
2023年、そんな彼が選んだ舞台がフィリピン。今回は2013年にフィリピンで初めて開催され、10年以上の歴史を誇る100マイル(約160km)のウルトラレース「Hardcore Hundred Miles」に参加した模様をお届けする。

2023年大会のスタート前に勢揃いした勇敢な挑戦者たち。日本人は私を含めわずか2人だ。

160kmの旅は、小さな農村「カヤパ」から始まる。通信環境が整っておらず、レース参加者はスマホの電波を求めて特定のエリアに集まる光景がしばしば見られる。
想像を絶する地獄!? フィリピンでの100マイルレースとは
フィリピンでのレース参戦のきっかけは留学。留学先はルソン島北部に位置し、標高約1500mの山岳地帯の天空都市として知られる避暑地バギオだった。以前から海外のトレイルランニングレースに憧れを持っていた私は、帰国後にバギオ周辺でレースを探し、「Hardcore Hundred Miles」を見つけた。
レースの舞台となるルソン島の広大なコルディリェラ山脈は、フィリピンでは比較的涼しく、真夏の軽井沢といったところだろうか。コースにあるエイドステーション(以下、AS)は、わずか10箇所ほど。それだけに補給を慎重に計画しなければ、命取りになりかねない。さらにスコールが容赦なく襲いかかるはずだ。

2023年度のHardcore Hundred Milesのレースプロフィール。左端がスタートになる。一番標高が高いのがプラグ山だ。
未知の領域へ飛び込む覚悟で初の100マイル挑戦!
初参戦のレースは2023年5月。夜10時にスタートし、制限時間は40時間。小さな町カヤパを基点に、壮大なコルディリェラ山脈を一周する。
私は戦略を練った。特に警戒すべきは、AS3からAS4に向かうプラグ山(標高2928m)とAS8からAS9に向かうウゴ山の急登だ。プラグ山は中強度のペースで乗り切り、レース終盤のウゴ山は体力をしっかり温存していなければ踏破できない。
フィリピン人ランナーから「Run smart」(賢く走れ)というアドバイスを受けた。その言葉の意味を理解するのはレース終盤になってからだった。
スタートが近づくと、ランナーたちが次々と会場に集まり始める。大半がフィリピン人で、日本人は私を含めてわずか2人だけだった。

まだまだ元気なレース前の記念に一枚。右からベトナム在住の日本人ランナー、その友人のベトナム人ランナー、そして私。

夜通し走り続けて夜が明けてくる瞬間は、孤独から解放され、不思議と一種の安堵感をもたらしてくれる。

約100mの超スリリングな吊り橋。一歩踏み込むたびに揺れ動く細いロープだけが頼りの綱だ。安全がある程度保障されている日本のレースではありえないものだ。

熱帯地域の高地で見られるモッシーフォレストの中を進む。湿度が非常に高く、涼しい気候が特徴で、苔に覆われた幻想的な風景が広がる森林エコシステムだ。
悪夢のプラグ山!心臓破りの急登が待ち受ける
前半は計画通りに自分のペースを刻む。コースははっきり言って荒れ気味だが、それも楽しい。走り始めておよそ9時間。10kmで1500mの登りが続くプラグ山の急登が始まる。
山頂が途方もなく遠く思えた苦しい中で、ランナー達と拙い英語で互いに励ましあった。それは孤独な闘いの中で辛さを和らげる貴重なひとときだった。

フィリピンで3番目に高いプラグ山の山頂。綺麗な日の出と雲海を楽しめることで有名。
山頂では、熱帯らしからぬ草原に霧が立ち込める幻想的な風景に心を打たれた。この先のAS4からは、15kmにわたる長い下りだ。この下りで、徐々に左膝に痛みが出てきた。

大嵐が襲う前のピンク色に染まった美しい空
突然の嵐!襲いかかる大自然と心の葛藤
スタートして20時間以上が経ち、2回目の夜は嵐となった。私はずぶ濡れになり体温と体力を奪われていく。S7付近の草むらで仮眠を取ることにした。左膝はズキズキと痛み、足の裏は水ぶくれができていた。

突如現れた緑の池に思わず足が止まる。Googleマップにはのらない穴場だ。
仮眠後、関門に向かって進み続けた。ただ体力も精神力はすでに限界だ。140km地点で「完走は不可能だ」とはっきり自覚した。時計を確認すると、40時間の制限は過ぎていた。疲れ果てて、自分がどこにいるのかさえもわからなくなっていたが、奇跡的に最後のAS11までたどり着いた。
完走したのは、158人中わずか45人。完走率は28.5%。11年の歴史の中で、過去2番目に低い完走率が過酷さを証明している。初挑戦は見事に完敗だった。しかし私は「さらに強くなって必ずリベンジを果たす」と誓った。

2024年度のHardcore Hundred Milesのレースプロフィール。ASも若干充実した。
再びフィリピンへ!リベンジを賭けた二度目の「Hardcore Hundred Miles」
2024年5月、前回の失敗を踏まえ、今回はギアを強化しトレーニングにも力を入れて、自信を深めた。
スタートは朝5時半に設定され、制限時間は44時間に延長。距離と累積標高がわずかに増加したが難易度は下がったわけではない。今回のレース戦略は、前半は体力を温存することを第一に考えた。鍵は、自分のペースを守る「Run smart」だ。

スタート前の記念に一枚。夜が明けてちょうど明るくなってきた頃だ。トレイルランニングポールなどのギアも強化し、我ながら自信に満ちている表情だ。
今回日本人の参加者は私ひとり。それでも前回の仲間とも再会でき嬉しかった。彼らの中にも、リベンジを目指す者もいた。

遠くから眺めると、まるで山肌が苔に覆われたかのような不思議な景色。青空とのコントラストが鮮やかさを際立たせる。
一時は5位に!順調なスタートから予想外のトラブル発生!?
レース前半は驚くほど快調だった。最初の難関となるAS2からAS3区間では、難なく登りをクリア。気づけば全体で10位以内に入っていた。エイドステーションでは、パラパラの白米とチキンを軽く口にしただけで、先を急いだ。まだ全く疲れはない。
次のAS3からAS4区間は、猛スピードで得意の下りを駆け降りた。その結果、5位という好位置に上昇。「これはいける!」と確信した。しかも身体のどこも痛みがなかった。この順位を死守しようと、ペースを保ち続けた。

澄んだ川の水が静かに流れる。この一瞬の静寂が疲れた体と心に癒しを与えてくれる。

食欲減退に加え寒気も感じ、エイド近くの焚き火にあたる。消えてしまいそうな炎が私のメンタルを表現しているかのようだった。
ところが、振り向けば前回の準優勝者が私の背後にいる。その瞬間、負けず嫌いな性格が顔を出し、ついペースを上げた。スタートして約15時間でAS5に到着。彼にはまだ少し余裕が見えたが、私はかなり疲労が溜まっていた。エイドで提供されたご飯とチキンは喉を通らなかった。
ここで初めて、自分の食欲が完全に失われていることに気づいた。食欲が戻ることを期待して、約20分横になることにした。ランナーたちが心配そうに声をかけてくれる。それが悔しかった。ただ、この予想外のトラブルにどう対処すればいいのかが分からないだけなのだ。

雲行きが怪しい夜空。まるで揺れ動く雲が、自分のメンタルの不安定さを映し出しているかのようだった。
メンタルが崩壊!ジャングルの中で訪れた挫折の瞬間。
結局1時間以上はエイドに滞在していたが、まだ制限時間には余裕があった。他のランナーが「一緒に行こう!」と励ましてくれ、失った順位を取り返そうと真っ暗なトレイルをがむしゃらに進む。
しかし、疲れ切った身体でジャングルの道なき道を進むのは、予想以上に厳しかった。「なんでフィリピンで夜通し走ってるんだ?」「もう十分だ。ほんとによくやったよ!」と自問自答が続く。

DNF後、お世話になったシューズに感謝を告げる。
なんとかAS7まで辿り着いた。周囲から「日本から来て、ここで諦めるなんてもったいないよ!」と励まされたが、もうレースを続ける意志は湧いてこなかった。
気づけばエマージェンシーシートのくるまり、3時間ほど眠っていた。腕時計は既に関門時間の6時30分を過ぎ、DNF(Did Not Finish、完走できずリタイア)が確定していた。
なぜかその時は潔くDNFを受け入れることができた。前半の飛ばしすぎ、そして不十分なエネルギー補給が原因だったのだろう。その上、他のランナーと競いすぎた。本来、自分自身と闘うべきなのに。

果てしなく広大なコルディリェラ山脈の眺望。
それでもまた挑みたくなるフィリピンウルトラレースの真の魅力
フィリピンのウルトラレースは、日本とは違い、自然のままの荒々しいルートが多い。
エイドステーションでは、チキンアドボなどの伝統料理でエネルギーを補給できる。そしてフィリピン人ランナーたちは、どこかクレイジーなほどタフな精神力を持ち、感化されるものもがある。
ウルトラレースは誰もが気軽に参加できるものではないかも知れない。しかもフィリピンでの大会となればなおさらだ。そのレースに2度挑戦し、決着をつけるつもりだったが、叶わなかった。しかし、私にとってフィリピンが思い出の詰まった特別な土地である以上、再び挑むことを誓う。
もしかしたら次戦では、愛用するワラーチ(ランニングサンダル)やミニマリストシューズ(足裏感覚を重視したシンプルな靴)で完走を目指すかもしれない。どうせなら他人が真似できない自分らしい挑戦にするつもりだ。
もちろん日本国内にも素晴らしいレースがたくさん開催されている。自分自身と向き合える絶好の機会なので、無理のない難易度のレースから挑戦してみてもらいたい。