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油井昌由樹さんや創刊編集長とキャンプしながら考えてみた
20年振りの再会の瞬間はナチュラルに抱擁!

BE-PALが生まれた45年前、僕たちはこんなキャンプに未来を見ていた

左:俳優・経営者 油井昌由樹
1947年生まれ。1972年、『SPORTS TRAIN』を設立。アメリカのアウトドアグッズ輸入の草分け。俳優としても活躍し、『影武者』『乱』など黒澤明監督作品に多数出演する。
中:BE-PAL創刊編集長 中村 滋
1944年生まれ。漫画編集に15年間携わった後、編集長として『BE-PAL』を創刊。その後、『DIME』、『サライ』の創刊編集長を歴任。現在もメディアプロデューサーとして活動中。
右:ライター・編集者 名畑政治
1959年生まれ。ビーパル創刊4年目からアウトドアライターとして活動開始。その後、時計、カメラ、筆記具、ファッションなどに活動領域を広げ、男性誌を中心に取材・執筆を行なう。
「〝自然を手でつかもう”がキャッチフレーズ。誰もが自然と友達になってほしかった (中村)」

名畑:僕がライターとしてビーパル編集部に出入りするようになったのは創刊4年目ぐらいからです。創刊に立ち会えなかったので、そのころのことを今日はたっぷり聞かせてください。
中村:スタートは、僕が企画開発室という部署のメンバーになって、新しい雑誌の企画をいろいろ考えるようになったことでした。じつは最初は「ビープル」というタイトルでクルマの雑誌を出そうと思っていたんですよ。
油井:ビープル?
中村:人間らしく生きようというコンセプトでビー・ピープル、それを短くしてビープル。ところが、調べたら大阪に『ヴィーブル』という雑誌がすでにあった。それで、友達の意味のパルに変えてビーパルにしたんです。同時に、クルマは先行誌がたくさんあったので、やっぱり面白くないかなと考え直しました。ちょうどそのころ、『POPEYE』などでアメリカンカルチャーのアウトドアスタイルが紹介され始めたところでした。
油井:まさに俺がやっていた仕事です。
中村:その影響で、新しいアウトドア雑誌の企画を考え始めたんです。
名畑:でも、アウトドアでも先行誌はありましたよね。登山とか釣りとかで老舗的な雑誌が。
中村:あったけれど、各分野の専門誌ですよね。“アウトドアライフ”をテーマにした雑誌ではありませんでした。
油井:そう、“ライフ”じゃなかったんですよ。
中村:僕がやりたかったのは“ライフ”。専門的でハードルの高い雑誌ではなく、そこらへんを歩いている誰もが日常的に気軽に自然に親しむきっかけになるような雑誌を作りたかったんです。そのためには、「お、なんだこれ?」って多くの人が手に取りたくなるようにしないといけない。そこで……
名畑:透けたタンクトップの女性を表紙にしたんですね!?
中村:「こんな軟弱なのはアウトドアじゃない」ってほうぼうから叱られました。でも、確信犯だったんです。あの表紙に「自然を手でつかもう。」というキャッチフレーズ。みんな変だと思っただろうし、案の定見事に顰蹙買ったけど、僕は「やったぞ!」と心の中で快哉をあげた。賛否の“否”がない雑誌なんてつまらないじゃないですか。
「創刊時の編集部員のほとんどはアウトドア未経験者。ロケをやるのも大変でした (油井)」
油井:創刊時の編集部員も「そこらへんを歩いている人」でした。アウトドアを知ってる人がほとんどいなくて苦労しました。
名畑:キャンプのロケに行ったのにペンションに泊まってテニスをやっていた、という話を聞いたことがあるんですけど本当ですか?
中村:本当なんですよ。みんな、「テントなんかで寝たことない」っていってました。でも、だからこそ新しくて面白いアウトドア誌が作れると思いました。
名畑:「これはいける!」と?
中村:いや~、売れるという確証はまったくありませんでした。結局のところ、自分が面白いと思うものを作るしかない。そのときに、どれだけ多くの人が「面白い!」と同意の手を挙げてくれるかだけど、そんなのあらかじめ計算できないじゃないですか。ものづくりってそういう世界。「自然を手でつかもう。」というコンセプトが浸透するのに時間がかかるだろうなとは予想していたけど、実際のところ最初の2年は売れ行き的には苦しかったですね。
アウトドア文化の発信源だったスポトレ
名畑:ところで、ビーパル創刊に油井さんはどのような形で絡んだんですか?
油井:俺が西麻布で「SPORTS TRAIN」(略称“スポトレ”)というアウトドアショップを始めたのが1972年。中村さんはお客さんとしてよく来てくれていて、ビーパルの構想は創刊の数年前から聞かされていました。
中村:僕は、大学時代はワンダーフォーゲル部員でアルプスの縦走とかをしていた山屋なんですよ。自然が大好きだったし、テントで寝るのも普通でしたが、ストイックな活動でした。その後、会社に入ってフライフィッシングを始め、アメリカのアウトドアスタイルを知り、スポトレにも通うようになったんです。まだインターネットのない時代。当時、新しい情報を何から得ていたかというと、ショップからでした。中でもアウトドア系の情報といえば、スポトレだった。スポトレに行くと新しいモノがあって、「これ何?」と聞くと、油井さんがいろいろ教えてくれたんです。コールマンの200AランタンにしろL.L.Beanのトートバッグにしろ、スポトレでしか手に入らなかった。スポトレは、アウトドア文化の発信源だったんです。
油井:いろんな人が集まってましたね。
「ツーバーナーとランタンでオートキャンプ。BE-PALは多くのことを広めました (名畑)」
中村:アウトドア作家の田渕義雄さんと出会ったのもスポトレ。それで一緒にフライフィッシングに行くようになりました。当然キャンプをするわけだけど、そのスタイルが僕がワンゲルでやっていものとは180度違った。テーブルがあって、椅子があって、ツーバーナーがあって、ランタンがあって。そのアメリカのアウトドアライフスタイルがビーパルに繋がっていったんです。そして、油井さんや田渕さんにはブレーンとして参加してもらいました。
油井:プレ創刊号を作ったときには、スポトレの床に台割を並べて、あーでもないこーでもないとかやったなあ。創刊号の「へやの中だってやれるぞ1DKアウトドア」という企画では、スポトレの事務所に道具をセットして撮影。道具はすべて俺の私物だったんですよね。




1987年のビーパルイベントTシャツは、めちゃ洒落てる!


創刊号にあらゆるテントを載せた意味
名畑:ビーパルが広めたことって現在にいたるまでたくさんありますが、とくに初期は多かったように思います。ツーバーナーとランタンを車に積んでいくオートキャンプというスタイルとか。
中村:タープもしつこく記事にしました。テントのほかにタープを張ると、その下で調理ができて快適ですよって。今でこそ当たり前だけど、当時はまだそういう発想がなかった。
油井:近ごろのメディアは、「流行ってるものを取り上げる」というスタンスじゃないですか? でも、当時の雑誌は、「これがいいんだぜ!」って紹介していた。アウトドアではビーパルが流行を作っていましたよね。
名畑:マウンテンバイクもそうですよね。
中村:マウンテンバイクの部品を作って輸出するメーカーはあったけれど、完成品を作るメーカーがなかった。そもそも誰もやっていなくて国内に市場がなかったんです。そんな中で、マウンテンバイクで山を走ったらめちゃくちゃ面白いから絶対に流行らせたいと思ったんです。そこで、オリジナルモデルを作って通販したり、ダウンヒルの大会を開催したりしました。

名畑:エクササイズ・ウォーキングもビーパルが早かった。第一人者のギャリー・ヤンカーを招いてウォーキングレッスンを代々木公園でやり、専用シューズを紹介する記事を書きました。
中村:ツリーハウスも。記事がきっかけで原宿にツリーハウスを作った人もいました。
名畑:そういった「流行を作るぞ」っていう心意気を、これからも失わないでほしいですね。
油井:全部、自分たちが楽しんで遊んでた。遊び心満載でしたよね。それと、ビーパルにはこれからもずっとモノが詰まった雑誌でいてほしいと思います。最近のビーパルには付録がついているじゃないですか。俺は、あれが楽しみなんですよね。なんでかというとモノ=道具が好きだから。人間がアウトドアに出たときに、道具がなければ無力でしょ。文字どおり、道具命。だから、使い方も含めて、いい道具が雑誌に詰まっていることが大事だと思うんです。
中村:まったく同感です。人間とは何かを表わすのに、ホモ・サピエンス(知性のある存在)とかホモ・ルーデンス(遊ぶ存在)とかあるけど、ホモ・ファーベルという表現もあるんです。「工作する存在・道具を使う存在」という意味で、道具を使うことが人間を人間たらしめているという見方です。しかも人間は、単純に道具を使うだけではなく、ひとつの道具でもさまざまな工夫をこらし、いろいろな使い方をする。
名畑:たしかに、テントひとつとってもさまざまなテントがあります。
中村:だから、創刊号にあらゆるタイプのテントを載せたんです。自然の中で寝るためにさまざまな工夫をし、次から次へと新製品が出てくるのは、人間だから。道具を突き詰めていった先には人間がいるということをビジュアルで見せたかった。
油井:ホモ・ファーベルのひとりとして、創刊以来、ビーパルでモノの紹介ページがずっと充実しているのは本当にうれしい。
中村:そしてホモ・ファーベルのひとりとして、モノを作る人って本当に偉いと思います。とくに、最初に作った人に対してはものすごいリスペクトがある。でね、最後にいいたいのは、ビーパルも、「誰もが日常的に気軽に自然に親しむ」というコンセプトとして最初のアウトドア雑誌だったということ。
名畑:つまり最初に作った……
一同:俺たちは偉かった(笑)。
「人間とはホモ・ファーベル。BE-PALには、道具がいっぱい詰まった雑誌であり続けてほしい (中村)」

僕らが読むBE-PALの向こうにはアメリカが輝いていた
ビーパル発祥の地ともいえる「SPORTS TRAIN」。 20代のころアメリカのカルチャーに熱狂していた真島辰也さんが、「青春時代のレジェンド」油井昌由樹さんにスポトレ秘話を訊いた。
下の写真左:クラフト作家 真島辰也
1954年生まれ。本誌「井ノ原快彦のつくりびと」で活躍中のクラフト作家。

真島:かつて日本のアウトドアはアルプスの登山文化の影響でヨーロッパを向いていたとされています。そんな日本に、1970年代から’80年代にかけて、アメリカのアウトドアカルチャーを輸入し広めたのがスポトレであり、油井さんが携わった『Made in USA CATALOG』や『POPEYE』、そしてビーパルだと思うんです。あのころ、僕にはアメリカのモノがなんでもかっこよく輝いて見えていました。油井さんはどうしてスポトレを始めたのですか?

油井:もともと俺は都会派の人間で、赤坂のクラブで米軍のGIと踊りまくっていたような学生でした。それが、大学卒業後すぐに世界一周の旅に出て、最初に降りたアラスカのアンカレッジで人生が一変。大自然を目の当たりにして衝撃を受け、ホテルの隣にあった雑貨屋でコールマンなどのアウトドアグッズに目を奪われ、パンタロンとボディシャツを脱ぎ捨て、リーバイス501とダンガリーシャツ、バンダナ、ワークブーツ姿になったんです。その格好で、オランダ・アムステルダムに飛んだら、ヨーロッパの人たちから、「かっこいい」と褒められた。それで、「もしかして、俺ってセンスいいのかも」とアウトドアのモノを意識的に見るようになったんです。そういう目で世界を回って、最後にアメリカでバンダナなどを大量に買い込んで日本に帰国。すると日本でも友達があまりにも欲しがるので、スポトレを設立して輸入販売を始めました。

真島:日本に初めて輸入したものがたくさんあるんですよね。
油井:コールマンのランタン、L.L.Beanのトートバッグとメインハンティングシューズとフィールドコート、エディー・バウアーやレッドウィングのワークブーツ、コロンビアスポーツやCAMP7の製品、フランス・オピネルのナイフ、イギリス・マクラーレンのガダバウトチェアとベビーバギー……。バンダナもだし、カウチンセーターやダッチオーブンもそう。真島さんは憧れた道具とかありました?
真島:全部手に入れてアウトドア道具で暮らしたかったぐらいです。苦い思い出としてはダウンジャケット。高くて手が出ませんでした。
油井:スポトレではオービスっていう釣り道具ブランドのダウンベストを輸入したな。これも飛ぶように売れました。
真島:何から何まで……スポトレすごすぎとあらためて驚きです。
東京で初めてゴールデンレトリバーを飼った人は油井さんらしいw


※構成/鍋田吉郎 撮影/三浦孝明 撮影協力/実谷オートキャンプ場
(BE-PAL 2026年7月号より)




