下流の淡水魚は、日本人のソウルフードだった! | ナチュラルライフ 【BE-PAL】キャンプ、アウトドア、自然派生活の情報源ビーパル

ナチュラルライフ

2026.10.06

下流の淡水魚は、日本人のソウルフードだった!

下流の淡水魚は、日本人のソウルフードだった!
川漁と聞くと上流のアユ漁を思い浮かべる人が多いだろう。だが、昔は下流のほうが漁は盛んで、魚種・漁法、漁獲高ともに多かった。そんな下流の魚と漁に魅せられ、サラリーマンから漁師に転じた男がいる。その目に映る自然と、流域文化の今を追う。
Text
Source

新連載 利根川図志 専業川漁師から見た坂東太郎の魚族 第1回 

語り/太田敏晴 聞き書き/かくまつとむ

太田敏晴(おおた・としはる)

1967年千葉県神崎町生まれ。幼少期から兼業漁師だった父親の漁を手伝う。青山学院大学法学部卒業後、新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)に就職。2025年に57歳で早期退職。以後、専業漁師として利根川に出る。屋号は『寺丸水産』。

image

信濃川に次いで全国二番目の長さを誇る利根川の別名は、坂東太郎。太郎とは長男の意味である。筑紫次郎(筑後川=九州)、四国三郎(吉野川)という呼び名もあることから、正確な測量が行なわれる前の感覚では日本一の大河と受け止められていたようだ。
 
利根川の源流は、上越国境にある大水上山(1834m)の北東斜面に広がる雪渓である。この一帯の沢水が無数の支流となり、原生林を駆け下った。平野部に着くと、遠方からの流れと合流。ときどき暴れては、茫洋と霞む湿原風景を作り上げた。
 
幕末、この川を地誌的に俯瞰することを思い立ち、『利根川図志』という本にまとめた人物がいる。下流域の河岸の町、下総国布川(現・茨城県利根町)の医者で学者の赤松宗旦だ。現代の利根川の河口は千葉県東端の銚子。だが、本来の利根川河口は太平洋へ注ぐこの位置ではない。
 
江戸時代より前、利根川は江戸湾(東京湾)へ流れ込んでいた。そう、現在の江戸川こそが利根川だったのだ。
 
利根川の来歴はかなりややこしい。平安時代くらいまでの関東平野の大部分は、縄文海進の名残である広大な汽水内湾と低湿地だった。そこに少しずつ水田が拓かれ、集落が生まれた。
 
川の流れは無数にあった。ただ、いずれも浅いため大水が出るたびに位置や形が変わる。後に銚子へ導かれる利根川の河口部は、香取海と呼ばれた内湾に注ぐ常陸川を利用したものだ。
 
そんな自然の水系構造に手を入れたのが江戸幕府である。この時代の物流は陸路より水路が圧倒的に有利だった。たとえば馬で1回に運べる米の量は2俵(関東俵で約90㎏)。船なら船頭一人で操る小船でも25俵積むことができた。高瀬舟のような大きな川船になれば1200俵近くも運べたという。
 
幕府は、関東以北の物資を江戸城下へ効率良く集める手段として、利根川のバイパス工事に乗り出した。掘削や築堤によっていくつもの流れを付け替え、川を数本に集約する。その中で最も太い流れを太平洋に面した銚子口へ導いたのだ。この大改修は江戸後期まで数次にわたって続けられた。

明治政府が利根川東遷にこだわり続けた理由

『利根川図志』に描かれている流域の地図には、物流拠点の河岸の名が細かく書き込まれている。習俗や歴史についての記述からも、川は社会の動脈で、人々が常に水を意識して暮らしていたことがわかる。挿入された美しい風景画や、下流へ行くほど増える不定形な中州の地図からは、自然に対する人間の介入には限界があったことも窺える。

明治に入ると、利根川には新たな社会的役割が加わった。帝都防衛だ。江戸期の水路整備は経済には貢献したものの、大洪水にはなす術がなかった。新政府は、利根川があふれて天皇が座す東京のすぐ脇を流れる江戸川へ流れ込むことだけはなんとしても防ぎたかったようだ。
 
さっそくお雇い外国人技師らに策を求めた。提出されたのが、江戸川を拡張して流れ込んだ水を東京湾へ速やかに排出する案だ。関東平野の勾配を考えると、これが最も現実的だったのだ。
ところが政府は、合理性の高いこの案を退ける。結局、江戸幕府が築いた東遷ルートをなぞる策をとったのだ。
 
なぜそんな消極策をとったのか。足尾銅山の鉱毒問題隠しだとする解釈が今では有力だ。利根川支流・渡良瀬川一帯の自然と暮らしを破壊した鉱毒は、近代日本で最初の悲惨な公害である。
 
政府は問題の鎮静化に躍起になっていた。被害農民を強制的に立ち退かせ、そこを遊水池にしたのも対策のひとつだが、豪雨が関東一帯を襲えば鉱毒水が帝都まで押し寄せる不安があった。
明治政府は、江戸幕府が物流のために整えた利根川をより直線化し、堤防をかさ上げする形で対応したのである。
 
記録的な大型台風が襲った戦後の1947年以降は、治水対策がより強化されるとともに、利水の視点が経済政策として加わった。上流には多くのダムが作られ、流路の直線化と堤防のかさ上げがさらに進む。排水を促すため下流部で大がかりな浚渫が進められた結果、大潮時に海水が逆流して下流部の稲が枯れるなどの問題が生じた。その対策として1971年に完成したのが利根川河口堰である。
 
このように、利根川は激しく変貌してきた川だ。『利根川図志』は、それほど人工的ではなかった明治以前の利根川の様子を知ることができる貴重な資料でもある。後年こそ菅江真澄の『遊覧記』や鈴木牧之の『北越雪譜』に匹敵する書物として評価されるようになったが、完成のタイミングが悪かった。初刊は出版できたものの、幕府は以後の刊行を認めなかった。理由は関東地方の詳細な地勢情報を含んでいたためのようだ。直後に水戸藩の脱藩浪士らが起こした桜田門外の変の影響、つまりテロ対策だろう。

淡水漁業の価値は経済原理だけで計れない「遊び仕事」

『利根川図志』には、現代の自然愛好家から見ても興味深い記述も数多くある。たとえば利根川下流で営まれていた漁業と獲物だ。ウナギ、コイ、フナ、サケ、サヨリ、カニ、エビ……。ほかにも当時見ることができた獣や鳥、薬になる水草、さらにはカッパやカハ(ワ)ボタルと呼ばれる怪異の存在まで、自然を事細かに採録している。

『利根川図志』は、流域住民のひとりである私の愛読書だが、本連載のきっかけも、この古典の導きによるものといえるかもしれない。

 
利根川下流に、水運の河岸として栄えた神崎という町がある。現在は千葉県一小さな町だが、昔は酒や醬油、味噌などの醸造で賑わう蔵の町だった。神崎町は、水運時代の文化に光を当て〈発酵のまち〉をスローガンに掲げる。
 
その神崎町と多少の縁がある私は、ある日、地元の人から興味深い情報を得た。町の真ん前の利根川でウナギを獲っている川漁師がいるという。しかも専業らしい。これは、今の時代にあってはなかなか珍しいことである。
 
淡水魚は、日本人のソウルフードともいえる食資源だった。イワナやヤマメ、アユのような上流域の魚ばかりではなく、下流域にいるフナ、コイ、ナマズ、ウナギ、モクズガニ、小エビ、その他の雑魚も、かつては庶民の暮らしを支える貴重な幸だった。
 
このような止水域は稲作地帯でもある。自分たちの田んぼの前まで魚がやってくるのだから、獲らない理由はないだろう。日々のおかずになるし、なんといっても面白い。川漁には生業的な要素もあるが、海の漁に比べれば命に関わるような緊張は少なく、そのぶん娯楽性が高い。経済原理だけで計ることのできないこのような営みの価値を、現代民俗学はマイナー・サブシステンスと呼ぶ。和訳すれば︿遊び仕事﹀だ。
 
淡水漁業は古来遊びと仕事の境目近くにある営みだが、純粋な娯楽でもないため、収入の足しにならなければモチベーションは下がる。その従事者(内水面漁業組合員)は1981年の62万人をピークに減り続け、2023年には21万人台まで割り込んでいる。2035年には、最悪の場合ゼロになるとする予測モデルすらある。
 
淡水漁業の衰退についてはさまざまな背景が指摘されている。最大の要因は環境問題だ。人間活動の影響が自然の復元力を超え、資源の再生産が困難な状態に突入しているのだ。
 
味の問題も原因だろう。止水域の魚には、もともと水や底泥に含まれる有機物由来のオフフレーバー(異味)があるものだが、きれいな地下水で数日泳がせてから調理する「泥吐かせ」によって除去することができる。だが、水質の悪化が進み、生活排水由来の合成化学物質が増えると、従来の泥吐かせ程度では対処が難しくなる。
 
淡水魚の魅力が薄れかかったところに押し寄せたのが、コールドチェーン(低温物流)革命である。海から遠い内陸部でも、国内外の海で獲れた新鮮な海産物がいつでも買える。そんな時代に突入したことで、日本の基層的な食資源だった淡水魚は人々から顧みられない存在になっていった。

淡水魚の魅力が忘れられるとともに、自然に対する日本人の感受性も鈍っていっている。そんな寂しさを覚えていただけに、利根川下流の神崎町でウナギを獲っている専業漁師を紹介されたときは、感動に近い驚きがあった。

ウナギは、厳しいなりに今もコンスタントに獲れる

 
その漁師の名前は太田敏晴。印旛沼漁業組合所属の正組合員だ。成田市在住だが、実家が今も神崎町にある。父親は兼業漁師で、子どものころからその川漁を手伝うため船に乗ってきた。
 
太田は漫画『釣りキチ三平』の影響を強く受けた世代でもある。“神崎の三平”を自任し、利根川下流で可能なあらゆる釣りに挑戦してきたという。
 
挨拶早々、太田は1冊の本を取り出して見せた。なんと私が座右の書にしている赤松宗旦の『利根川図志』である。

「バイブルみたいなものなんですよ。私はこの『利根川図志』の中にも絵がある、神崎神社下の河岸通りの端で生まれました。先祖は隣の大栄町(現・成田市)の奈土という土地の出です。今はそうでもないと思いますが、奈土にはウナギを食べてはいけないという禁忌があることで有名な地区です。そこにルーツのある私がウナギの漁師をやっているっていうのも、なんだかおかしな話なんですけどね」
 
共に愛読書とわかった『利根川図志』の話でしばし盛り上がった後、さっそく船に乗せてもらう約束を取り付けた。
 
初夏の今はウナギの最盛期だ。太田によれば、子どものころに比べるとウナギはかなり減ったが、厳しいなりにコンスタントに獲れているという。
 
太田が子どものころによくやったウナギ獲りは、ツクシという釣りだ。

「私が小学高学年から中学生のころは、田んぼにつながる水路にもウナギがたくさん入ってきました。ツクシはそういう場所のウナギを狙う技法です。1.5mほどの長さの篠竹から撚り糸を伸ばし、その先にハリを結びます。餌を付けたら水路の底の泥に篠竹の一方を20㎝ほど突き刺します。
 
ツクシのメリットは機動性ですね。子どもにも簡単にできるので、束ねたツクシを背負っては友達と自転車であちこちの水路へ出かけたものです。1970年代から’80年代の頭です。
 
ええ、よく釣れましたから人気がありましたよ。昔、茨城県側の新利根川で漁をしていたという方から、50本ツクシを刺しておいたら49匹ウナギがかかったことがあったと聞きました。あと1匹釣れればパーフェクトだったのに悔しかったと懐かしそうに笑っていました。そんな時代もあるんです。
 
ただ、ツクシには欠点もあります。糸が障害物や篠竹にからむとウナギが暴れ、糸が体に巻き付いて死ぬ率が高いんですよ。死んだものはアガリ鰻と呼ばれ価値がなくなります。大きなコイやナマズがかかるとツクシが抜け、持っていかれることもありました」
 
かつてよく行なったもうひとつの方法が延縄である。これは、船を使って行なう仕事としてのウナギ獲りだ。
 
ただ、現在の太田のウナギの獲り方は、タカッポと呼ばれる竹筒を使う漁だけだ。漁法が昔と変わった理由についてはいずれ説明したいが、このタカッポ漁がなかなか面白い。
 
節をすべて抜いた竹を紐で結んで川底へ沈め、暗い場所をねぐらにするウナギが中に入るのを待つ。一定の日数が経ったら竹筒を水平に保ったまま船縁まで引き揚げ、サデ網を構えて筒を傾ける。中にウナギが入っていれば網の中へ滑り落ちるという寸法だ。
 
竹の形状をそのまま活かせるタカッポは、構造が単純なことから原始的な漁具とみられやすい。だが、そうともいえない。そもそもタカッポに使えるような太さの竹(マダケ)は渡来植物で、各地に広がるのは奈良時代以降だ。
 
似たような細長い漁具に、縄文時代から使われてきた筌がある。笹や木の枝を円錐形に編んだ罠で、入り口には逆走を防ぐカエシがある。筌には餌で誘引する方法と魚の通り道に仕掛ける方法とがあるが、タカッポにはカエシがなく、餌も用いないのが普通だ。

「昼間のウナギは暗い場所をねぐらにするといっても、なかなか用心深い魚です。材料は自然素材の竹ですが、人間が作ったこんな道具に好んで入るほどバカだとは思えません。まずは障害物のすき間など自然のねぐらを選んでいると私は見ています。利根川下流は泥底で障害物が少ないため、泥の中に潜り込んで寝ているウナギもいます。
 
じゃあウナギが竹筒を利用するのはどんな場合か。それは個体数に対して障害物の数が足りない、つまり生息密度が高い場合です。そういう場所では、竹筒のような怪しげなものでも仕方なくねぐらとして使うんだと思います」
 
生息密度が高そうな場所だからといって、漫然と竹筒を沈めただけでは入ってくれない。太田のタカッポ漁には、基本法則に加え独自にたどりついた工夫があるようだ。〈次号に続く〉

*約6000年前の縄文時代に、地球の気温が上がり氷がとけ、海水面が現在より約2〜3メートル高くなった現象

image

『利根川図志』に描かれた、現在の神崎町付近。入り組んだ岸辺や沖に霞む高瀬舟から、当時のダイナミックな自然が想像できる。 国立公文書館所蔵

image

ウナギにはさまざまな獲り方があるが、現在の利根川下流部では、ほとんどがタカッポという竹筒を利用した漁法になっている。

ツクシ

image
image

水路に仕掛けるウナギ釣りの仕掛け。1.5mほどの篠竹に糸とハリを結ぶ。夕方にミミズやザリガニなどを付けて差し込んでおき、翌朝見に行く。掛かっていれば糸がピンと張っている。

延縄

image

かつての利根川の代表的なウナギ漁法。300~500mの道糸に枝バリを50~100本結ぶ。操船しながら餌を付けて投入する。

image

捕獲率は高いが、ウナギが弱りやすいのが欠点。

image

天然ウナギは養殖物のように大きさや数をそろえることが難しい。仲介業者も減り、漁師自ら売り先を開拓しなければならない時代に。

利根川下流の生きものたち

ビワヒガイ コイ科(国内外来種)

image

利根川は外来種(移入種)が特に多いことで知られる。水系としてつながる霞ケ浦(茨城県)では、漁業の振興を目的に明治時代から内外のさまざまな魚が導入されてきた。ビワヒガイはその先陣を切った魚である。もともとは琵琶湖(滋賀県)だけに生息する固有亜種だ。明治天皇が好んだことから鰉(ひがい)という和製漢字も作られた。これにあやかった霞ケ浦では名産化計画が持ち上がり、1918年に250尾が移植放流された。当時は生物多様性の概念がなく、行政自体が分布域を無視した移動の問題性に想像が及ばなかった。最盛期には年間漁獲高が60tに達した霞ケ浦のビワヒガイだが、近年は減少。利根川でもたまに網に入る程度。

※撮影/藤田修平 写真提供/太田敏晴 イラスト/吉井汐希

(BE-PAL 2026年10月号より)

NEW ARTICLES

『 ナチュラルライフ 』新着編集部記事

大都会のビルでSDGsを実現!三井不動産が手がける「新・循環型施設」とは

2026.10.05

【関野吉晴の冒険】思いどおりのいい形の打製石器はなかなかできない。だから夢中になる

2026.09.29

鍋の焦げ付きは酢で落とせる?正しい落とし方や素材別の注意点・頑固な焦げへの対処法を徹底解説

2026.09.29

栗拾いの時期はいつ?拾い方のコツや関東のおすすめスポットを紹介

2026.09.27

綿由来のビールが誕生! オーガニックコットンブランド「プリスティン」がなぜビールを造るのか

2026.09.21

台所の野菜くずがハーブを育てる土になる。わが家の「ミミズコンポスト」生活

2026.09.11

「不耕起栽培田んぼ」は手植えが面倒!? いえいえ、けっこう楽しいんです!

2026.09.07

漫画家つの丸さんが、わんこもお気に入りのお食事処をみつけた!

2026.09.05