
その「周辺の複数の島」のひとつに、馬祖列島で唯一の「上陸できる無人島」があります。それが、タイワンジカ200頭が暮らす「大坵(ダーチウ)島」。「主要な5つの島」のひとつである北竿島から小船で渡った先にある、まさに離島オブ離島。
現地在住ライターが、そんな辺境の島をぐるっと一周するトレッキングをしてきた様子をご紹介します。
馬祖列島唯一の「上陸できる無人島」、大坵島へ
馬祖列島は台湾海峡の西北に位置し、台湾本島からは北西に約150km。中国大陸の福建省に近接している離島です。
まずは馬祖列島の主要5島のうちのひとつである「北竿島」に向かいます。北竿島と南竿島の2島は、台湾本島にある台北市の「松山(ソンシャン)空港」から1日に複数の直行便が出ており、空路で約50分。その北竿島のさらに北にあるのが大坵島です。
北竿島に到着したら、まずは空港からタクシーで「橋仔(チャオザイ)港」へ。ここは北竿島と大坵島のみを結ぶ、大坵島航路専用の港。そのため、港はこじんまりとしています。

北竿島から出発する船の運賃は、往復300元(約1337円)/人。この船に乗らないと人里に帰れないので、片道切符はありません。往復のみです。橋仔港に切符販売所があるので、そちらで往復切符を購入します。購入時にはパスポートなどの身分証明書が必要なので、持参をお忘れなく。
しかし切符以外にも、なにやら他の港では見かけないものが…?

これから向かう大坵島は、200頭のタイワンジカが生息する場所。観光客たちはこの葉っぱを餌として購入することで、シカとお近づきになれるのです。3人で訪れた筆者も、1人1束ずつ(合計3束)購入。
葉っぱをしっかりと手に掴み、定員20名程度の船に乗り込みます。大坵島までの距離は船でわずか5分。海から見える景色の変化を楽しんでいたら、あっという間に到着しました。


そして着岸。…するやいなや、体格の良いタイワンジカたちがわらわらと寄ってきます。なんなら着岸前から、船までの間合いを詰めて、餌はまだか?と待ち構えている。

橋仔港で餌の葉っぱを売っていたおばちゃんによると、シカたちは、他のシカの唾液のついた餌を嫌うんだとか。まあ、言われてみれば人間だって嫌ですよね、他の個体の唾液がついた食べ物なんて…。
なので、島に上陸後、餌がすぐにシカの唾液にまみれて使い物にならなくなってしまった…という惨事を防ぐため、オリンピックの聖火のように、餌を高々と掲げて歩くのが正解です。

港の付近で待ち構えているシカたちは、屈強で心身ともに強そうなオスのシカばかり。餌の扱いに手間取ったり、シカの反応を見たくてわざと焦らしたりすると、しびれをきらしてツノでつついてくることがあります。結構痛い。
かといってシカに要求されるがままに餌をあげていると、このエリアだけで餌を使い果たしてしまうことになるので、バランスが大事。
餌を巧みに操り、無事に「屈強なシカエリア」を突破したら、いざ島内一周ルートへ。
360度広がる視界。天気がよければ中国大陸も
北竿島と大坵島を往復している船は、大坵島で客を降ろした後、ただちに北竿島へ帰っていきます。そして2時間後、同じ場所に迎えに来てくれます。なので、大坵島での散策時間は約2時間。
島は約1時間で一周できる大きさ。シカと戯れながらゆっくり歩いても、十分、帰りの船に間に合います。
港があるのは島の西側。島の東側まで歩いてくると、さきほどの屈強なシカたちとは打って変わって、小グループでのんびりと暮らしているシカたちの姿を見ることができます。子ジカたちがつぶらな瞳で遠慮がちに寄ってくるのを見ると、心が洗われますねぇ…。


程度の差こそあれ、島にいるシカたちは等しく餌に寄ってきます。シカのご要望にこまめに応えていたら、1束50元(約223円)の餌はあっという間になくなりました。
思いっきりシカと戯れたい場合は、あらかじめ2束以上買ってから船に乗り込むのがおすすめ。わりとかさばるので持ちにくいのが難点ですが、そこは気合で頑張って。
島には適度なアップダウンがあり、ルートの8割はオーシャンビュー。見渡す限り草原と青い海が広がり、晴れた日には中国大陸も見えます。舗装されたトレッキングルートをなぞることで島を一周できますが、脚力に自信のある方は「後山(ホウシャン)」というエリアまで足を延ばしてみるのもおすすめです。ただし船が迎えに来る時間の制約があるので、くれぐれも乗り遅れのないように。


港に戻ってきたら、次の船の「客待ち」で待機しているシカたちがいました。さきほどの、屈強な方々です。こうした過程を繰り返して、強いものはより強く成長していくのですね…。

実はシティーボーイだったシカたち。この島にいる意外な理由は?
ところで、そもそもなぜこの島に、こんなに大量にシカがいるのでしょうか。
その疑問にお答えする前に、まず、馬祖の地理と歴史についてざっくりとご紹介しましょう。馬祖は台湾海峡の西北部にあり、中国大陸から東にわずか15キロの場所に位置しています。台湾が実効支配する領土の最北端であり、今も多数の軍人が駐屯する島。軍事的色彩が濃く、1994年までは観光客の立ち入りが制限されていました。
1994年まで「最後の一家」として大坵島に暮らしていた王さん一家が、港の近くでカフェを営んでいます。王さん一家は、今は北竿島で暮らしており、朝一番の船で島に上陸し、夕方最後の船で島を離れる生活。大坵島とシカの関係について、王さんが語ってくれました。
1980年頃、まだ台湾に戒厳令が敷かれていた時代。台北(タイペイ)の圓山動物園から、馬祖の行政の中心地である南竿島に「有事のときの食用」として13頭のシカが寄贈されたそうです。シカたちは、もともとは食用目的であり、台湾随一の大都会・台北育ちでもあったわけですね。

島内に産業も農地もほとんどない馬祖にとって、13頭のシカたちはさぞかし貴重な食糧だったはず…それが、食糧として南竿島で消費されることもなく、なぜここに?
「食用として寄贈されたのに、シカたちがものすごく食欲旺盛だったから、飼育が思いのほか大変で…。それに、時代が進むにつれて、大陸との緊張状態も緩和されてきたからね。それでシカたちは、この島に遺棄されちゃった」と、王さん。
「大坵島最後の一家」だった王さんたちは1994年には大坵島から北竿島に移住しており、大坵島はそれ以降無人島になっています。しかも、主要な島である南竿島や北竿島からそれほど遠くない。これ幸いとばかりに、1996年、シカたちは大坵島に遺棄されてしまいます。
持て余されて遺棄されたシカたちは、人間も天敵もいない環境でたくましく繁殖し、約30年の年月を経て200頭にまで増えました。いまやシカたちは「国有財産」として保護対象となっており、馬祖の観光誘客に大きく貢献しています。
大坵島は、かつては漁業の島として栄えており、住民や駐屯軍人が300名ほどいたこともあったそう。島には小学校もあったのだとか。島の往事の姿を垣間見られる写真が王さんのカフェに展示されています。トレッキングでさわやかな汗をかいた後は、カフェで一息つきながら、この島の歴史とシカのたくましさに思いを馳せてみては。

