶け込んでいる。いや、多々ある日本ブランド統合の象徴が富士山であると言ってもいいだろう。しかもナショナルに閉じていない。世界に向かって、人類に向かってウェルカムと開かれている。梅干はノー・サンキューの人も、富士山には登ってみたいと思う。それは直に日本に触れることだ。日本の心に触れることだ。
悲しいかな、いまではぼくたちも半分外国人みたいなものである。アイデンティティの喪失。われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか……わからん。でも結構毛だらけ猫灰だらけ(©寅次郎)。孤独なデラシネとして、さすらいのインバウンドとして、存分に富士山を味わってみたい。無邪気に、謙虚に、真摯に富士山と向き合ってみたい。
ご承知のように、富士山は2013年にユネスコによって世界遺産に登録された。当初は自然遺産としての登録をめざしたが、火山活動のリスクやゴミ問題、登山者の増加による環境負荷などが課題となり、自然環境の保全状態が十分ではないと判断され登録は見送られた。そこで文化遺産として再申請する方向に切り替えられる。こうして「信仰の対象と芸術の源泉」としての富士山が、めでたく世界文化遺産として正式に登録されたのである。具体的には、山岳信仰の対象としての歴史、富士講をはじめとする巡礼文化、浮世絵や文学作品に描かれてきた象徴性などが評価の中心となった。
現在でも富士山へ登ることは、たんに頂上へ立つことを目的とする登山とは、少し違った意味合いをもっているようだ。そこには厳しい富士の自然と一体化し、あるがままの環境を受け入れ、「生かされている自己を再確認する」といった、伝統的な山岳修験の要素が伏流している。山を汚さず、草木一本に至るまで大切に守ろうとするのも、山全体が霊場であるからだろう。つまり富士山は、個人の修業、信仰の場であるとともに、「自然との共生」という今日的な理念も含みもつ山なのである。

いまや日本が世界に誇る富士山。でも、ご当人はちっとも偉そうじゃない。世界遺産であるにもかかわらず、うっかり「富士さん」と呼んでみたくなるような気安さがある。「死んだはずだよ、お富さん~♪」の軽い調子、浮かれたノリである。他の山だとこうはいかない。たとえば富士山につづいて標高が高い北岳、奥穂高岳、槍ヶ岳、どれも尖っていて痛そうだ。悪沢岳とか大喰岳とか、名前からして恐ろしい。妙高山、金剛山、蔵王山は厳めしい感じだし、薬師岳、観音岳、地蔵岳、阿弥陀岳には、数珠を持って登る必要があるだろう。
そこへいくと富士山はぐっとカジュアル、ソフトで親しみがもてる。そう、やっぱり富士山は「富士さん」なのだ。実際、富士山は素人でもわりと簡単に登れてしまう。標高三千メートルを超えるというのに。そんな山、世界中探しても他にあるだろうか? 誰でも登れるがゆえに山が混雑して、ゴミ問題だとかトイレの維持とか山小屋不足とか弾丸登山とかマナー違反とか、いろいろ問題が出てきているわけだが、そうした現代的な問題点も含めて、この連載では富士山のことを多角的に考えてみたい。(続く)




