名物の雲海を早朝に眺めようと、前日はキャンプした

ようやく長雨がおさまった。10月に入って北へ向かった。京都府北部は日本海型気候である。京都市の中心部から80kmほど北上すると、暖温帯が山上まで続く市内の山々とは別世界の森を抱く山々が連なる。それほど標高を上げなくても、冷温帯の森のシンボル・ツリーといえるブナが現れるのだ。とりわけ大江山連峰は、冬の降雪量も多く300m〜350mでブナ、イヌブナが自生する西日本では珍しい山塊である。夏の暑さが話題に上がることの多い京都に、ぽっかり東北の多雪地域の低山があるといっていい。
友人を誘って前日はキャンプした。大江山連峰は南から北東に延びる赤石ヶ岳(756m)、千丈ヶ嶽(832.4m)、鳩ヶ峰(746m)、鍋塚(762.9m)の4つの山の連なりだ。全部を合わせて、あるいは主峰の千丈ヶ嶽を指して「大江山」とも呼ばれてきた。キャンプ場は、赤石ヶ岳と千丈ヶ嶽の間にある加悦双峰公園キャンプ場である。日中は25度Cほどあった気温が14度Cまで落ちた。夏の猛暑が身体に染み付いたからだろうか、この寒暖差が気持ちよく感じ、久しぶりに焚き火も熾した。赤石ヶ岳から鍋塚まで約6kmの縦走である。稜線にはあちこちに登路があり、約500mから約1kmだ。どう歩こうか。地図を眺め続けた。

翌日、日の出前に起きた。そして、千丈ヶ嶽の山腹にある鬼嶽稲荷神社へ向かった。神社の前に車が置け、そこには展望台がある。秋から冬、大江山連峰の周辺は放射冷却で低地が冷え、夜明け前に雲が低く下りていき、山に上がれば雲海の大パノラマが広がるのだ。その絶景は大江山連峰の名物である。ぜひとも眺めてみたいと思った。鬼嶽稲荷神社の前にある展望台は、車で行けることもあって連峰の中でもっとも人気の場所だ。平日の日の出前だったが、若いカップルがひと組きていた。しかし……思い描いていたほどの雲海はできていなかった。まあ、そうそう願いはかなわないものだろう。低山の美しい連なりをしばらく眺めた。


神社の脇からトレイルが延びていた。階段も整備されていた。このあたりで標高は約640mである。約1km登れば千丈ヶ嶽の山頂だ。登り始めると、すぐに太いブナが現れた。ブナは他の樹木をおさえて広い範囲を自分たちの領域とするが、その森はまだ標高が低いからなのか、ミズナラなどさまざまな樹種もあった。ブナが勢力を広げた森は明るく美しい。ただ、わたしはたくさんの樹種にブナも混じる程度の森が好きだ。何より秋が深まって紅葉が美しい。樹種によって葉の色が異なるので、森はひとつの色ではなく多彩になるのである。これは冷温帯が標高の低いところから始まる山にしかないのだろう。大江山連峰の森が珍しいという声はよく聞いていた。たぶん、それは紅葉のときにより鮮明になるはずだ。
地元のアウトドアズマンの勧める絶景を求めて北へ

千丈ヶ嶽の山頂には40分ほどで着いた。木造の雨除け小屋が立っていた。連峰の地図が記された石柱、木製のベンチもあった。この山を主峰にした大江山連峰は鬼伝説の山である。「大江山」と聞いて「酒呑童子」という鬼を思い出した人も少なくないと思う。もっとも古くから語られ、日本一知られた鬼である。大江山の山腹から1kmを超える長さの洞窟の先に鬼隠しの里があり、その中心に立つ鬼が城に住まう身の丈3mに達する鬼王が酒呑童子だ。記述のあるもっとも古い書物は南北朝時代、あるいは室町時代初期といわれるものである。以来、江戸時代までに数々の書物に記され、また絵画にもされてきた。いったどうして、酒呑童子はそこまで時代を越えて語られ続けたのだろうか?
鬼伝説への疑問もさることながら、千丈ヶ嶽の山頂で友人と地図を見ながらどう進もうかに悩んでいた。すると、トレイルの北から声がした。鬼ではない。いかにも山歩きに慣れていそうなロマンスグレーの短髪に山岳用キャップが似合う紳士であった。聞けば、大江山連峰トレイルクラブの会員だという。「今日はいい雲海になりませんでしたね。昨日はよかったんですよ。夜半の雨に祟られましたね。前夜に晴れれば放射冷却が起こるんです」。クラブは連峰の周辺に住むアウトドアズマンで構成され、トレイル整備のほか請われればガイドもする。紳士は年間250日ほど連峰を歩くそうだ。
わたしは眺望のいい稜線のトレイルを気持ちよく歩きたかった。「でしたら北に向かいなさい」と紳士は笑った。鳩ヶ峰、鍋塚へのルートである。大江山連峰トレイルクラブの作るマップは非常に見やすい。コーティングされた紙で多少の雨でもへこたれないのもいい。その地図と実際に見える向かう先のトレイルを照らし合わせてみた。「鍋塚はササの山なんです。登りのトレイルも木々が少なく見晴らしもいいし、山頂はここよりも広々としていますよ」。紳士の勧めるルートを往復することに決めた。稜線を約6km、登ってきたトレイルは約1kmだったから、この日の全歩行距離は約8kmとなる。余力を残して車にたどり着けそうに思えた。だが、千丈ヶ嶽の北は急だった。
周辺は「丹波栗」の名産地、森の中はクリの絨毯‼︎

手を付くほどではない。階段を抜けた後は露岩が多くなり、ときどきバランスを崩した。寄る年波はさけられないなぁと思った。「帰りは、これを登るんだな。俺たちにとっては、今日最後の難所だよ」と友人にいった。彼も頷いた。わたしより10歳も若いのだが、夏の初めからゲストハウスの開業準備で忙しく山から遠ざかっていたのだ。標高差100mほどだったが、ようやく鞍部に出てほっとした。傾斜は緩やかになり、平坦に近くなるところも出てきた。こうした稜線のトレイルが好きだ。まだ見晴らしはきかない。ゆったりと森歩きである。ウリハダカエデの葉が早くも緑から紅に色を変えていた。登り始めもそうだったが、稜線にもブナやミズナラと樹勢を張り合うようにクリが続く。トゲの生えた果皮が大量に落ちていた。「まるでクリの絨毯ですね」と友人がいった。


じつは、今回のお目当ては標高の低い冷温帯の森、鬼伝説、そしてクリだったのである。大江山連峰のあたりは昔の丹波国で、「丹波栗」の主産地なのだ。平安時代から帝に献上され、近年は栽培農家が大幅に減ったというが、10月が近付くと京都市中の店々を賑わし始める。何といっても大きさが群を抜いており、「その大きさ鶏卵の如く」と古くから称されてきた。昼夜で寒暖差の大きい気候が幸いしたのだという。決してオーバーではなく、本当に鶏卵ほどの大きなのはあるが高級品だ。行きがけに兵庫県に入って「道の駅あおがき」でそこそこの大きさを1袋買って、キャンプの晩飯にダッジオーブンで栗ご飯を作った。食べ応えのある大きさに加え、深い甘みに驚いた。そして、多めに炊き、朝コッフェルに詰めてザックに入れてきたのだ。

わたしは若い頃から無類の甘党である。年とともにおさまるかと思ったが、一向にそうはならない。丹波でいちばん大きな町の福知山に話題の洋菓子店がある。「足立音衛門」の本店だ。店名から遠い昔の創業かと思ったら、2005年に事業を開始したそうである。地元の丹波栗のほか、日本各地、イタリア、フランス、チリ、韓国、中国の栽培地をまわり、店主の目にかなったクリを仕入れている。おどろくべきクリへの探究心だ。噂を聞いていたので、我慢しきれず行きに訪ねた。看板商品は「栗のテリーヌ」である。生地に発酵バターと和三盆を使うので、クリは逆に糖度をおさえているという。店の奥に古い洋館と日本建築があり、そこがカフェになっている。そこでいただいた。生地の出来が豊かで、上品な甘みが何層にもなっているかのようだった。クリそのものの甘みはほのかだったが香り見事だった。

大江山の鬼たちは、迫害と追放を受けた辛い身の上だった!?

鳩ヶ峰の登りは緩やかだった。下りはまた露岩が多かったが、あまり距離がないため無理なく過ごせた。むしろ、変化を楽しめた。再び鞍部に出ると休憩所がありトイレも備わっていた。駐車場もあった。この鍋塚休憩所は、大江山連峰トレイルにいちばん取り付きやすい場所だろう。少し休んで鍋塚へのトレイルへ進んだ。緩やかな傾斜だが、こちらは距離があった。ほどなくして樹木が減り、ササが広がり始めて視界が広がった。ササは腰丈から胸丈ぐらいである。左右の山並みが美しい。ときどき振り返って歩いてきた山々も見た。そして、ついに頂上だ。紳士がいっていた通り広い。そのうえ360度の大パノラマである。北には遠く日本海まで見えた。
友人はベンチに座るやコッフェルを取り出し、栗ご飯を食べ始めた。まだ10時半だった。朝食にパンも食べたはずだ。勢いよくかき込んでいる。久しぶりの山歩きのうえ、日の出前の起床だった。疲れて炭水化物がほしくなったのだろう。ご飯茶碗だと2杯ほどにもなる量を一気呵成に食べてしまった。わたしは食欲がわかなかったので、ボーっと風景を眺めていた。大山連峰の麓は、日本海を越えて大陸から渡ってきた渡来人が、まず住み着いた場所のひとつでもある。しかも、後に日本列島に立ち上げる王権と浅からぬ関係があるようだ。彼らは稲作文化を持っていた。イネを育てるには、大きな川より小さな川のほうが適している。連峰からいく筋も流れ落ちる川は、渡来人の主食を育てるのに好都合だったのだろう。

鍋塚の少し北あたりが酒呑童子の栖だったと伝えられている。浪党を従え、平安時代の中頃にはときどき京に出て夜な夜な若者や姫君をさらい、大江山連峰に連れ帰って食べてしまったという。困った時の一条天皇は、頼りにしていた陰陽師の安倍晴明に占わせ、悪業の首謀者が酒呑童子だと突き止めた。そして、武勇で名高い源頼光(948〜1021)をリーダーにした征伐隊を大江山連峰の派遣したのである。長徳元年(995)のことだったとも正歴元年(990)のことだったともいわれる。やがて頼光らは長い洞窟を抜けて鬼隠し里に入り、酒呑童子に出くわす。征伐隊が山伏の格好であったので鬼は受け入れる。その名の通り酒を愛した鬼だ。酒宴となるのである。そして、自身の身の上を明かす。
「私はもと比良山(現在の滋賀県西部、比叡山の北の山塊)を私領としていたが、伝教大師最澄がやってきて比叡山に根本中堂を建てて私を追い払おうとした。私はこれに抵抗したのだが、結界を封じられたので力及ばず、その代わりに大師から近江のかが山を与えてもらった。しかし、この地も桓武天皇の勅使に追い出された。その後、住むべきところも定まらず、あちらこちらをさまよいつつ、ときどき怨念に任せて大風、旱魃を起こし、国土に仇をなして、心を慰めてきた。この大江山には仁明天皇の嘉祥2年(849)から住んでいる」。迫害、追放と戦ってきた辛い身の上だ。だが、哀れ酒呑童子は源頼光の率いる征伐隊に命を奪われる。そして、これ以後この鬼伝説は王権の力を示す物語として語られていくのである。
酒呑童子らはクリを主食にした崇高な山の民だった?

鍋塚のササ原の下り、鳩ヶ峰の岩の目立つ登り、そして下り。そこまで本当に調子よかった。しかし、下りのときも心配した千丈ヶ嶽にさしかかって異変が起きた。膝上の筋肉がツリ始めたのである。「まだまだです。修業なさい」。あの紳士の声がそういっているように思えた。あちらのほうがおそらく年上である。10歩も進まず休む。だましだまし登るしかなくなった。休むとトレイルのクリが気になり、時折りイガをくり抜いて実を集めた。クリは縄文時代から栽培されてきたといわれる。その「栽培」とはどんなものだったのだろう。「桃栗3年、柿8年、柚子は9年でなりかねる」といわれる。実際、クリは実生から3年ほどで実を結ぶという。

京都大学は森林学が盛んだ。そこで学んだ研究者と森を歩いてきいたことがある。「クリは二次林です。冷温帯の森ですと、大木が自然に倒れたり、人が伐り倒したりしてできた空間に真っ先に生えます」。クリの栽培は、おそらく他の木を伐り倒して空間を作り、実を土に埋めて成長を待ったのだろう。大きく森を変えてしまうやり方とは違ったのだと思う。酒呑童子とその郎党たちは、もし実在したなら山の民でもあっただろう。もしかしたら主食はクリを始めとした木の実だったのかもしれない。王権は米が主食で、米を食べない者を蔑んだ。だが、木の実で山の民は生き続けた。その姿を「米に頼ろうとしない人びと」と崇高に捉える民俗学が登場するのは、近代になってからのことである。
ようやく千丈ヶ嶽を登りきった。ベンチに座り、私も栗ご飯を一気呵成に食べた。今、トレイルは大山連峰からさらに北東へ、整備されて延びている。前夜のキャンプ地から近い赤石ケ岳から舞鶴市の赤岩山(669m)までを結び、地元のアウトドアズマンは「赤赤縦走路」と呼んでいる。全長約16km。行きに千丈ヶ嶽の頂上で会った紳士はいった。「縦走はわたしの足で7時間から8時間。本当に稀ですが一日で往復してしまう人もいます。雪が積もる冬もいいですよ。スノーシューやカンジキで歩くんです」。京都市中とは別世界の冷温帯の森、鬼伝説、眺望、紅葉、そして雪……。キャンプ場も整い、トレイルを支えるアウトドアズマンのコミュニティができているのもいい。北のホームグラウンドにしたい。そう強く思いつつ、この日はここで下山した。
参考文献/小松和彦『鬼と日本人』(角川文庫)。




