そのエッセイが2020年度桜蔭中学の入試問題に採用されている。
(この記事は角幡唯介著『エベレストには登らない』(小学館)の内容を抜粋したものです)
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まず登山云々の前にスポーツとは何かということについて考えてみたい。
私の考えではスポーツとはある一定数の人が活動していることと、舞台が整っていることの二つが成立条件になってくると思う。一定数の人がいることはいいとして、問題は後者のほうだ。
舞台が整っているというのは、一つには文字どおり競技の舞台が用意されていることを意味する。野球で言えばスタジアム、ボクシングならリングだ。屋外でおこなわれる競技も、マラソンやトライアスロンなどは決まったコースから外れると失格になるので本質的には施設内と同じだ。また舞台が整っているということは、主催者により競技者の安全が――たとえそれが名目的であっても――確保されていることも意味している。
ボクシングでは二人のファイターが野放図に死ぬまで殴りあうわけではない。事故で亡くなることはあっても、そうならないようにルールを設けて制限しているわけで、これもスポーツの舞台性を形成する重要な要件であろう。
そう考えるとトレイルランニングや山岳マラソン、アドベンチャーレースなどは、登山と同じように山や自然を競技の場とはしているものの、明確にスポーツだと定義できる。マラソンなどと同様コースが決まっているし、万が一の事故や急病に備えてスタッフや医療関係者が各所に配置されている。
もちろん自然が舞台なので亡くなったり怪我したりするリスクはあるだろうが、そうならないように主催者は全体に配慮の網をかぶせている。またゲレンデクライミングも、岩場の開拓者がルートを整備したりトポ(ルート図)を発行したりして安全の確保やルール作りに取り組んでいることなどを考えると、スポーツだと考えてよさそうだ。
さて登山はどうだろうか。登山の場合ももちろん舞台はあるが、それが整っているとは言いにくい。
登る山とルートが決まっていたとしても、当日の天候やルート状況によっては変更することが頻繁に起こるし、長い縦走や継続クライミングの場合などは、千変万化する自然状況に柔軟に対応してルートを変更したり、エスケープしたりすることのほうがむしろ多いぐらいだ。それどころか、途中で目標を変更してまったく別の山に登る、などということもないわけではない。これがスポーツだったら完全に失格だが、登山では予定どおりに登れなくても必ずしも失敗というわけではない。そしてその融通無碍なところが登山の魅力だったりもする。
それに登山にはゴミを捨てないだとか、岩には無駄にボルトを打たないなどといった倫理はあっても、スポーツにあるような堅苦しいルールや行動範囲を縛りつける規制は、今のところ存在しない。どの山をどのように登るかは個人の好みや技術、体力に応じて思い思いに決定することができる。主催者がいるわけでもなく、自分で安全を確保しながら登ることが原則だ。スポーツのように第三者が舞台を整えてそこで競技するものではなく、自分で舞台を拵えておこなう自己完結型の行為だと言える。
ではスポーツではないとすれば何なのか。私はその本質は旅だと考えている。
旅の本質とは何か考えてみると、それは今日の判断が明日の自分の成り行きを決定するような時間の流れのことだ。たとえば、とある国を旅していたときにAという町にたどりつくとする。本当は明日にでもB町に移動するつもりだったが、A町がすっかり気に入ってしまったので二週間ほど居つくことにした。すると町の食堂で少し怪しげだが気のいいXという人物と親しくなり、C町に日本への留学経験のある友人がいるから会いに行かないかと誘われた。しょうがないからとC町に行ってみると、その留学経験のある友人の娘がたいそう美人で……というのが典型的な旅である。
旅とは予定調和に終わらず、その場の状況や判断によって内容が次々と更新されていくことだ。よく言えば放浪、悪く言えば行き当たりばったりこそ、旅の本質である。旅をしたときに自由だと感じられるのは、外国に行くことで日本のいろいろなしがらみから解放されるからではなく、むしろこの判断と成り行きの連動作業を体験できるからだろう。明日以降の自分がどうなるのかわからないなかで判断し、その結果がおのずと自分の運命に跳ね返ってくるのだから、かなり純粋なかたちでの自由が達成されている。
私が登山が旅的だと感じるのはこの部分だ。登山は天候やルート状況を勘案しながら判断をくだして進めるゲームである。判断が正しければ登れるし、間違っていれば登れない。判断を間違うと登山者は最悪の場合、死という大きな代償を支払うことになる。結果として跳ね返ってくる運命の大きさを考えると、旅のもっとも旅的な部分を抽出したような行為だとすら言える。
登山では旅よりもさらに高度な判断と成り行きの連動作業が経験できる。だから、享受できる自由の感覚も途方もなく大きくなる。この自由の感覚こそスポーツでは決して味わえない旅ならではの感覚であり、自由であるからこそ、登山者は危険にもかかわらず性懲りもなく山に足を運ぶのだろう。
(中略)
GPSの問題について深く考えるようになったのは北極圏の旅をはじめてからである。
北極圏に行くまで私の探検の舞台はチベットやネパール、ニューギニアの山岳地帯が多かった。山では尾根や谷の地形的な起伏が顕著なので、地図とコンパスさえあれば自分の位置を正確に把握できる。GPSはあってもなくてもどうでもいい存在で、ちゃんと使ったこともなければ、さほど意識したこともなかった。
ところが北極圏の旅では、凍った海氷や平らな雪原に覆われたツンドラなど、地形的に目印の乏しい場所を進むことが多い。こうした場所では山とちがい、尾根や谷のかたちや向きから位置を類推することができず、地図とコンパスで位置を決定することがとても難しくなる。そのため航海と同じように緯度と経度を求めて「航法(ナビゲーション)」しなければならず、GPSが圧倒的な威力を発揮する。
二〇一一年にはじめて北極圏を旅するまで、私はこのGPSの威力をはっきりわかっていなかった。GPSが登場する前も探検家や航海士は六分儀で天測していたわけだから、GPSを使うといっても六分儀が多少便利になっただけで、機器で航法するという本質に変化はないという程度の認識だったのである。
ところが実際に旅でGPSを使いはじめると、これが六分儀と全然ちがう。最大のちがいは、GPSを使うと周囲の自然条件と無関係に現在地を出せるところだ。
六分儀による天測だと、天体の高度を観測して位置を計算するわけだから、太陽だろうと夜空の星だろうと、とにかく外に出て天体観測しなくてはならない。そしてこの観測作業は口で言うほど簡単ではない。
特に極地の寒さのなかではハードルが高く、氷点下四十度のなかで向かい風に耐えながら、細かなネジを調整して天体を水平線に一致させるだけでも、極度に集中力が必要となる。しかも観測するうちに、六分儀の望遠鏡に吐息で霜が張りついて星そのものが見えなくなってくるし、三十分も作業していたら手足は寒さでかじかみ、鼻ももげそうになる。
なんとか観測を終えても、今度はテントの中で天体の暦や対数表とにらめっこしながら、観測値を位置情報に変換するための複雑な計算作業に没頭しなければならない(ただし計算機があれば、この作業は省略できる)。苦労がともなうだけでなく、その観測値には少なくとも数キロの誤差がつきものだ。一番困るのは、GPSとちがい、その結果がどこまで正確に出せているかは観測者には絶対的にはわからないことだ。最後は自分の腕を信じるしかなく、その意味では天測は極めてアナログな技術なのである。
ところがGPSを使うと、そういう苦労がすべてなくなり、夕飯の支度をしながら片手でボタンを数回押すだけで位置情報を取得することができてしまう。しかも、その情報は天測とちがって誤差がほぼゼロの、かぎりなく正確なものだ。
GPSを使うと、本来、旅においてもっとも難しいはずの作業がもっとも簡単になるという逆転現象が発生する。それは〈前よりも便利になった〉という次元をはるかに超える、人間はなぜ冒険をするのかという本質を侵しかねないコペルニクス的な転回だ。
なぜ私たちが探検や冒険をするのかというと、それは行為のプロセスのなかにある〈自然との関わり方〉に秘密があるからだ。
北極が例だとわかりにくいだろうから、登山を例に考えてもいい。私たちが山に登るのは、単に山頂に行きたいからではない。山頂に至るまでの"山との関わりあい"の中に魅力があるからこそ、人間は山に登るのではないだろうか。
登山者は山という厳しい自然のなかで、少しおおげさにいうと、命を懸けた判断をくだしながら山頂を目指している。登山者がその行動や判断をつうじて常時、山になんらかの働きかけをおこなっている。働きかけをして山と関係性を構築することで、登山者は山から肯定され、今その瞬間、そこに自分が存在しているという感覚を強く持つことができる。
これは何も抽象的な話ではない。クライミングをする人なら、誰にでも岩壁や氷壁を登っている最中に墜落の恐怖でガタガタと足が震えた経験があるはずだ。この恐怖という負の感情をつうじて私たちが獲得できているのは、「氷壁のなかに自分が今ある」という明確な自己存在確認である。
周囲の世界との関係のなかで、身体的な五感をつうじて自己の存在を確立できること、つまり山からきわめて実体的な存在を与えられることに登山の最大の魅力はあり、逆に言うとそこにしかない。それは登山に限らず、極地探検や外洋航海でも同じことだ。過酷な寒さやどこまでもつづく大海原によって実体存在を与えられることに、探検や冒険の魅力はある。そしてこの自己存在確認の感覚は、こちらから自然に働きかけ、関与する領域が広がり、
そして深まるほど大きくなる。
ところがGPSを使うと、この自然への働きかけと関与領域が極端に狭くなってしまう。地図読みや天測にはあった外の世界を読みとるという働きかけがない状態で、いきなり百パーセントの正解が与えられるので、外との関係が薄くなり、自然から存在が与えられているという感覚も弱まってしまうのだ。
GPSを使いながら北極の荒野を歩いていたとき、私は常に妙なもどかしさを感じていた。連日、寒さや風には苦しめられたし、極限的な空腹にも苛さいなまれたが、それでも私は自分は北極という土地を爪で引っ搔いているだけなんじゃないかという奇妙な隔靴搔痒感を取り除くことができなかった。
肉体的には追いつめられているのに、なぜか?
その理由は、明らかにGPSを使っていることにあった。そのことには旅の途中で気がついていたが、しかしもはやどうしようもなかった。
結局このときの旅では「航法」という極地探検においてもっとも基本的な作業を機械に外部委託したせいで、自分が北極の自然と深く関わりあっているという感覚を最後まで得ることができなかった。GPSを使うと、周囲の自然と自分との間にどうしても距離ができてしまい、その土地の真実の姿を知る機会を奪われてしまうのだ。
(小学館文庫『エベレストには登らない』に収録の「登山はスポーツか旅か」「GPSの罪悪2」より)
桜蔭の入試で問われた問題とは?
入試で問われたのは、この文章が掲載された本のタイトルは『エベレストには登らない』であるが、「(中略)」部分より前の文章をふまえて、著者がタイトルにこめた思いを考えて説明を求める記述問題。
そして、後半に出てくる「コペルニクス的転回」について著者の意図を具体的に説明しなさいというものでした。
小学生が鎬を削って解く問題の一部を紹介しましたが、みなさんはどのような解答を導き出しましたか?





