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黒田未来雄の脱サラ猟師からの手紙 第10回 ドキュメント〝ヘラジカ猟〟〈後編〉
DAY6 ついに現われたヘラジカ
6日目。前夜の間にまた雪が降ったが、久しぶりに朝から気持ちいい青空が広がった。ドナが「今日はきっといいことがあるわ」と呟く。ゆっくりと朝ご飯を食べてから出発した。
新雪の地面には足跡がくっきりと残る。いつもより少しだけ8輪駆動車のスピードを落とし、木々の間にヘラジカの姿を探すと同時に、地表の足跡にも注意を払う。すると、前の日に僕らがつけた轍を上から踏んでいる、くっきりとした足跡を見つけた。見るからに新鮮だ。僕らが通った後、昨晩から今朝にかけてのどこかのタイミングでヘラジカが横切ったのだ。大きさから見てオスで間違いない。足跡は山を降りる方向に向かっている。キースはすぐに車両をUターンさせた。
鬱蒼とした針葉樹の中ではヘラジカを見つけるのは難しいので、草地が広がるポイントまで戻る。エンジンを切り、キースがメスの鳴き真似をする。しばらく待っても反応はない。手分けをしてあたりを歩き回り、痕跡を探すことにした。しばらく探索するが、うららかな陽光のおかげで気温が上がって雪が溶け始めた。つけたばかりの自分の足跡でさえ、みるみる輪郭がぼやける。ここで足跡を探し続けても、勝算があるとは思えない。全員が車両に戻り、どうすべきかを考えていたそのとき。不意に1キロほど先の稜線を歩く、オスのヘラジカの姿が目に飛び込んできた。どうやら僕らはヘラジカを追い越し、彼より下に出てしまったようだ。「静かに!」と、まずはジェスチャーで皆に伝えた上で、ゆっくりとヘラジカを指し示す。キースが大きく頷き、「Good job!」と親指を立てる。全員が即座に臨戦態勢に入った。
キースがメスの鳴き真似をする。ドナはガンケースからライフルを取り出し、早々と射撃の準備を始める。ヘラジカは速度を変えずに歩き続けているが、キースの声に反応して進路が少し変わり、斜面を降り始めたように見えた。そのまま観察していると、ジグザグに歩きながらこちらに向かってくるではないか。
「ンォフッ、ンォフッ!」オス独特の鳴き声も聞こえてきた。ドナは座席の背もたれにライフルを固定し、既に体勢は万全だ。キースはドナの隣に寄り添い、必要な情報を小声で耳打ちしている。僕とブランドンは、車両の後ろに回って身を隠した。
背の低い木々が生える斜面を歩いていたヘラジカは、その下の針葉樹林に入って一旦姿を消した。ヘラジカの気が変わることなく進路を保ってくれれば、林を抜けて僕らがいる草地に出てくることになる。キースが小さめの声で、最後の鳴き真似をする。音量を控えめにすることで、早くアプローチしないとメスが立ち去ってしまうかもしれないと思わせ、オスを焦らせるのだ。
ヘラジカが見えなくなってからの数分間。僕ら4人は皆、心をひとつに同じことを祈っていたはずだ。「出てこい、出てこい……」
ヘラジカの鳴き声が徐々に近くなってきた。枝を踏みしだく足音も聞こえてくる。やがて、木々の間から白っぽい角が見え隠れし始めた。距離は100メートルほどで、相変わらずジグザグに歩いている。体はまだ灌木に隠れており、見えるのは角と頭の上部だけだ。音を立てないようにドナがゆっくりとライフルに弾を装填する。そして遂に、彼は全身を現わした。威容を誇る世界最大のシカが、目の前に聳え立つ。

ヘラジカの形をした大きな愛
そこからのヘラジカの行動は不可解だった。どう考えても、8輪駆動車に身を寄せる僕らはメスのヘラジカには見えないはずだ。それでも彼は確実に歩を進める。近づくにつれ、しきりに舌を出し入れしているのが見えた。発情したメスのにおいを確認するためのフレーメン反応とも関係があるのだろうか。しかし今、彼の鼻が感じているのは5日間風呂に入っていない人間と、8輪駆動車が発するガソリンのにおいのはずだ。それでも立ち止まろうとしないどころか、ジグザグに歩くのをやめて真っ直ぐに歩き始めた。盛りがついたオスならではの盲目的な行動、というだけでは説明しきれない。
距離は50メートルを切った。完全に射程距離に入っているが、ドナはまだ引き金を引かない。理由は、ヘラジカの体の向きだ。僕らと真正面から向き合っている。キースは常々「獲物が横を向くのを待って心臓を狙え」といっている。真正面から獲物の胴体を撃つと、銃弾が体を縦に貫通するため、肉や内臓にダメージが大きい。だから狙うとしたら頭蓋骨のすぐ下、第一頸椎になるのだが、的が小さくて射撃の難度が高い。苦節6日目にして、ようやく掴んだチャンス。集落の人々も首を長くしてヘラジカの肉を待ち望んでいる。ここは何が何でも、確実に仕留める必要がある。
ヘラジカは30メートルまで近づいたところでいぶかしげに顔を振り、しばらく立ち止まった。5年前にもキースがヘラジカを射止める瞬間を見たが、もっと遠かった。この距離でヘラジカを見るのは生まれて初めてだ。動物園と違い、僕と彼の間には檻も溝も存在しない。真っ直ぐにこちらを見据える小さな眼。両の手のひらを広げたような形をした巨大な角はパラボラアンテナのように作用し、前方から聞こえてくる微細な音をヘラジカの耳に届ける。きっと僕の押し殺した息遣いも、はっきりと聞こえているはずだ。
もうすぐだ。あとほんの少ししたら、僕らは彼の命をいただくだろう。しかし強烈な生命力のオーラを放っている彼を前に、それは非現実的で、何か遠い次元の出来事にも感じられる。
彼の生涯に強制的にピリオドを打つ僕らの行為は、果たして残虐なものなのだろうか。そして我が身を僕らに授け、永遠なる輪廻の世界へと旅立つ彼は、哀れな存在なのだろうか。ヘラジカを射止める僕らが勝者ということはなく、銃弾に倒れる彼が敗者な訳でもない。命をいただく者と、差し出す者。両者の間を満たしているのは、静けさだけだ。
張り詰めてはいるが、緊張とは微妙に違った不思議な感覚。心は夜明け前の澄みきった湖のようだ。そこに波紋も立てずにヘラジカの魂が浮かんでいる。僕は祈った。
「よくぞ、よくぞ僕らのもとへ来てくださいました。こんなに強く、美しい命に触れさせていただけることを、心から光栄に思います。今、僕らはあなたの命をいただき、いつか自分の命をお返しするその日まで、あなたを讚え続けます」
ヘラジカは落ち着き払った様子で右に方向転換し、ゆったりと歩き始めた。巨大な体軀があらわになる。これ以上望みようもない、絶好のシチュエーション。1歩、2歩……。6歩目でドナのライフルが火を吹いた。ヘラジカは一瞬天を仰ぎ、その場に崩れ落ちた。
こうして、僕らはようやく1頭のヘラジカを授かった。体重は400キロ弱、4歳くらいの若いオスだった。最大で700キロに達するヘラジカにしては、あまり大きいほうではない。とはいえ、皮を剥ぎ、骨を断ち、肉を切り取る作業のひとつひとつが、これでもかというほどの重労働だった。冷たい小雨が降りだす中、解体を終えて全ての肉をトレーラーに積み込むのに5時間を要した。ここ数年、北海道で行なう自分の狩猟でこんなハードな思いをすることはなかった。僕は改めて、肉を得ることの大変さを思い知った。
同時に感じていたのは、このヘラジカへの感謝と愛しさだった。「心根のよい猟師のもとには、獲物が自らを捧げにやってくる」。洋の東西を問わず、各地の先住民に同じような言い伝えがある。ハンターにとってあまりに都合のいい解釈だ、という人もいるかもしれない。しかし人間よりはるかに鋭い五感を持ったヘラジカが、なぜあのような行動をとったのか。不思議な体験をした本人にしかわからない感覚もあるのではないだろうか。大切な友人と家族、そして自分自身の腹を満たしてくれる素晴らしい獲物。大いなるものが、その寵愛をヘラジカという形に凝縮させて、僕らに届けてくれたように思えてならなかった。
そして、それを懸命に追い、獲り、祈り、きちんとした肉にして皆に分け与える、途轍もなく大変なハンターの行為もまた、愛そのものだ。全てが愛という言葉に集約される。「ありがとうございます」という単純な言葉以外は浮かばない。心の中でひたすら繰り返しているうちに、涙が溢れそうになった。猟場で泣くとキースに怒られる。ただしそれが嬉し泣きなら、許されるのではないだろうか。そう思いながらもやはり僕は泣くのを我慢し、押し寄せる幸福感を浴び続けていた。
先住民の悪あがき
ヘラジカを撃ったその日のうちに、僕らは山を降りた。キースの家に辿り着いたのは夜8時過ぎだった。すぐに全ての肉を専用の貯蔵小屋に吊るし、ハンノキの生木を焚いて煙で燻し始める。今回僕が手伝うことができたのはここまでだ。こうして1週間ほど熟成した後、肉は切り分けられ、細かくトリミングされる。部位によっては火を通す。1食分ずつ真空パックに詰め、冷凍する。ヘラジカ1頭分の肉を完全に処理するには4週間もかかるという。
引き金を引くのは一瞬だ。しかしその前に何日間も雨に濡れて雪に凍え、撃った後には過酷な解体が待ち受け、山を降りてもまだ長期間の労働が続く。これが狩猟という行為の実態だ。
6日間にわたって酷使した体は悲鳴をあげ、眠くてたまらない。久しぶりに暖房を効かせた部屋で、ゆっくりベッドで寝ようと考えていた矢先、キースが「裏庭で焚き火をしようぜ」と言いだした。ブランドンがあっという間に火をつけると、ドナは嬉々として家からビールをケースで持ち出してくる。どれだけアウトドアが好きなのだろうか。驚きを通り越して半ば呆れている僕を尻目に、盛大な宴が始まった。未だに文明社会に戻りたくない先住民たちの、最後の悪あがきだ。
その夜、僕は改めてキースに問うた。「スーパーでも肉は買えるのに、なぜ狩猟をするの?」僕自身が、よく聞かれる質問だ。自分なりに答えることはできる。でも敢えて、キースがどう答えるのかを知りたかった。キースは一瞬面食らったような顔をしたが、〝Because I have to bring meat to my people.〟と答えてくれた。直訳すれば「一族に肉を届ける必要があるから」となる。質問の答えになっていないような気もするが、僕にとっては十分だった。彼のいう〝meat〟が店で買う肉とは次元を異にするものであり、その言葉の裏にどれだけの苦労が存在し、強い想いが込められているかを知っているからだ。
炎を見ながらキースが呟く。「今年のヘラジカ猟は、これで終わりだな」。今までキースは、年に2頭のヘラジカを撃ってきた。2頭獲れば、キースの親族や集落の古老たちが、翌年までヘラジカの肉に困ることはない。だから3頭目のヘラジカが現われても撃たない。しかし今年はキースはまだ1頭しか獲っていない。そしてこれからも、1頭しか獲らないという。理由があった。
キースが狩猟を仕込んできたドナの息子が、自分でヘラジカを撃てるまでに腕を上げたのだ。実際、僕らが山に籠っている間に、彼は湖のほとりでオスを1頭獲り、ボートに肉を満載して帰ってきた。どのようにしてそのヘラジカを獲ったのか、彼の話を聞くキースの表情は慈愛に溢れ、最高に嬉しそうだった。ブランドンがひとりでヘラジカを仕留める日も、そう遠くはないはずだ。そしていずれキースが山に入れなくなる日が来た暁には、彼らがキースのもとに肉を運んでくれるだろう。これまでキースが、年寄りに肉を届けてきたように。ユーコンの先住民にとって、いや狩猟採集民族として生きる全ての人間にとって、それこそが「一人前になる」ということなのだ。
夜が更け、気温も氷点下に落ちてきたが、誰も家に入ろうと言いださない。ブランドンはいつもどおりにひたすら薪を足し、火の勢いは増すばかりだ。顔が火照り、体は芯から温まっている。この炎のように高い熱量で命を燃やし、潔く燃え尽きることができたらどれだけ素敵なことだろう。
〝To the mountain!〟
突如キースが大きな声を上げ、ウィスキーを焚き火にかけた。青白くまばゆい炎が上がり、火を囲む仲間たちの最高の笑顔が、瞬間的に暗闇に浮かび上がる。彼らの後ろに、あのヘラジカの姿が見えた気がした。
勢いよくはぜる薪。火の粉が僕らの背丈より高く立ち昇り、夜空を覆う星々の中へと溶け込んでいった。

解体を始めて1時間が経っても、ヘラジカの体内からは湯気が立ち続けた。その凄まじい生命エネルギーを取り込むことが、肉を食べるという行為だ。

終わらない宴。「腹が減った」と前年のヘラジカの肉を焼き、皆で食べまくる。結局この日も風呂には入れなかった…。
"Because I have to bring meat to my people"
「俺には一族に肉を届ける必要がある」
苦労して得た肉を気前よく分け与えてこそ、狩猟採集民族として一人前。
※イラスト/ブッシュ早坂(編集部)
(BE-PAL 2026年8月号より)




