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森と海に囲まれた南東アラスカの町、ケチカンを行く 第3回
早朝の湖のほとりに現れた、モノクロームの世界

アラスカの山小屋に寝泊まりする日々では、夜、外が暗くなると、窓からの光で本も読めなくなり、LEDライトを使って電池を消耗するのも得策ではないので、21時頃には寝袋に潜り込んで寝るしかなくなります。その分、朝は5時くらいにはすっかり目が覚めてしまうので、カメラを手に、マンザニータ・レイクのほとりまで歩いて行って、周囲の様子を見ながら、写真を撮るなどしていました。
白く濃くたち込める霧が、湖の周囲の森の大半を覆い尽くしていた朝。森と、森を映す湖面を挟んで、上下に真っ白な帯が生まれていました。白と黒がしっとりとにじむ、モノクロームの世界がそこにありました。

マンザニータ・レイク・キャビンのすぐ近くには、森の中から湖へと流れ出る細い川がありました。ちょうど、山小屋のすぐ近くに急な岩場があり、そこを流れ落ちる水が、2か所で小さな滝となっていました。絶え間なく弾ける水の音は、山小屋の中にいてもずっと聞こえ続けていて、それに耳を傾けながら、ドリップパックでいれたコーヒーを飲んだり、持参した分厚いSF小説の文庫本を読んだりしていると、不思議に心が安らぎました。

山小屋の周囲に生える木々の幹の多くは、びっしりと苔に覆われていました。多量の雨がもたらす恵みは、ありとあらゆる生命を潤しているのだなと実感します。

折れた木の幹の残り株からも、さまざまな種類の植物や苔が芽吹いていて、あちこちでしゃがみ込んで写真を撮っていても、飽きることはありませんでした。
一方、あわよくば遭遇して写真に撮りたかった野生動物たちの姿は、この湖のほとりでの滞在中、ほとんど目にすることはありませんでした。明け方の湖で、霧の中をすいっと泳ぐ水鳥の姿を遠くで見かけたくらい。実際、この山小屋の周辺は、湖岸ぎりぎりまで密生する樹木や、ずぶずぶにゆるい砂州、ぼうぼうに繁茂する高さ1メートル近い灌木や草などに遮られ、自由に歩き回れる範囲が予想以上に狭かったのです。
山小屋の中に置かれていた、滞在者たちが自由に書き込める分厚いノートにも、野生動物の目撃情報はあまりなく、遠くでシカを数頭見た、という書き込みが一つあったくらい。ほとんどの滞在者は、湖の岸辺で釣りをする目的で、この山小屋を訪れていたようでした。
滞在最終日の朝、目の前に現れた鏡映しの世界

マンザニータ・レイク・キャビンでの滞在、最終日の朝。空を覆っていた雲はあらかた消え、薄青の空に舞う筋雲は、淡い茜色に染まっていました。

急な冷え込みで、湖面からは水蒸気が立ち昇っていて、湖水と対岸の森との境界線だけが、白いもやでふんわりと分たれていました。前日の朝とはまったく違う光景で、同じ湖を同じ場所から眺めているとは思えません。

湖上を漂っていたもやが消え、やがて、太陽の位置が高くなってきた頃、風が、完全に止みました。マンザニータ・レイクは完璧な鏡面となって、薄青の空と、濃緑の森に覆われた山々とその稜線を、驚くほど鮮やかに映し出しました。

僕は長靴のまま、岸辺から湖に足を踏み入れ、鏡映しの世界の只中に身を置きました。じっと見つめていると、上下や奥行きの感覚が麻痺してきそうです。呼吸を鎮め、首から下げていたカメラを構え、少しずつ身体の角度を変えながら、湖と対岸の森を、写真に収めていきました。今、地球上でこの光景を目撃しているのは、自分一人だけなのだ、という事実を噛みしめながら。

ケチカンからの迎えの水上飛行機は、予約していた時間よりも三時間早く、昼頃に到着しました。
「早いですね」と僕が言うと、陽気なパイロットの男性に「ビジネス・スケジュールさ!」と笑って返されました。翌日からしばらく、悪天候が続く予報なので、この日のうちにあちこち飛び回らなければならないのだそうです。
彼にも手伝ってもらいながら、何度かに分けて荷物を砂州まで運び出し、水上飛行機に積み込みました。プロペラの轟音とともに動き出した水上飛行機は、すうっ、と何の引っかかりもないまま、マンザニータ・レイクを離水。湾曲した湖の形に沿うようにして、パイロットは機体を右へと旋回させながら、高度を上げていきました。
マンザニータ・レイクでは、野生動物に遭遇するような、わかりやすい形での特別な出来事は、何も起こりませんでした。でも、少なくとも自分にとって、あの湖のほとりの山小屋で過ごした短い時間は、一瞬一瞬、すべてがかけがえのないものだったのだと、今振り返ってみても思います。あの日、岸辺から湖の中に踏み入って、鏡映しの静謐な世界に一人で立ち尽くした時のことを、僕は忘れることはないでしょう。