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【ホーボージュンのサスライギアエッセイ・旅する道具学】第20回「歩いている限り」
シューズ「ALTRA / LONE PEAK 9+」
あの日、僕は谷川岳の稜線でひとり動けなくなっていた。
足底が鈍く痛み、ひざがギシギシ軋んでいる。息が上がり、胸が苦しかった。天狗の留まり場から山頂へと続く登り。いつもなら鼻歌交じりで越えていく場所なのに、その日はまるで立ちはだかる壁のように見えた。
「あれ……」
思わずそんな声が出た。
この歳になると肉体的なごまかしがどんどん利かなくなる。街では見えない衰えが、山中ではくっきりと姿を現わすのだ。
「このままじゃ、やばいぞ……」
このとき、僕の中で何かがスイッチした。もう一度鍛え直そう。もっと歩こう。人間の体は正しく使えばまだまだ応えてくれるはずだ。だから山を、街を、とにかく歩こう。そして日々歩くことそのものをトレーニングにしてしまおう。動かない足を睨みつけながら、僕はそんなことを考えていた。
*
そんなときに出会ったのが、アルトラのゼロドロップ・シューズだった。「ゼロドロップ」というのはつま先とかかとの高低差がなく、地面に対して足底が常に水平に接する靴のことだ。
このアルトラというブランドには、ユニークな誕生譚がある。
2000年代のはじめ、アメリカ・ユタ州に「ランナーズコーナー」という小さなランニングショップがあった。そこの息子がゴールデン・ハーパーだ。10歳で初マラソンを走り、12歳で2時間45分34秒というとんでもない記録を叩き出した天才少年。成長した彼は大学で運動生理学を学びながら、父の店を手伝うようになった。
そこで彼はある違和感に気づく。裸足や薄底スパイクでは美しいフォームで走っていた常連ランナーたちが、市販のランニングシューズを履いた途端にフォームを崩してしまうのだ。
原因はシューズのかかとの高さではないのか……? そう考えたゴールデンは、シューズのミッドソールをトースターで温めて剝がし、かかとを削ってフラットに改造してみた。そしてそれをお客さんに履いてもらうと、反応は上々だった。ひざの痛みが消えた。フォームが自然になった。走るのが楽しい。そんな声が続々と集まった。
2009年、ゴールデンはアルトラを立ち上げる。ブランド名は「壊れたものを修繕する」という意味のラテン語「アルテラ」から取られた。
*
ちょうどそのころ、ランニング界では一冊の本が爆発的なブームを巻き起こしていた。クリストファー・マクドゥーガルの『BORN TO RUN/走るために生まれた』だ。メキシコの奥地に暮らす先住民族が、薄い革サンダルで何百kmも走るというノンフィクションである。
この本は世界中のランナーを熱狂させ「ベアフット(裸足)」という言葉が世を席巻した。
ただ、その熱狂は長くは続かなかった。長年クッションに守られてきた足はいきなり裸足で走れるほど強くない。薄底シューズに飛びついたランナーたちが次々と故障し、メーカーの訴訟問題にまで発展した。
その揺り戻しで今度は厚底シューズが大流行した。ミニマムの反動でマキシマムへ。人間はほんとうに極端な生き物だ。
ただアルトラはそのどちらでもなかった。裸足の思想を持ちながらクッション性を備えていた。ブームとバッシングの嵐の中でも彼らはブレず、徐々に支持者を増やしていったのだ。
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アルトラの一番の特徴はゼロドロップ、つまり裸足で立ったときと同じ姿勢が取れることだ。そしてもうひとつが広いトウボックス。靴の中で五指がしっかり広がるので、指で地面を摑むように歩ける。このふたつが組み合わされると、人間本来の歩行感覚が目を覚ますのだ。
でもアルトラを初めて履いたとき、僕には違和感しかなかった。
「歩きにくいなあ……」
舗装路を少し歩いただけでふくらはぎが張った。翌日は見事に筋肉痛。しかも場所がいつもと違う。それでもしつこく履き続けた。すると徐々にではあるが、体に変化が現われてきた。
半年ほど経つとかかとから着地する癖が抜け、足底全体で地面を捉える感覚が出てきた。さらに1年が経つころには姿勢が変わり、ひざの負担が減った。
そして1年半が過ぎた今ではすっかり僕の足に馴染んでいる。今はこれを履くと足裏から地面の情報が上がってくるようになった。岩の硬さ、土の柔らかさ、砂の滑りやすさ。そういったものを感じ取り、それに体が反応するようになったのだ。
歩くことは、思っている以上に根源的な行為だ。地面を捉え、重力と自分の肉体に折り合いをつけながら一歩ずつ進んでいく。そのシンプルな繰り返しの中に、何か大事なものが宿っていると僕は思うようになった。
おおげさにいうとそれは、生きることそのものなのだ。
*
先日、アルトラを履いてあの山の稜線に戻った。
1年半前に立ち止まってしまったあの場所を、今度は立ち止まらずに越えることができた。ペースは相変わらず遅い。でも僕の足取りは確かだった。
人間、歩いている限りは前に進んでいるのだ。アルトラはそれを僕に思い出させてくれた。
歩いている限りは前に進む。
だから歩き続けようと思う。




ホーボージュン
大海原から6000m峰まで世界中の大自然を旅する全天候型アウトドアライター。X(旧Twitter)アカウントは@hobojun。
※撮影/中村文隆
(BE-PAL 2026年5月号より)




