エベレストにガイドとして登頂10回。セブンサミッツ、セカンドセブンサミッツをはじめ世界中の山をガイドしてきた倉岡裕之さんが語る冒険的登山の魅力
探検家・関野吉晴さんが、時代に風穴を開けるような「現代の冒険者たち」に会いに行き、徹底的に話を訊き、現代における冒険の存在意義を問い直す──BE-PAL12月号掲載の連載第29回は、「最強の山岳ガイド」と呼ばれている倉岡裕之さんです。
「山岳ガイドと登山家は違う」と語る倉岡さんですが、ヒマラヤの高峰で新ルート、バリエーションルートのガイドも行なっています。なぜ冒険的登山に惹かれるのか、関野さんが迫ります。
関野吉晴/せきの・よしはる
1949年東京都生まれ。探検家、医師、武蔵野美術大学名誉教授(文化人類学)。一橋大学在学中に探検部を創設し、アマゾン川源流などでの長期滞在、「グレートジャーニー」、日本列島にやってきた人びとのルートを辿る「新グレートジャーニー」などの探検を行なう。
倉岡裕之/くらおか・ひろゆき
1961年東京都生まれ。登攀クラブ蒼氷でクライミングを始め、25歳から山岳ガイドの道へ進む。エベレストに10回のガイド登頂。2013年には三浦雄一郎エベレスト隊に登攀リーダーとして参加し、80歳の三浦氏の登頂をサポート。日本山岳ガイド協会山岳ガイドステージⅡ。
骨盤骨折が人生を変えた
関野 どうして山岳ガイドになったのですか?
倉岡 僕は中学生のときに独学で登山を始め、大学生になると社会人山岳会に入って技術を身に付けていきました。21歳で初めてヒマラヤの高峰に挑戦し、その後、エンジェルフォールやデナリ南壁のアメリカンダイレクトというルートを登りました。
そして25歳のときに、『植村直己物語』の撮影でエベレストに初めて行きました。しかし、帰国後に懸垂下降で失敗して墜落し、骨盤を折ってしまいました。その事故でロープが怖くなり、以後10年以上クライミングから離れたのですが、そのころに山岳旅行会社に声をかけてもらい、山岳ガイドとして働き始めたんです。
関野 もし骨盤骨折していなかったら、山岳ガイドにならなかったかもしれないですか?
倉岡 クライミングの夢を追って、登山家になっていたかもしれませんね。
関野 登山家と山岳ガイドの違いは?
倉岡 登山家とは、自分の登山が仕事になる人。プロ登山家の竹内洋岳さんやプロクライマーの平山ユージさんが代表ですね。それに対し、お客さんをガイドしてガイド料をもらって生計を立てるのが山岳ガイドです。僕の職業は山岳ガイド。登山家ではありません。
関野 どのような山をガイドしてきたのですか?
倉岡 世界中の山をガイドしてきました。たとえばギアナ高地。現在はベネズエラの治安が悪化しているため控えていますが、以前はツアーを組んでネブリナ、ロライマ、アウヤンテプイなどの山へよく出かけました。チマンタという山に初登頂したこともあります。
ガイド登山で一番好きな山はケニア山。アフリカ大陸でキリマンジャロの次に高い山です。通常は、トレッキングでレナナピークに登るのですが、じつはレナナピークはケニア山の最高点ではありません。最高点はバティアンというピークで、ロッククライミングをしないと頂上に立てません。このクライミングが気持ちいいんです。
関野 倉岡さんはエベレストやマナスル、チョー・オユーなど8000m峰のほか、アマダブラムなど難しい山のガイドもしています。
倉岡 冒険的要素のある山や技術的に困難な山はやはり魅力的で、個人的にも登りたいんです。
関野 冒険的な山とはどのような山なのでしょうか。
倉岡 未知なる部分がある山だと思います。クライミングでは初見・一撃で登ることをオンサイトと呼びますが、山でもクライミングでもオンサイトで登れば冒険的といえるのではないでしょうか。難しい山や新ルートを辿る山では、1回では登れないから何度も何度もトライすることになりますが、その場合でも最後の最後は“初めて“なので、冒険となります。
そんな山をガイドできれば、より楽しいですね。たとえば、エベレストの近くにカンテガという山があります。北壁は非常に険しくて難しいのですが、その裏側(東面)は雪がたっぷりついていて登れそうでした。それで、2019年に東面新ルートから挑戦し、お客さんと一緒にアルパインスタイルで登頂しました。
この続きは、発売中のBE-PAL12月号に掲載!ぜひそちらもチェック。
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以下の動画で、誌面に掲載しきれなかったこぼれ話をお楽しみください。