手仕事で生計を立てる職人は激減、残るは高齢者ばかり。そんな令和の現在、弱冠21歳で竹細工職人として自立しているのが井上湧さんだ。Z世代のモノづくり観とは?
竹細工職人 井上 湧さん
いのうえ・わく 2002年東京都生まれ。農的生活志向の両親とともに長野県の山村で暮らす。小中学校には通わず野山と田畑を学びの場として育つ。14歳で竹細工の技術に出会い、以後、職人を目指し全国の匠の元を訪ね、教えを受けながら独学。『青竹細工TIKUYU』の屋号で活動。
モノづくりは、ちゃんと飯が食える魅力的な生き方だということを、後に続く世代に示したい
素朴な刃物数丁で、1本の竹から美しい籠や笊を作り出すのが竹細工職人。かつてはどの町や村にもあったありふれた職業だ。いい替えれば社会に欠かせない仕事だったわけだが、高度経済成長期を境に急減した。
生活素材が木や竹などの天然素材から金属やプラスチックに置き替わったこと。また、これら新素材を使えば大量生産ができることから、手作りの生活用品は競争に負けていった。
かつては何代も続く家業だったのに、その家に生まれた子どもすら選択しなくなった職人という生き方。そんな時代に、あえて竹細工に人生を懸けようとしている若者がいる。長野県在住の井上湧さん(21歳)だ。
──ずいぶん深い山の中で驚きました。家も手作りで『大草原の小さな家』みたいですね。
「僕の両親は学生時代から農的生活を志向していて、僕が生まれてすぐに長野県へ移住しました。最初は飯田の北のほうで暮らしていたんですけど、8年ほど前にこの阿南町和合地区へ越してきました。
──小さいころは何をして遊んでいましたか。
「山と川、田んぼと畑が遊び場でした。家にはテレビやゲームとかもなかったので、そのへんでボールを投げたり山で棒を振り回して遊んでいましたね。自然は大好きでした」
──テレビもゲーム機もないのはご両親の主義ですか。
「化石エネルギーに依存しすぎない暮らしが大事だと考えていて。今ではトラクターも田植え機も使いますが、ここへ来たころ、農作業は全部手作業でした。試行錯誤をするなかで、受け入れてよいものと必要のないものを選択していったのだと思います。今はソーラーパネルを設置して売電もしていますし、敷地にはWi-Fiも飛んでいます。
便利なものをやみくもに否定するのでなく、賢く選択すればよいことを学んだのだと思います。家にはテレビやゲームはなかったけれど、パソコンはちゃんとあって、インターネットは普通に使っていました」
──モノづくりも子どものころから好きだったのですか。
「大好きでした。今あそこで荷物を置く台になっている机は、小学生時代に僕が大工さんに教わって作ったものです。今もガタつかず実用品として頑張ってくれています」
──ちゃんとほぞ穴を彫っていますね。ぴったり嵌っていて、小学生の作品とは思えません。
「時間だけはたくさんあったので(笑)。僕、じつは小学校も中学校も行っていないんですよ。町の中だと子どもがたくさんいるので、あの程度の年齢になったら小学校に行くんだなということが当たり前の感覚として共有されますよね。けれど、こういう山奥の限界集落でぽつんと暮らしていると、そんな感覚ってまったくないんです。友達がいなくても寂しくないし、自然の中で棒を振り回したり、大工さんのまねごとをしているだけで十分楽しい毎日でした」
──このへんだと、学校に通うのは大変ですか?
「小学校は5、6㎞先くらいなので近いですけれど、中学校までは車で30〜40分かかります。よく聞かれるんですが、学校自体が嫌いだったんじゃないんです。一方的に教えられることとか、常に管理されているとか。そういうのがすごく退屈に思えて。自由に育ったギャップかもしれません。
教科書はもらっているので、勉強は両親が教えてくれました。自習もしましたし、本はわりと読んできたほうだと思います。ただ、漢字は今も苦手かな。読めるけど書こうと思うとなかなか字が思い浮かびません」
──それ、大丈夫です。おじさん世代もパソコンを使いだしてからは同じ。アプリが変換してくれますし(笑)。
「ちっちゃいころから職人の世界に憧れがあったので、モノづくりに関する専門書はよく読みました。将来は職人になるのもいいなという漠然とした思いはありましたが、こういう職人になりたい、というようなことは考えていませんでした」
──竹細工職人を選んだきっかけはなんだったのですか。
「農的な暮らしをしている家だったので、竹でできた昔の生活道具はたくさんありました。使ってもいました。アケビの蔓を採ってきて遊びでバスケットを編んでみたこともありましたが、割った竹で編むということはしたことがありませんでした。
14歳のとき、竹細工のできる方がうちへ寄ってくださったんですよ。その方は大分県の職業訓練校で竹工芸を学んできたばかり。活動の場を探しているときに僕の両親と愛知県のイベント会場で知り合ったんです。
うちへ数日泊まって、そのとき竹細工を教えてもらいました。竹は比較的身近にあったので竹トンボを削ったことはありますが、割ってひごを作り、編むというのは見るのもやるのも初めて。楽しかったですね。父と僕、3日くらいかけてそれぞれ籠をひとつ編み上げました」
──竹細工って面白いなと。
「はい。九州にはまだ竹細工の職人さんがいると聞き、行ってみたくなりました。その方が竹細工を学んだという学校のことも調べてみたんですが、入学資格が高校卒業以上となっていました。数年待って高卒検定で資格を取ってから入るという手もあると考え、とりあえず見学してみたんですが、思い直しました。時間がすごくもったいない気がしたんです。
僕が今やっている竹細工は、このあたりでは青竹細工といって、熱による油抜き処理をしていない、生のままのマダケを割ってそのまま編みます。油抜きした竹はどちらかといえば茶道や華道につながる芸術品的な竹工芸に使われます」
訪ねた職人は多くが高齢。「今学ばないと間に合わない」
──青竹細工はひと工程少ない。
「というより、油抜きした竹のほうがひと工程多いんですね。竹細工の原点は青竹細工です。農具や台所で使う籠や笊は荒物と呼ばれ庶民が日常的に使う道具です。油抜きした竹を使う工芸品は、時代的にはかなり後に登場したものです。
僕が竹の面白さに目覚めたとき、九州の田舎には青竹細工で生計を立てている職人が、多くはありませんでしたけれどいらっしゃいました。40代から80代まで。ただ、60代以下の方は兼業がほとんどでした。若いころから専業の職人としてやっていた方は80代。そういうおじいちゃん職人はあと何年もしないうちに現役を退いてしまう。今教えてもらわないと技を吸収できないと思いました」
──職人を訪ねる青春放浪が始まったわけですね。
「はい。そういう方々を訪ね、竹細工を勉強したいので見学をさせてくださいとお願いしました。ときに手ほどきを受けたりしながら、質問したり話を聞かせていただく、というようなことを繰り返しました。泊めていただいて数日間滞在することもありました。泊まったお宅だけでも10数軒になります」
──職人さんたちの反応はどうでしたか。
「どこでもいわれたのが〈竹細工なんて金になんねえぞうっ〉(笑)。でも、快く迎えてくれました。高齢の方々は、自分の技術がこのまま消えていくのは寂しいという思いがあったようです。若い世代の職人さんも、次の世代を育てることの必要性は感じておられたようで、なんでも教えてくれました」
──そうした知見を基に独学で技術を磨いたわけですね。販売を始めたのはいつですか。
「18歳くらいのときには、がっつり竹細工をやろうという意識になっていました。僕が竹細工をやっていることを知った地域の人が作業用の腰籠を注文してくれました。母親がブログで僕のことを書いていて、それを読んだ方からも買い物籠などの依頼が来るようになりました。
販売を始めたといっても、竹細工一本で生きていくつもりはありませんでした。ほかに面白そうな人生の選択肢があればそれもいいと思っていました。じつは今もその考えはあります。僕はまだ20代です。この先の人生でもっと魅力的な世界と出会うかもしれません(笑)」
──現在はどんな販売方法をとっているのですか。
「窓口のひとつがギャラリーでの個展。そしてショップでの委託販売です。もうひとつはネット。といっても通販方式ではなく注文を受けてから作ります。情報発信はSNS。今、僕のような仕事が成り立っているのは、欲しいものを探したり、売りたいものを発信できるSNSのおかげです。これがなかったら、僕の存在が世に知られる機会すらなかったと思います」
──Z世代のメリットですね。
「知ってもらうという意味でネットはとても便利なんですけれど、製品はギャラリーやお店で直に見てもらいたいなと思っています。実物にはスマホの画面では伝わらない感覚があります。直接モノを見て手で触れて納得していただく。そうやって売れていくことが理想だし、モノづくりで暮らしていく基本だと思います。SNSの便利さに飲み込まれて鈍感になってしまわないように気をつけています。直に見て触れていただくため、いつかギャラリー付きの工房を作りたいなと考えています」
──編み方や製品のタイプは九州系なのですか?
「四国や岡山の職人さんの技術も取り入れているので、どちらかといえば西日本式ですが、これと同じ籠を作ってほしいと現物を持ち込んで来られる方も多く、地域性は意識していません。郷土資料館などに残るもので、素晴らしい技術があればリスペクトの意味でコピーさせてもらうこともあります」
職人自身が、無理せず暮らせる価格を決めないと技は消える
──おじいちゃん職人たちから多くのことを学んできたわけですが、ここはあえて変えたいという部分はありますか。
「値段のつけ方ですね。職人さんたちのところを回ったときに感じたのは売り値が安すぎることでした。籠ひとつ1万円として100個作れば100万円。でも、1個を何日で作れるのか。昔はライバルも多かったので高い値はつけられない。おのずと相場というものがありました。その後、物価は上がっているわけですけれど、職人さんの金銭感覚は当時とあまり変わっていないんです。
一方で、竹細工は金にならない、食えないとぼやいていました。ここを変えなければこの仕事は続かないと思ったので、僕は自分が職人として生計を立てられるだけの金額を設定させてもらっています。とはいえ、実用一点張りの荒物のままだと難しい。鑑賞に堪える美しさも目指しています」
──ホームセンターなどでは安価な輸入の竹製品が主流です。
「選ぶ人の気持ちもわかります。けれど、そういう選択を続けていくと国内から竹細工の技術は消えてしまう。よいものを安く、は大事だと思いますが、それができるのは工業的な生産が可能なものだけです。年間100万円で暮らせといわれれば僕は暮らせるかもしれないけれど、そこまで無理はしたくない。いっぱいお金を儲けたいわけじゃなく、適正な対価が欲しいだけ。
仮に僕が低収入で満足できても、次の世代の人が、こんな生き方はしたくないなと思ったら技術はつながりません。そこは覆したい。ちゃんと食える仕事だということを、今後の活動の中で示したいと思っています」
この素材なしに日本文化は生まれなかった! マダケと日本人
工芸に使われる大型の竹にはモウソウチクやハチクもあるが、最も多く利用されてきた竹といえばマダケである。理由は素材特性だ。節と節の間が長いため、細く割ったときに平滑なひご材を作ることができる。ほかの竹に比べると、よりしなやかで曲げやすい。反発力にもすぐれており強靭。活躍してきた範囲は幅広い。民家を例にすると、まず土壁の下地の木舞。屋根を葺くときに材料の茅を乗せる横木の茅負。垣根、梯子、物干し竿などは丸材のまま利用された。生活の場面では台所道具に農具、漁具。茶道や華道などの芸術の中でもマダケの美は光っていた。日本文化は、この素材との出合いなくして生まれなかったといっても過言ではないだろう。
多様な利用ができるスーパーマテリアルのマダケだが、近年問題になっているのは生産林の荒廃だ。食用として利用されなくなったモウソウチク林やハチク林と同じ現象が、工芸素材のマダケ林でも起こっているのである。
井上さんによると、青竹細工に向く良質なマダケは適切な管理を重ねて初めて確保できるという。しかし、伐らない時代が長く続いたことでマダケの質は劣化しており、よい材料を確保することが難しくなっている。竹文化を守るため、そして竹細工職人として自立を目指すこれからの仲間のためにも、井上さんは竹林の持続的な管理と材料を供給する仕事も手がけていきたいと語る。
井上 湧 流・竹製品を長く使う3つのポイント
1 買ってすぐはカビに注意。早めに見つけて拭き取る
竹の弱点はカビ。購入して1年目の梅雨は生えやすい。気づいたら早めに拭き取り、こまめにチェックを続ければしみにならない。
2 使ったら洗い、すぐ風通しのよいところで乾かす
台所用品の場合は、使ったら水洗いし風通しのよい場所で乾かす。竹は多少水分を吸うため濡れたままだとカビが生え黒ずみやすい。
3 がんがん使ってよいが雨ざらしにはしない
竹は天然素材の中では水に強い。水回り作業でもがんがん使えるが、雨ざらしにしておくと劣化が進む。メリハリのある使い方を。
※構成/鹿熊 勤 撮影/藤田修平
◎青竹細工TIKUYU https://tikuyu.com/
(BE-PAL 2023年8月号より)