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  • 「ホテル・カリフォルニア」でバレーパーキングを15年ぶりに頼んでみたら

    2022.10.04 金子浩久

    自動車ライター・金子浩久が過去の旅写真をひもときながら、クルマでしか行けないとっておきの旅へご案内します。クルマの旅は自由度が大きいので、あちこち訪れながら、さまざまな人や自然、モノなどに触れることができるのが魅力。今回の旅先は、アメリカのロスアンゼルス。日米貿易摩擦を経て1989年に誕生した三菱車での体験、そしてレクサスが日本進出を果たす前年の2004年に感じた日本車の存在感の差は、どれほどのものだったのでしょうか。
    ※この記事は1989年と2004年に体験した内容を基に構成しています。

    1989年のロスアンゼルスにて

    北米マーケット向けに製造されたエクリプス(初代)。

    バレーパーキングが日本でも少しづつ増えてきているというニュースを、ときどき眼にする。

    ホテルやデパート、ショッピングセンターなどの入り口でスタッフに自分のクルマを預け、帰りはまた運んできてくれる。広い駐車場でスペースを探す手間が省け、歩かずに済む。急いでいたら助かる。荷物などがあったら、なおさらだ。もちろん、チップや料金などが発生するのだが、便利なサービスなので、もっと普及しても良いのではないか。

    1989年に泊まったロスアンゼルスのビバリーヒルズホテルもバレーパーキングだった。イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のアルバムジャケットに写っているホテルとして有名な5つ星ホテルである。

    慣れたベテランのスタッフたちが連携しながら、次々と入ってくるクルマを預かり、荷物を下ろし、ゲストをチェックインカウンターに案内していた。

    乗っていったクルマは、発表されたばかりの三菱エクリプス。三菱自動車がクライスラーと合弁でアメリカに設立したダイヤモンドスター・モーターズ(DSM)のイリノイ州の工場でその年から生産を開始し、日本へは左ハンドル版で輸出されていた。

    カメラマンと男性向けライフスタイル誌編集者に僕の3人と3人分の荷物でパンパンになった赤いエクリプスでエントランスに乗り付けると、若い頃のトミー・リー・ジョーンズに似たスタッフがドアを開け、笑顔で「ビバリーヒルズ・ホテルへ、ようこそ。チェックインですね。いま、ポーターが荷物を降ろして、レセプションに案内します」と、決まり文句なのだけれども、なるべくそう聞こえないように、明るくフレンドリーに畳み掛けてくる。

    アメリカのこうしたサービスに従事している人たちはチップによって生計を立てていることは、それ以前のアメリカ旅行で教わっていたので、彼の挨拶が終わると同時に1ドル札を手早く渡した。受け取るとズボンのポケットにしまった瞬間、彼はもう次のクルマに向かって誘導を始めようとしている。 ゲンキンなまでの切り替えの速さと鮮やかさに嫌味を感じる間も与えなかった。

    まだ日本車は一般的な存在ではなかった

    次に現れたのが、エクリプスを駐車場まで運ぶ担当スタッフで、彼も満面の笑顔である。ということは、チップだ。クルマを預けた証となる引き換えカードを受け取り、彼にも1ドル札を渡した。この頃は日本はバブル景気で円の勢いもあり、物価も33年前の水準だったから1ドルで問題なかったが、現在ならば、3ドルいや5ドルぐらい渡すのだろう。いや、10ドル渡してもおかしくないかもしれない。

    チェックアウト時やクルマで外出する時などは、そのカードをバレーパーキングのスタッフにチップとともに渡せば、クルマを持ってきてくれる。

    カードの一番上にはクルマのナンバープレートの数字がスタッフのボールペンで書き込まれていた。その下は方眼状に長方形で区切られており、ひとつひとつにクルマのブランド名が印刷されていた。そのブランド名をスタッフが丸で囲むようになっていた。

    キャデラック、リンカーン、ロールスロイス、ベントレー、ジャガー、メルセデス・ベンツ、BMW、ポルシェなど、ABC順だったか、アメリカ車にヨーロッパ車が続いていたのか、高級車の名前が並んでいた。

    インペリアルやパッカード、スチュードベーカーなどといった、すでに製造が中止されてしまったアメリカの高級車も記されていた。

    で、我が三菱エクリプスはどこに丸が付けられていたかというと、一番下の端の空欄が丸で囲まれていたのである。何も印刷されていない長方形だ。Mitsubishiという表記は存在していなかった。Mitsubishiどころか、ToyotaNissanHondaもなかった。日本車はブランドで表記されることはなく、このホテルには存在していないも同然のように僕には見えた。

    アメリカ車やヨーロッパ車であっても、一般的ではない珍しいクルマは同じ扱いを受けるのだろう。それで用は足りるからだ。

    これには軽いショックを受けた。日本車はアメリカでたくさん売れていて、存在感は小さくないと当たり前のように考えていたからだ。

    そもそも、エクリプスが生まれてきた経緯自体がそれを物語っていたではないか。日本からたくさんのクルマが輸出されることによってその分のアメリカ車が売れなくなり、アメリカの自動車メーカーの雇用が減って、1980年代中盤には日米貿易摩擦という国同士の問題にまで発展していた。

    それを解消するために、三菱自動車はクライスラーと合弁でDSMを設立し、エクリプスや他の三菱車を生産した。トヨタや日産も同じように工場を設立したし、ホンダはもっと以前からアメリカに設立した工場で2輪と4輪を製造していた。

    貿易摩擦と問題視されるほど大量に販売され、それを解消するために工場を建てて製造を始めた時期だった。その経緯を、僕は連日の報道や書物などを通じて知っていたので、日本車ブランドは、アメリカ車やヨーロッパ車などと変わらずにアメリカで根付いているものだとばかり思っていたのである。でも、ビバリーヒルズホテルのバレーパーキングでは違っていたのだ。

    現代と違って、情報の伝わり方や価値観の変化なども、まだゆっくりしていたのだろう。ロスアンゼルスの街には日本車がたくさん走っているのだけれども、ロスアンゼルス的な格式を持ったビバリーヒルズホテルでは、まだまだだったのだ。

    アメリカ生まれの日本車での旅

    美しい夜景で知られるグリフィス天文台。

    翌日、撮影に出掛けた。エクリプスは、その頃の最新のハイテク機能をいくつも装備して抜群の高性能を誇っていた三菱ギャランとエンジンをはじめとするパーツ類を共用していた。2リッター4気筒ターボエンジンで4輪を駆動し、コンパクトなボディをキビキビ加速させた。

    ビバリーヒルズホテルから真北に上がっていくと、峡谷が連なっている。標高はそれほど高くはないが、尾根伝いの何本か曲がりくねった道路をエクリプスは右に左にと快調にコーナーをクリアしていく。

    ギャランよりも、よりダイレクトなハンドリングで運転を楽しめた。意外だったのは、テールゲートを開けると広く深いトランクスペースが広がっていたことだった。

    そして、ローレルキャニオン・ドライブを往復する姿を撮影した。マリブの海岸線でも撮り、町中でも撮った。夜を待って、グリフィス天文台でも撮影した。どこを走っても、エクリプスはロスアンゼルスにもうすっかりと融け込んでいるように見えた。 帰国後に、試乗記とDSMのマーケティング担当者のインタビューをその雑誌に寄稿した。

    ロスアンゼルスをクルマで走るのは初めてのことではなかったが、やはり、ひとつの町として特徴を掴みにくかった。ヨーロッパの町のように、中心となる教会と広場があって、その周囲に町が広がっていくという規則性がなく、海もあれば山もあり、その間の平地はだだっ広く、碁盤の目状に整えられていてクルマ移動には適しているが、ワンブロックが大きくて、歩いて楽しもうという気にはなれなかった。

    その点では、同じ西海岸の都市でもサンフランシスコは歩いて楽しめるし、東海岸のニューヨークやボストンなどは地下鉄やバスなども充実していて歩いて回れるので選択肢が多くて好きだった。だから、仕事以外でロスアンゼルスに足が向かうことはなかった。

    2004年、再びロスアンゼルスへ

    ウォルト・ディズニー・コンサートホールをバックにレクサスLSを撮影。

    再び、ロスアンゼルスに向かったのは2004年のことだった。レクサスがいよいよ2005年から日本でも展開されることになり、1989年にLSESを発売以来、アメリカでも着実に販売台数を伸ばしている実態を取材に訪れたのだ。

    LSでレクサスディーラーやユーザーを訪れてインタビューし、試乗記と併せて自動車雑誌に記事を書いた。日本での取材記事と併せて、後に「レクサスのジレンマ」という書籍にまとめられた。

    LSも、エクリプスの時と同じように、ロスアンゼルスのあちこちで撮影した。ビバリーヒルズホテルより西側のダウンタウンを走っていた時に、遠くからでもキラキラと光っている屏風のような建物が見えた。前の年に竣工して、その個性的な外観が話題になっていたフランク・ゲーリーが設計したウォルト・ディズニー・コンサートホールだった。

    カメラマンも僕も、その前にLSを停めて撮りたかったが、館内で何かイベントが行われているらしく、規制されていた。なんとか見つけたのが、隣の駐車場ビルだった。天井階までたくさんのクルマが駐まっていたが、スキを見つけて撮ったのを憶えている。

    この時は、ビバリーヒルズホテルではカメラマンとランチを食べた。サンセットブールバードからホテル敷地に入っていくところの看板の色やフォントなども15年前と変わらなかった。エントランスの前で行われているバレーパーキングの様子も同じだ。

    LSをスタッフに渡し、ランチを摂りに来たことを告げる。チップは2ドルか3ドルを渡した。引き換えに、車両預かりカードを渡された。カードの大きさは変わらない。

    はたして、15年を経て、カードにレクサスのブランド名は記載されているのだろうか?

    書いてあった。レクサスだけでなく、日産のプレミアムブランドであるインフィニティも、ホンダのそれであるアキュラも書いてあった。

    15年前にはゼロだった日本車の存在感は大幅に高まっていた。その代わりに、インペリアルやパッカードなどは消えていた。ホテルのゲストが乗ってくるクルマが入れ替わったのである。

    その2004年からでも、もう18年経っている。ヒョンデやキアなどの韓国車は2004年にもすでにロスアンゼルスの路上をたくさん走っていたから、2022年の預かりカードには記載されているのかもしれない。

    それよりも、2004年には存在していなかったが、急速にロスアンゼルスとアメリカ全土で存在感を増しているのはEV(電気自動車)だ。テスラはメジャーなブランドに成り上がったし、ルーシッドやリビアンなどのアメリカのスタートアップと併せ、ポールスターというボルボの派生ブランドなどの新興EVメーカーも控えている。

    時代は急速に変化していて、クルマも例外ではない。高級車の意味合いも変わっていくし、そのスピードも速いだろう。次にロスアンゼルスを訪れる時には、必ずビバリーヒルズホテルを訪れて、クルマを預けてみよう。その前にチップの相場を確認しておく必要があるけれども。

    写真/矢嶋 修、五條伴好

     

    金子浩久
    私が書きました!
    自動車ライター
    金子浩久
    日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員(BE-PAL選出)。1961年東京都生まれ。趣味は、シーカヤックとバックカントリースキー。1台のクルマを長く乗り続けている人を訪ねるインタビュールポ「10年10万kmストーリー」がライフワーク。webと雑誌連載のほか、『レクサスのジレンマ』『ユーラシア横断1万5000キロ』ほか著書多数。https://www.kaneko-hirohisa.com/

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