
実家は農家。畑の作物を使った“農家のビール”を造ろうと、三重県伊勢市に誕生した「ひみつビール」。農家のビールって何?代表の藪木啓太さんにインタビューした。
農に関わる仕事をしたい
ひみつビールの設立は2021年。設立した藪木啓太さんと佐々木基岐さんは高校時代の同級生だ。大学も同じ農学部。ビール造りの仕事に就きたいと考え始めたのは大学時代だった。

「本当は農家になりたかった」と藪木さんは話す。
実家は農家。祖父母は専業農家、父親は会社員。種まきや収穫の農繁期には家族総出で作業する。藪木さんも子どものころから祖父母の農作業を見て育ち、畑が遊び場。苗を見れば何の作物かすぐわかった。土いじりも植物も好きだったから将来は農家になりたいと思っていたが、父からは「農家では食っていけない」と言われ続けた。
「農業が無理でも、食に携わる仕事に就きたいと思っていました。それも作り手側の仕事をしたかった」
大学時代から親友の佐々木さんと酒造の仕事を目指すようになった。佐々木さんも実家は農家。二人とも酒が好きだったし、特に藪木さんは雇われの身になるイメージができなかった。
なぜ酒の中でもビール醸造を目指したかというと、単純に取得できる酒類製造免許がビールしかなかったからだ。日本ではかなり前から日本酒や焼酎の製造免許の申請は受け付けていない。事実上、酒造で起業したければビール醸造しかない。
ブリュードッグ「PUNK IPA」の衝撃
石川県の大学で生物資源環境学を専攻した藪木さんは大学院まで進み、卒業したのは2014年。卒業後は、クラフトビールブルワリーで醸造技術を身につけることを望んだが、当時、新卒の素人を受け入れるブルワリーは皆無。藪木さんはいったん金沢の出版社に就職した。
就職してすぐのゴールデンウィークのことだ。すでに就職していた佐々木さんから連絡が入る。「海外のクラフトビール業界がすごいことになっている。PUNK IPAというビールがキテるらしいから飲みに行こう」
イギリスのクラフトビールメーカー、ブリュードッグの「PUNK IPA」はIPAブームの火付け役であり、世界でもっとも成功したクラフトビールのひとつ。
2014年当時、日本ではまだ「イパ」と発音されることもあるくらいIPAはニューウェーブだった。「PUNK IPA」は金沢では入手できず、ふたりは大阪まで遠出した。1本500円、それと同じくらいの抜栓料を払ってその場で飲んだPUNK IPAの味に衝撃を受けた。
「世の中にこんなすごいビールがある。おちおちしてられない。一刻も早くクラフトビール業界に入って修業しなければ!」
ほとんど求人の出ないクラフトビール会社に必死の求職活動を開始。藪木さんがようやく南信州ビール(長野県)の醸造の仕事を見つけたのは、PUNK IPAの衝撃から1年以上が経っていた。それから約6年のビール修業を経て、藪木さんと佐々木さんが地元の伊勢市二見町に、ひみつビールを立ち上げたのは2021年だ。
農家のビール醸造所だからファームハウスブルワリー
ひみつビールは設立当初からファームハウスブルワリーという看板を掲げている。ファームハウスとは農家のことだ。
「農業をやりたかったという気持ちが根っこにあります。うちの畑でとれる作物を使ったビールをつくりたい。農産物として出荷することは無理でも、ビールの原料に使うなら、うちの畑でも作れる。六次産業のようなイメージで、採れた作物でビールの付加価値を高めるというやり方ができるんじゃないかと考えました。農業に根ざしたビール造りをするという意味で、“ファームハウスブルワリー”という表現を使いました」
作物を商品として売るならトン単位で生産し、形も色も規格内で収めなければならない。しかしビールの副原料として使うなら何トンも必要ないし、規格も問題にならない。味がよければいい。
畑仕事は藪木さんが自ら行なっている。タネをまく。苗を植える。育ち始めるまではしっかり世話をする。しかし、それ以降は成るがままに自然に任せる。農薬散布はしない。施肥もほとんどしない。醸造過程で出るビール粕を堆肥にして畑に循環させているくらいだ。
「だから枯れるものもありますが、ビールにはできた作物を使う。それでいいと思っています。そのほうがより土地の味が出るんじゃないかな」
畑作業に掛ける人手がないのが実情だ。藪木さんはブルワーであり、ふだんは醸造所の仕事をしている。醸造作業と両立できるほど農作業はたやすくない。

祖父母がつくっていたイチゴをはじめブルーベリー、ラズベリーなどベリー類。レモン、デコポン、グレープフルーツのルビー、ブラッドオレンジ、スウィーティーなどの柑橘類。ローズマリーやレモングラス、フェンネル、タイムなどのハーブ類。さらに無花果やサクランボ、桃、びわ、アーモンドなどの果樹。ライ麦やスペルト小麦などビール主原料になる麦も育てる。
「まだまだいろいろ植えていこうと思っています。雑多な作物を育てたほうが、圃場にとっても遺伝子の多様性が生まれて強くなるでしょう」
無農薬、無肥料でも育つ作物はその土地に適し、力強さも併せ持つ。今年もライ麦とスペルト小麦を栽培中だ。スペルト小麦はいわゆる古代小麦だ。
「一般の小麦と比べると味わい深い。収量は少ないが、殻が硬いので病害に強いし、鳥に食べられずに済む」と言う。
ひみつビールの「ファームハウスエール」の意外な原料
その畑で獲れた作物を使ったビールに「ファームハウスエール」というスタイルがある。日本ではまだあまり馴染みがないだろう。直訳すれば「農家のエール」。このスタイルは、日本では「セゾン」という呼称のほうが知られている。
セゾンはSAISONというフランス語だが、ベルギーの南部(フランス語圏)で造られる伝統的なエールだ。諸説あるが、農家が農閑期の冬期から春先に仕込む、アルコール度数の高くないビールとされる。
アメリカのクラフトビールメーカーが、こうした「農家のビール」を造り始めた際、ベルギー本家への敬意から「セゾン」を使わず、「ファームハウスエール」という呼称が登場してきたようだ。
セゾンに厳密な定義はないが、ファームハウスエールの製法にも明確な定義はない。記者は5月に、ひみつビールのファームハウスエールのひとつ「KAWAUSOすやぁ」を飲んだ。

液色はやや白濁し、生姜が香り、フルーティな香り。いろいろな風味が次々と現われるめずらしいビールだった。この「KAWAUSO すやぁ」は果物と野菜の搾りかすを副原料にしている。ぶどうはぶどうのビールを、生姜はジンジャーエールを、レモンはレモンのビールやジャンジャーエールをつくった後の搾りかすだ。
「ぼくらは農家だから農作物をつくる苦労を知っています。だから、どの作物も使い切りたいという思いがあるんですよね」
しかも毎回、同じ原料を使うわけではない。次に仕込む「KAWAUSOすやぁ」には別の作物の搾りかすが使われる可能性が高い。ファームハウスエールに限らず、ひみつビールには定番ビールというものがない。
「農作物の味は毎年、毎回、変わります。同じ場所で同じように育てても違う。それが自然です。毎回違う原料を使いながら同じ味のビールを造るのには、高度な技術や設備が必要になるんですね。それは大手さんにお任せして、ぼくらは収穫できた作物を、いかにおいしく魅力的なビールに仕上げるかを考えています。とれた原料がいちばん輝くビールにしたいんです」と藪木さんは語る。
ホップの味だけでなく、麦の味も副原料の味もぜんぶする!
できた作物でビールを造る。ビールに使いたいと思う原料を畑で自らつくる。とても贅沢なブルワリーだと思う。ワインづくりに似ていますね? と聞くと、
「たしかにうちのビール、ワイン好きの方からの評判がいいです。畑を大事にする点は、テロワールを大事にするワインと共通しているのかもしれません。
最近はホップの味の濃いビールが人気だけど、ビールにはたくさんの麦が使われているのだから、絶対、麦の味もしたほうがいいと思う。麦の味、酵母が出すエステル、乳酸菌が出した香り、いろんな微生物がつくってくれた香り、果物の微生物から出る香り、果物や野菜そのものからの味わい、もちろん、ホップも大好なのでホップの香りも含めて、ぜんぶバランスよく感じられるにぎやかなビーを造っていきたい」と語る。
今後は地元にタップルーム(直営店)のオープンを計画している。実は、ひみつビールの知名度は地元ではまだ高くないそうだ。値段のハードルもあるだろう。
「飲む場ができれば、地元の人たちが集まってくれると思うし、ぼくたちのビール造りを理解してくれる人も増えると思います。ぼくらは最終的に、“居場所”ができればいいと思っているんです。居場所を創ることにつながるのなら、ビール以外にもいろんなことに挑戦していきたいと思っています」
毎年、近所の飲食店と協力して、ライ麦の収穫イベントを開催している。今年は初めてライ麦の種まきイベントも開催した。「少しずつ、ひみつビールのことを知ってもらえれば」。
こうした地道な活動から、ひみつビールの味の秘密が伝わっていくのではないだろうか。農業と居場所づくりの間にビール造りがある。クラフトビールがその繋ぎ役を担っている。

●ひみつビール 三重県伊勢市二見町西829-1
https://himitsu-beer.myshopify.com
