日本人はなぜ、古き良きものを捨てて、コンクリートと蛍光灯を選んだのだろう?
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    2021.04.03

    日本人はなぜ、古き良きものを捨てて、コンクリートと蛍光灯を選んだのだろう?

    b*p

    →★前編「世界遺産のハイライト、長崎・野崎島でひらめいた「人生のピンチ」突破術」はこちら

    目が覚めると、周りの乗客たちはいそいそと身支度をしていました。窓からは、午後のやわらかな光がさしこんでいます。エンジン音がハミングみたいゆるやかになっていき、ふっと唐突に消えました。

    ちゃぷん、ちゃぷん、という波音のなかで、嘘みたいに青い空に雲がほわりと浮かんでいるのをながめていたら、その光景のどまんなかを一本のロープがするすると伸びていって、そのロープの先っちょの輪っかを岸壁のヘルメット姿の若者がどでかい鋼鉄フックにかけると、エンジンがふたたびうなり声を上げて船は岸壁に横付けになりました。

    小値賀島に上陸です。

     

    築100年の古民家に泊まる

    この島には、築100年を超える古民家を改装した宿が6軒あります。食事の提供はないのですが、リノベーションが施された、きれいなキッチンで自炊ができる一棟貸しの古民家宿です。

    今回、ぼくらが宿泊したのは、そんな古民家のひとつ、6人まで泊まれる大型の古民家『鮑集』(ほうしゅう)。この古民家に泊まりたくて、小値賀島にやってきたといっても過言ではありません。

    港のカウンターで手続きをして、「小値賀アイランドツーリズム」のポロシャツを着たお姉さんに、案内してもらいました。

    めざす古民家は、フェリーターミナルから湾をぐるりと回った対岸にあり、徒歩わずか1分。

    ガラガラガラ。なつかしい引き戸を開けると……。

    畳のかぐわしい匂いにつつまれました。

    おおー、なかなかすてきな花器ですね。

    玄関正面には6畳間があり、古いたんすの上に葉っぱだけの生け花が飾ってありました。写真右手の障子の、いかにも「手貼り」という感じも、懐かしいぞ!

    玄関の左手には、6畳と8畳のふた間つづきの座敷が。

    右手にいくと、広間の先がこんなふうな板の間になっていて、

    その先に土間があり、ぴかぴかの現代的なリビング・キッチンが現れました。

    掘りごたつ風のリビングテーブルには、テレビも備え付け。家族や仲間とわいわいしたい空間。

    「寝室は奥の和室で、お風呂とトイレはその先になります。チェックアウトのときに、この鍵を港のカウンターにご返却ください」

    と簡単な説明ののち、案内役のお姉さんは去っていきました。

     

    北側の和室が寝室。宿泊は最大6人までとなっているが、10人以上でも泊まれる広さのように感じた。こちらにも広い中庭があって、朝目覚めたときから、めちゃくちゃ気持ちいい!

    「ふぁあああー!」まずは、畳の上に大の字になって寝っ転がります。

    やっぱ、最高だなぁ、畳って。日本人で本当によかったなぁ。などと、しばし懐かしい幸福感にひたりました。

    大きな座敷には縁側があり、ガラスごしに、日差しを浴びた濃い緑陰が。

    九州の最西の草木は、とても深い緑をしていて、草いきれも濃厚です(よいにおい)。

    室内はほどよい暗さで、まぶしい庭の緑と好対照をなしていました。

    谷崎潤一郎の『陰影礼賛』は、日本家屋に差し込むこのような光と影のことをを礼賛していたのではなかったか。部屋の暗さと庭の景色が渾然一体となって、じつに心地いい空間がここにあります。

     

    古民家再生の第一人者、アレックス・カーとは誰ぞ?

    この古民家は、江戸~明治期にアワビ漁で栄えた港に面する商家だったようです。

    リノベーションを手がけたのは、東洋文化研究家のアレックス・カーさん。古美術商のかたわら、「古民家再生の第一人者」としても名高いアレックスさんは、これまでに、徳島県の祖谷や、奈良県の十津川村、香川県の宇多津、京都などで、古民家リノベーションをプロデュースしてきました。

    小値賀島の古民家宿でとりわけすばらしいのは、キッチンや風呂トイレなどの水回りです。古民家の古き良き魅力はとことん活かしつつ、現代的にするべき水回り部分は、徹底的に清潔で快適に改装しているのです。

    アイランド式のキッチン。電磁調理器完備。

    炊飯器やヤカンも常備。

    食器もいろいろ。

    ザルやボウル、おたまなどの料理道具も完備しています。

    湯のみや茶碗など、お茶の道具は、骨董品級の戸棚に入っていました。

    キッチンの一角に、すてきなスペースが。酒壺のようだけど、お酒は入っておりませんでした(笑)。

     

    ふだんの生活を忘れさせてくれる、高いクオリティーの「生活感」

    このへんの「和洋折衷いいとこどり」の塩梅は、アメリカ人で、かつ日本在住歴も長い、アレックスさんのセンスの賜物なのでしょう。

    結局のところ、ぼくらは、生まれた時から近代西洋文化にどっぷりつかって育っているわけで、本物の古民家だと暗くて怖くて、夜ねむれないかもしれないのです。

    サムライジャパン国の一男子としては、いささか情けないのだけれど、トイレは洋式でウォシュレット付きだと、やっぱり安心するわけで(軟弱ッすね)。

    ほどほどの懐かしさと、できるだけ今風の心地よさを「いいとこ取り」した、絶妙な折衷具合が、なんだかやっぱり心地いいわけです。

    この古民家を監修したアレックスさんは、著書の中で次のように述べています。

    《古民家の再生で肝心なことは、古い建物の美しさを保ちながら、生活インフラを全部整えて、現代の居住性を確保することでした。古民家に興味はありながら、そこに暮らしたいと思う人が少ないのは、冬に寒く、夏に暑く、汚れがたまっていて、不便だからです。再生にあたっては、そういう負の条件をなくすように務めました》
    (アレックス・カー著『ニッポン景観論』)

    そのように考えたアレックス・カーさんと小値賀島の人々は、寄付を受けた古民家の構造を生かしながら、壁や床に断熱材を入れ、キッチンやトイレなどの水回りの配管をすべて新たに敷設しました。

    「現代の居住性を確保する」といっても、ただ単に最新の水回り装備に入れ替えるということではありません。

    アレックスさんたちは、もう一歩上をめざしました。

    《古民家にユニットバスが入った、というくらいでは、「小値賀に行こう」と人は思ってくれません。宿泊施設には普段の生活を忘れさせてくれるような、高いクオリティーの居住性が必要なのです。》(前掲書)

    そんなわけで、風呂場には、安くて便利なユニットバスではなく、ガラス張りの明るい空間に檜風呂をしつらえ、まるで一流リゾートのスパのような、清潔感と解放感があふれる高いクオリティーの空間となっています。

    ひのきの風呂。ピカピカのシャワーに、なつかしの木桶!

    風呂場にもシャワーが付いていますが、そのほかにシャワー室がもうひとつあります。大人数の宿泊のときには便利かも。

     

    洗濯機も付いています。お金があったら、1週間くらい連泊して、暮らしてみたいのだけど。

    小値賀島のウェブサイトやパンフレットには、「暮らすように旅する」というキャッチコピーが付いています。

    「暮らすように」とはいっても、この島で感じられる「生活感」は、ぼくらがいつも都会で感じている「生活感」とはかなり違うものです。

    空気には透明感があって、自然がとても近くて、朝や夕べにはその静けさがしみいってくる。

    そんななかで暮らすように一泊して、ぴかぴかの檜風呂や、清潔な水洗トイレ、使いやすいアイランド式のキッチンなどに出会うと、「ああ、本当に都会を離れて、この島にやってきて良かったなー」という気分になります。

    「いつかこんな暮らしをしてみたいな」というような感覚です。

    ゴージャスなリゾートホテルとは対極の、静かでこぢんまりした、とても素敵な「生活感」がここにはあると思いました。

     

    古民家は「風と光を感じるオープンエア・パビリオン」なのだ

    1994年に新潮学芸賞を受賞したエッセイ集『美しき日本の残像』のなかで、アレックスさんは、太い柱を立てて大空間を確保する日本および東アジアの伝統的民家は、「風と明かりを通すオープンエア・パビリオン」だと表現しています。

    《昔の家は驚くほど広々と作られていますが、住む人が障子と襖で部屋と廊下に小さく区切って狭苦しい空間に変えてしまいます。昔は冬の寒さを防ぐため、また大家族のプライバシーを守るためには必要だったでしょうが、現代の私たちにとってはそうした区切りは必要ないと思います。障子と襖を取っ払って、初めて日本の座敷や居間の美しさが現れてきます》
    (アレックス・カー著『美しき日本の残像』)

    昔の農家のつくりって、驚くほど広くて開放的でした。座敷を仕切る襖をあけると、とてつもない大広間があらわれて、結婚式や法事のときにはそこが宴会場になったりもして。

    いまは、阪神・東日本大震災後に厳しくなった耐震基準を満たすために「壁」の面積を多くしなくてはならなくなりました。

    昔のように太くて大きな柱材で家を建てるにはお金もかかってしまいますし、日本の伝統的な建築技術で家を建てるのは、なかなか難しい時代です。

    でも、だからこそいま、100年以上昔に建てられた古民家を再生することには、お金には換算できない価値があるとも思うのです。

    ぼくらのひいじいさんや、ひいばあさんたちが日常的に感じていた、広々感や風とおしの良さ、自然との距離の近さ、陰影と光、そういったものを体感できる空間、たとえば小値賀の古民家のような建築物が、いまはまだぎりぎり残っている。

    しかし、ほうっておくと近い将来、そういった感覚は永遠に失われてしまうかもしれないのですから。

    小値賀島の古民家ステイの料金は、いちばん小さな古民家でも、一棟あたり2万1000円からです。

    今回は2〜3人用の小さな古民家が空いていなかったため、ぼくらが泊まったのは、いちばん大型の古民家『鮑集』。ここは一棟3万6000円(2人宿泊)〜4万8000円(4人宿泊)です。

    けっして安くはありません。だけど、これほどの貴重な建築遺産に泊まり、自炊ではあるけれどここで自由に食事やお酒を楽しめると考えれば、十分納得の価格設定だと思います。

    とにかく、こんなすばらしい重要文化財級の建物を一棟まるごと借りることができて、チェックインしたらあとはほったらかし。じつに心地いい!

    ちなみに、今この文章を書きながら、上記、小値賀島古民家ステイのウェブサイトを見ていて気がついたのだけど、博多からフェリー「太古」で島を訪れる際には、+9000円でアーリー・チェックインができるんだとか。うおーい、そうだったんかーい!(※このへんの詳細顛末は、前編「祝・世界遺産!潜伏キリシタンの夢の跡「野崎島」の旅」をご参照ください)

     

    100年以上、島の生活文化を支えてきた活版印刷所

    小値賀島には、100年以上の歴史を持つ活版印刷所「晋弘舎印刷」がありました。

    さきほど乗った野崎島行きの町営船「はまゆう」の切符も、この印刷所で印刷したものです。

    電話をかけてみたら、「見学? いいですよ」とのことだったので、翌朝たずねてみることにしました。

    港からほど近い路地に、うっかり通りすぎてしまいそうなほど小さな看板が出ていました。

    「ごめんくださーい」と声をかけて、ガラガラと引き戸を開けます。

    中にお邪魔すると、細長い部屋の片側に鋳鉄製の活字がずらりと並んでいました。

     

    ずらりと並ぶ活字。これを見ると、「文字」とはそもそも美しいものであったということが、ものすごくよく伝わってくる。

    なんという美しさなのだろう!

    「晋弘舎印刷」4代目の横山桃子さんに、活版印刷の基本を解説していただきました。

    活字の魅力は、まずはその文字(書体)の美しさにあります。

    文字ひとつひとつが鋳鉄の活字ブロックになっていて、そいつを並べて凸版をつくり、そこにインクを付け、紙に押しつけることで、文字列が印刷されます。

    鋳鉄製の活字を押しつけられた紙は、少しだけへこむ。紙に残った凹(ボコ)の風合いは、活版印刷ならではの味わい。

    この魅力にはまると、活版印刷をやめられなくなります。

    そして活版印刷の場合、「文字組み」とよばれる文字の並び方も、独特の定型感があって美しいのです。

    活字というブロックを並べる特性上、文字と文字の間隔は一定に決まっていて、今主流のオフセット印刷やプリンター出力とは違って、文字間隔を自由に詰めることはできません。

    文字間を広げる際には、空白の活字や、楔(くさび)を使います。その際、昔から印刷職人の間で伝授されてきた、職人技があるようです。

    この「不自由さ」が、美しい文字列を生み出します。きっちりと文字組みされた活版印刷の文字列は、目にとても心地いい。

    読んでいても、文字の意味がすっと入ってきます。

    桃子さんのお父様(「晋弘舎印刷」3代目)によると、先代が文化事業だからということでいちばん大切な印刷業だけを残して、ほかの事業は暖簾分けしたとのこと。文化をとても大切に考えるこの島の気概を感じさせられる逸話である。

    ↑せっかくなので、名刺を注文してみました。

    「b*p」のロゴの部分はオプションで、樹脂で活版をつくってもらいました(オプション料込みで300枚で2万5000円くらいでした)。

    活字はそもそも、12世紀ごろ、宋の時代の中国で発明されたようです。

    日本語で活版印刷が始まったのは、16世紀のこと。

    イエズス会士がグーテンベルグ型の印刷機を持ち込んで、キリスト教関連の書物を日本語で印刷したのが最初だったといわれています。

    だとすれば、中国や西洋の最先端の技術がいちはやく到来し、いまも潜伏キリシタンの聖地が多く残る五島列島は、もしかすると「日本最初期に活版印刷が始まった地」だったかもしれません。

    そうした伝統を受け継ぐ活版印刷所が、いまも残っていることの奇跡! これは本当にすごいことだと思います。

    ↑活版印刷の様子(動画)。マシンという感じがして、むちゃくちゃかっこいいです!

    ■「晋弘舎」(OJIKAPPAN)公式サイト
    http://ojikappan.com/

    こんなに自転車が気持ちいい島だとは!

    島をめぐるには、レンタサイクルが便利です(島内にバスは走っているが、タクシーはありません)。

    港の観光案内所で、ママチャリタイプ(6時間500円)と、電動アシスト付き自転車(6時間1000円)を借りることができます。

    ぼくらが自転車でのんびりと向かったのは、築160年の古民家を改装したレストラン「藤松」

    捕鯨と酒造りをしていた豪商・旧藤松家の屋敷をリノベーションしたレストランです。

    来てみて驚いたのは、とにかくどデカいこと! 

    どんだけ金持ちだったんだよー、藤松親方ってお方は。

    余計な看板、案内板がなくて、すっきりとした外観。

    ここもアレックス・カーさん監修です。

    日本の古い家に差し込む光の美しさ。なんともいえない、すてきなひだまり感!


    天井も、ものごく高い!

    アルミサッシではなく、木枠のガラス窓が残されています。

    光があふれるダイニングルーム。

    昔はこの庭に池があって、魚が泳いでいたようです。

    周囲の海でとれた季節の魚介と、赤土の大地で育まれた新鮮野菜を使った「じげもん」(地元産)食材の家庭料理をいただきました。

    お刺身と料理5〜6品のコースで3500円。

    全部おいしかったけれど、なかでも、地物の魚がとてもおいしかった!

     

    古民家レストランから海方向へ、このような立派な並木道が残されています。かつては海側が表玄関でした。

    門と船着場。

    海側の敷地内には専用の船着場があり、海の向こうに野崎島を望むことができます。

    鯨漁全盛の江戸〜明治大正時代には、海から船で出入りすることが多かったようで、海側に、立派な門と母屋に向かう石畳の道が残っていました。

     

    ごちそうさまでした。とてもとてもおいしかったです!

    名著『シマダス』で発見した小値賀島の「スペシャルな長所」

    それにしても、自転車に乗って、風に吹かれながら移動するのは、なんてすばらしいのでしょう。

    小値賀島は交通量がとても少ないので、レンタサイクルでの島散歩は、たいへんに気持ちがよいのです。

    旅好きのバイブルとしてすでに古典になりつつある名著『シマダス』を開くと、小値賀島について、こんな記述がありました。

    《交通量が極端に少なく、クロスカントリーやロードのスペシャルメニューが組めるので、大学や実業団チームの合宿に最適》

    なるほど、たしかに。

    でも、ふうふういいながら坂道を登ったり、風を切ってワインディングロードを下ったりしながら、レンタル自転車で島を走るのも十分に「スペシャルなメニュー」なんじゃないかと思いました。

     

    島の一周道路はだいたい平坦だが、海岸に出るための細い道をいくと、ときどき激坂がある。

    島のどこにいても波の音が聞こえるくらいに海が近くて、大いなる自然の中にポツンとこの島が浮かんでいることを体感できます。この感じは、山の中をリュックを背負って歩いているときのような気分に近いかもしれません。

    小値賀島の北側には、美しい海岸や牧場が残っていました。

    牛たちと一緒に、ただ風に吹かれてのんびりすること、しばし。

    この海の向うは、中国大陸。かつてはこの海を、遣唐使船や中国船、オランダ船、仏教僧やキリスト教の宣教師、数しれぬ貿易商人、漁師、軍人、海賊たちが行き来していたのです。

    まさに、冒険者たちの夢の跡。歓喜も、悲惨も、熱狂も、祈りも、すべては波の音のなかに記憶されているのでしょうか。

    太古の風に吹かれながら草を食む牛たち。

    日本の街路樹百選に認定されている「姫の松原」。

    大昔、小値賀島は2つの島だったそうです。

    1334年に、島と島の間を干拓して、ひとつの島になりました。

    上の写真の「姫の松原」のあたりは、昔、海だったところです。

    自転車に乗っていると、おもわずかっとばしたくなる爽快なまっすぐ道でした。

    小値賀島は日本第2位の国際ターミナル港だった

    周囲57km、面積12平方km。人口は約2500人。

    小値賀島は、五島列島の北からだいたい2番めに位置する大きな島で、江戸時代は平戸藩に属していました。

    そのため、南の五島藩に所属していた中通島や福江島とは島の文化、雰囲気がまったく異なります。

    行政名も、「上五島町」「五島市」といった名前ではなく、「小値賀町」という名で、ほかの島からは独立した自治体です。

    ちなみに、大昔、五島列島は「値訶島」(ちかのしま)とよばれていたそうで、北の上五島側が「小近」(おぢか)、南の下五島側が「大近」とされていました。

    その「小近」の名を今なおひきつぐ島が、小値賀島なのです。

    約2万5000年前から人が住みはじめ、以来、遣唐使船の寄港地になるなど、中国大陸や東南アジア、日本各地からも多くの交易船が訪れました。

    昔の船は、現在のように金属製の碇を積んでおらず、立ち寄る港で停泊するたびに、港に備え付けのおもり「碇石」(いかりいし)に、綱と木を結びつけて沈め、船を固定していました。その碇石が、小値賀島の前方湾で多数発見されています。

    発見された碇石の数は、博多湾に次ぐ多さだそうです。つまり小値賀島は、「日本第2位の国際ターミナル港」だったのです。

    碇石は、「小値賀町歴史民俗資料館」で見ることができます。

    この資料館は、江戸時代に捕鯨船団(くじら組)で活躍した壱岐出身の豪商・小田家の築250年の古民家を改装したもので、建物や中庭を見るだけでも、往時のくじら組の景気の良さが伝わってくきます。

    歴史民俗資料館の中庭。こちらも「藤松」に劣らない立派な古民家。クジラがいかに巨大産業だったかがしのばれる。捕鯨がさかんな時代には、島に人が多く集まり、経済的にもきわめて豊かだった。歌舞伎の興行まであったという。

    小値賀島では、ほかにも、弥生時代前期のものと推定される石包丁の破片や、古墳時代中期(5世紀初頭)の高坏(たかつき)の一部とみられる土師器の破片が出土しています。

    古くから人が暮らし、さまざまな土地からやってきた人が交流する場所だったのです。

    とはいえ、この島の魅力は歴史遺跡だけではありません。

    先にも触れた島旅のバイブル本『シマダス』(2004年版)には、「◇トピックス」「◇島からひとこと」というはみ出しネタコーナーがあるのですが、そこには、次のような、ゆるーいネタも紹介されています。

    《平成13年11月、地域おこし団体「YAMOEN隊」主催で、小値賀島で初めてとなるプロレスを開催。》

    おー、プロレス! たのしそうじゃないですか。ぜひまた開催してほしいです。

    《平成9年、「嫁さんほしい」燃える男の軍団「独身者の会」発足。島の暮らしに興味のある女性陣を探しています。ぜひご一報を!》

    平成が幕を閉じる時代になりましたが、独身者の会、まだ活動しておられるのでしょうか?

    《心に負った傷だってやさしく癒やしてくれるカットバンみたいな男ばかり。海と空と風だけでつくられているような爽やかな島、小値賀の旅をどうぞ。》

    カットバンみたいな男ばかり? なんだか、ほのぼのしますよね。「キズパワーパッドみたいな男ばかり」だったら、なんとなく激しそうですが。

    「海と空と風だけでつくられているような爽やかな島」というのは、まさにそのとおりかもしれません。コンビニも、フランチャイズ系のお店もない、小値賀島ののんびりとして爽やかなる空気は、世界遺産以上に価値のあるすばらしい遺産だと思いました。

    日本人はなぜ、コンクリートと蛍光灯の生活を選んだのか

    小値賀島の港で中通島に渡る船を待ちながら、考えました。

    この島を旅しながら不思議に思ったのは、こんなにすばらしい古民家や田園風景を、日本人はなぜ捨ててしまったのか、ということです。

    自分の幼少期の記憶をたどってみても確かだと感じられるのですが、小値賀島に残っているような古民家や風景は、おそらく少し前まで、日本各地に残っていたはずです。

    すばらしい古民家や風景は、なぜこの国から消えつつあるのでしょうか?

    アレックスさんは、学生時代に徳島の祖谷に38万円で古民家を購入し、その古民家を掃除しているときに、かつてその家に住んでいた少女の日記を発見します。

    《なかでも興味深かったのは、一九五〇年頃書かれた少女の日記でした。その中には祖谷の生活の貧しさ、家の中の暗さ、そして大都会に対する絶望的なまでの憧れが、涙と共に素直に書かれていました。その日記を思い出すたびに、日本人はなぜ自然破壊に手をそめてしまったのか、なぜコンクリートと蛍光灯という生活環境の中に住みたがったのかが少し理解できるような気がします》(アレックス・カー著『美しき日本の残像』)

    その少女の日記は18歳で途切れていました。少女は家出をし、この家に二度と帰らなかったようなのです。

    終戦直後ということもあるでしょうが、昔の日本の生活には、貧しさと暗さがつきものだったと思われます。高度成長期以後に生まれ、バブル期以後に大人になったぼくらは、そんな過去を知らないし、できればそんな貧しさや暗さは「なかったこと」にしておきたい。

    だけど、事実としては、家出をしてまで逃げ出したい貧しさ、暗さがあたりまえのようにあった。だからこそ、そこから脱出するために、たぶん、みんな必死に働いたのだと思います。そして、奇跡的な高度成長をなしとげ、日本は世界でも経済的に豊かな国になりました(と、昭和の社会科の教科書にはそんな感じのことが書かれていましたが、これってもはや古い説明なんでしょうか?)。

    その恩恵を当然のように享受しているぼくらが、「昔の生活はよかった」と嘆くのはおかしいかもしれません。

    かつて田舎から都会に出てきたぼくらの父や母、祖父や祖父母たちの多くが、いまも田舎に戻らないままでいるのは、きっとさまざまな理由があるのでしょう。その理由のひとつに、「あの貧しくて暗い生活にだけは戻りたくない」という気持ちがあるような気がします。そんなに昔の話ではありません。高度成長以前の日本、わずか40〜50年前の日本の話です。つい、こないだのことです。

    ただ、貧しさ、暗さから脱出することを一直線に追い求めたばかりに、その対極に走り過ぎたのでは、という気もします。「コンクリート」「蛍光灯」「GDP」といったわかりやすいものだけを「豊かさ」と考えて、その目標に向けて突っ走ってきた戦後70年間。豊かさと引き換えに、ぼくらが失ったものはなんだろうか。

    昔の日本には、貧しさと暗さはあったけれども、同時に「良きもの」もたくさんありました。たとえば、風が通る民家の大空間。電柱のない風景。杉だけでなくいろんな木々が育つ山。さまざまな魚たちが暮らす川。

    逃げ出したいほどの貧しさ、暗さにもどることは、正直嫌だなぁと思います。だけど、高度成長、バブル期のどさくさにまぎれて、いっしょくたに捨ててしまったものの中に、「古き良きもの」があったことは確かでしょう。

    たぶん、誰もがうすうす感覚的に気づいているはずです。だからこそ、小値賀のような小さな島を訪れる人が少なくないのだと思います。

    日本人にとって、ほんとうの意味でいい家、いい生活とは、どのようなものなんだろうか。そんなことを考えてしまいました。

    ムダな公共事業をやめて素敵な古民家をふやしてほしい

    アレックスさんの本を読んで、もうひとつ驚かされたことがありました。

    こうした古民家の再生プロジェクトは、国土交通省や農林水産省から地方自治体に公布される「補助金」による事業だということ。つまりは国の資金を使った「公共事業」なのです。

    高度成長期以降に激増した日本の公共事業は、ムダな道路工事、ダム建設、川の護岸工事を増やし、古き良き風景をだいなしにしてしまいました。

    日本全国、京都であれ奈良であれ、いたるところに電柱と電線、鉄塔がひしめき、町中はもちろんのこと、山や海や寺社仏閣にまで案内看板が過剰に増えて、標高2000mくらいの高い山にでも登らない限り、なかなかよい風景に出会えないというのが、いまどきのニッポン。

    そんな惨状をノスタルジックに嘆くアレックスさんの著書を読むにつけ、うーむ、うぅーむ……と考えさせられました。

    たしかに、パリやローマは伝統的な建築物が残っているし電柱もなくて、とてつもなく美しい。一方で、アフリカやアジアや中南米の小さな村も、とことん田舎なんだけど、なんだか良い風景だと感じるのは、いったいなぜなんだろうか。海外に出かけて成田や羽田、関空から帰るときに、車窓から見える日本の風景を見て、なんとなく悲しい気持ちになるのは、なぜなんだろうか。

    坂口安吾の「日本文化私観」

    すばらしい古民家や風景を、日本人はなぜ捨ててしまったのか? その疑問を解くための「補助線」になりそうな名エッセイがあります。

    太宰治、檀一雄とともに「無頼派」とよばれる作家、坂口安吾の「日本文化私観」というエッセイです。

    彼はそのなかで、日本の伝統や文化について、次のように書いています。

    「京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微塵もしない」

    「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである」

    「必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ」

    (以上、青空文庫・坂口安吾「日本文化私観」より引用・以下も同様)

    坂口安吾がこの「日本文化私観」を雑誌に発表したのは1942年2月。真珠湾攻撃の2か月後。太平洋戦争がはじまった直後のことです。

    戦後に『堕落論』で一世を風靡した安吾だけに、舌鋒鋭く、パンク魂を感じる名言がつぎつぎに登場し、胸にぐさぐさとつき刺さります。

    「戦争」はまだ終わっていないのかもしれない

    「日本文化私観」の冒頭で、安吾は、1932年に来日し、桂離宮のすばらしさを広く世界に伝えたドイツの建築家ブルーノ・タウトにふれています。

    タウトは「日本の伝統美」を発見したけれど、そのような日本の伝統美よりも、常磐線の窓から見える小菅刑務所や、聖路加病院の近くにあるドライアイス工場や、港町の軍艦のほうがより美しい、と安吾は語ります。

    (ふと思ったんですが、坂口安吾は「安吾」と名前で略されがちなのに、太宰治は「太宰」と苗字で略されるのでしょうか? なぜ「太宰と安吾」なのか。なぜ「修と坂口」ではないんでしょうか?)

    そして、刑務所と工場と軍艦がなぜ美しいかについて、安吾は次のように説明します。

    《この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。》
    (坂口安吾「日本文化私観」)

    いまの言葉でいうならば、「機能美」「工場萌え」に近い感覚かもしれません。あるいは、ドブネズミ的醜さの中に美を見いだすパンク精神といえるかもしれません。

    上記の引用文章で、安吾が次のように書いているところに注目してください。

    「必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる」

    これはまるで、いま現在のことを語っているようではないですか。

    いまの時代の電柱だらけの町並みや、杉だらけの山の風景、看板だらけの観光地にも通じる描写です。

    「必要」をたてに、古い建物や自然を壊して、コンクリートや新建材の建造物を無計画に建てていく日本。海も川も山の斜面もコンクリートで固めていく日本。

    時代も世代も変わったはずなのですが、いまだに戦時中なのでしょうか? 

    ぼくたち日本人の心の中で、「戦争」はまだ終わっていないのでしょうか?

    いまの時代に「必要」なものって何だ?

    坂口安吾を読んで、思いました。

    「生活の必要」は、時代によって変化するのではないでしょうか。

    戦時中の「必要」と、いまの「必要」。このふたつはイコールではないと思うのです。

    1940年代には、銀座の近くにドライアイス工場が必要で、激動の時代だったから、刑務所も軍艦もたくさん必要だったでしょう。

    一方で、日本全国たいていの場所で最低限のインフラ、電気・ガス・水道が整っているいまの時代、新たな電柱を立てたり、交通量の少ない山の中に莫大な予算を投じて道路を建設するのは、必ずしも必要なことではないと思われます。

    そうしたことよりも、電柱のない風景や、高い建物に遮られずに山の稜線に朝日を望めることや、きれいな空気や水、季節ごとの鳥や生き物たちの営みを目にできる幸せのほうが、ストレスだらけのいまの時代、むしろ「必要」なのではないでしょうか。

    坂口安吾の故郷、信濃川の木橋

    坂口安吾は、故郷・新潟の信濃川にかかっていた古い木橋が壊された思い出を振り返り、こんなふうに書いています。

    《小学生の頃、万代橋という信濃川の河口にかかっている木橋がとりこわされて、川幅を半分に埋めたて鉄橋にするというので、長い期間、悲しい思いをしたことがあった。日本一の木橋がなくなり、川幅が狭くなって、自分の誇りがなくなることが、身を切られる切なさであったのだ。その不思議な悲しみ方が今では夢のような思い出だ。このような悲しみ方は、成人するにつれ、又、その物との交渉が成人につれて深まりながら、却って薄れる一方であった。そうして、今では、木橋が鉄橋に代り、川幅の狭められたことが、悲しくないばかりか、極めて当然だと考える。然し、このような変化は、僕のみではないだろう。多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新らしい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。》
    (坂口安吾「日本文化私観」)

    「悲しくないばかりか、極めて当然」
    「伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである」

    と書かれていますが、だがしかし、と思うのです。

    少年の頃に感じた「日本一の木橋がなくなり、川幅が狭くなって、自分の誇りがなくなることが、身を切られる切なさであったのだ」という感覚こそ、じつは安吾の本音だっとのではないかなぁ、と思うのです。

    「身を切られる切なさ」を、耐えてがまんしてまで必要な「便利な生活」って何でしょうか? 

    戦時中だったらともかく、いまの時代、川を埋め立てるよりも、少年たちの直感的な気持ちをもっと大切にしたほうが、「よい生活」につながるのでは、という気がします。

    常識を疑い、かくも熱いパンク・スピリットをもつ坂口安吾が、もしいまの時代に生きていたら、欧米風の建物よりも、むしろ故郷の古い木橋に喜びを感じるのではないでしょうか?

    もし、いま安吾が生きていたら、工場や軍艦やタワーマンションのエレベーターよりも、コンビニのない島や、フェリーボートで行き来する生活や古民家に、いまの時代の「必要」を見いだしたのではないでしょうか?

    日本人が手のひらに持っている宝。何もない日本の田舎の風景の魅力。そういうことにもっと目を向けるべきだと思うよ、というのが、アレックス・カーさんの主張です。

    「アメリカ人だから、そういうことを言えるんだよなぁ」なんて思いが、一瞬頭をよぎりそうになりますが、よくよく考えてみると、風景が美しくないことで、気持ちよくない思いをしているのは、ぼくらなんですよね。

    日本各地に残る古き良き風景は、このままただぼーっとしていると、「必要」という名の下にどんどん道路や護岸に埋め尽くされてしまうかもしれません。それはやっぱりまずいなぁ、と思えてきます。

    いまの時代、ほんとうに「必要」なものは何か? 

    そんなことを考えさせられた、小値賀島の旅でした。

    旧石器時代から、仏教をはじめとする最先端の文物が伝わり、「和漢折衷」「和洋折衷」「新旧折衷」を、何百年もやってきた文化の島・小値賀島。

    そんな島だからこそ、アレックス・カーさんがプロデュースした古民家の宿は、とても小値賀島っぽいと思います。

    みなさんもぜひ、お休みのときにに旅してみてください(1泊2日でも行けるけど、できれば2泊3日が楽しいと思います)。

    こんなに素敵な島、なかなかないと思うので!

    【こちらも読んでね!】

    →★前編「世界遺産のハイライト、長崎・野崎島でひらめいた「人生のピンチ」突破術。

    →★「中通島・潜伏キリシタン教会めぐり」編につづきます!(近日公開)

    ★もしよかったら、小値賀島を旅した感想などを、b*p編集部までお聞かせください。

    ★『b*p』トップページ

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