
御堂筋、心斎橋筋、堺筋。大阪の中心に位置する船場のビルの地下に、小さなブルーパブが生まれたのは2023年。オーナーは船場に生まれ、船場で40年以上パブを経営し、ベルギービールをこよなく愛する中井深さん。大都市で小さなブルワリーを始めたわけは、とてもローカルだった。
「世界のビール専門店」が「ベルギービール専門店」に
およそ440年前の1582年、豊臣秀吉が大坂城を築城。それに伴い城下町として西側の砂州を埋め立て、堀をつくって出来た地が船場だ。以降、水運の拠点として、大阪経済の中心として栄えていった。時代につれて変遷を遂げるが、南北を貫く13の筋、東西を横切る23の通りが、その歴史を今に伝えている。
そんな船場の町に、船場ビール工場の代表、中井深さんがパブを開いたのは1985年のこと。それから40年を超えて飲食業に携わり、町の移り変わり、人の移り変わりを見てきた。
中井さんが最初に開いたパブはビールやワインを置くスペインバル風の店。1985年といえば、ニッポンのバブル経済前夜である。
「円高になって海外のビールが安価で輸入できるようになりました。お客さんは近所の企業に勤めるビジネスマン、出張や旅行で海外に出かける人も多かった。どこの国のどこの町でこんなビールを飲んだ、こんなビールがおいしかったという話もよく聞きました。それが面白くて世界各国のビールをいろいろ集めるようになったのです」(中井さん、以下同)
パブにはおよそ40か国、100種類以上のビールが並んだ。ベルギービールはそのうちのひとつに過ぎなかった。「ちょっと変わったビールだな」くらいの認識だったそうだ。それがベルギービールのインポーター小西酒造(兵庫県)から熱心な説明を受けるうちに、「かなり変わったビール」に変わっていった。

ベルギービールとは-と、端的に説明できないのがベルギービールの持ち味。醸造所ごとに個性のある味、クセのあるネーミング、ラベルが目を惹く。醸造所ごとにグラスの形も異なる。
なぜこんなにいろいろあるのか? なぜこんなに変わったビールができるのか? 興味が溢れ出し、中井さんはベルギーの醸造所見学ツアーに参加するようになった。
「醸造所ひとつひとつに、それぞれ独特なバックボーンがありました。地理や宗教、民族などが織りなす歴史がビールに反映されているのです。だからこの味になったのか、だからこのラベルになったのかと納得し、圧倒されましたね。これを日本に紹介したいと思いました」
ベルギーは九州ほどの面積に人口1,100万人ほど。公用語は首都ブリュッセルより北はフラマン語(オランダ語に近い)、南はフランス語、東部の一部ではドイツ語に分かれる。これほど小さな国に3つの公用語があることが、この国の経てきた複雑な生い立ちを物語る。
「ベルギーという国は何度も強国の侵攻を受け、そのたびに異文化や他者が入ってきました。生きていくためにはそれを受け入れざるを得ない、そうした試練を繰り返し経てきた国です。一方で、ただ異文化を受け入れるだけでなく、自分たちで消化し、またそこから新しいものを作り上げていく。そうした寛容性と独自性を感じます。私、ビールだけでなくベルギー人も好きなんです」と話す中井さんは、ベルギーの話をするのも大好きだ。
中井さんは大阪に3つの店を経営していた。いずれも世界各国から集めた豊富なビールメニューがウリだったが、その世界のビールは、どんどんベルギーのビールに置き換わっていった。そのうちのひとつは「ドルフィンズ」というベルギー専門店になった。(2025年に惜しまれながら閉店。)
地元に好かれるビールはここでしか造れない
ウチでもクラフトビールを造りませんか? と提案してきたのは、ドルフィンズのスタッフだった。2018年、日本でクラフトビール人気が盛り上がり始めた頃だ。
ベルギービールをこよなく愛する中井さんは、自社でビール醸造するなど考えたことがなかった。「こんなにうまいビールがあるのだから造る理由がない」と。
しかし、店のお客さんとの対話で、「こういうビールがあったら面白いんじゃないか」という話題が持ち上がることはしばしばあった。
「それってうちでしか造れないビールなのかもしれないな、と思い始めたんです。船場で40年近く商売してきて、改めて足元を見たとき、この町で好かれるビールがあってもいいな、と」
船場に根を張った経営者だからこそできるビールがあるだろう。しかも、中井さんは生まれも育ちも船場。生粋の地元民である。
醸造設備は広いスペースを要するが、醸造所の場所も船場にこだわり、もともとベルギービールを専門にしていた堺筋本町の店をブルーパブ(パブ併設の醸造所)にすることに決めた。
全部で50坪ほどのブルーパブの計画書を作成し、見積もりを取り始めた頃、コロナ禍に見舞われた。中井さんは3つの既存店を死守することで手一杯、醸造所計画はいったん消滅する。
しかし、コロナ禍がひと息ついた頃。飲食店オンリーの怖さを身を以て知った中井さんは、もう1本、事業の柱を持つべきだと考えるようになった。その1本をビール醸造業に決めた。
「ビールは自社の3店舗で売り切るつもりでした。ヒューガルデン・ホワイトの隣に船場ビールが並んでいるイメージです」
「ヒューガルデン・ホワイト」とはベルギーのホワイトビール(小麦を原料にした白濁したビール)の代表的ブランド。日本でも抜群の知名度と人気がある。
ブルーパブの名は船場ビール工場と名づけた。船場でビール醸造することの意味を、中井さんはこう語る。
「400年以上の歴史をもつ船場の町は、時代とともに移り変わってきました。今は古くから住む人がいて、ビジネス街の会社員がいて、近年はタワマンが建ち、新しい住民が急増しています。旅行者も多く訪れます。でも、その人たちが交わる場所がない。新しい住民と古くからの住民、仲が悪いわけではないのに顔を合わせる場がない。ウチがそういう場になればいいなという思いがありました」
町の人々をつなぐハブのような存在に。そこにはもうひとつのイメージがあった。
「ベルギーの町も、そうだったんじゃないかと思うんです。歴史的にいろんな人や異文化がどんどん入ってきて、それを受け入れながら新しい町をつくっていった」
ベルギーと船場の町の姿が重なった。


規格外ワッフルを使ったクラフトビールを造って
船場ビール工場は自社ビールのほか、オーダーメイドビールも受注している。近隣の企業から創業記念などのアニバーサリービールを頼まれることもある。
オーダーメイドビールでは、発注者の要望に応えるためさまざまなレシピにトライする。中には想像以上においしいビールが生まれ、船場ビール工場の準レギュラーになるビールも。そのひとつ、山椒を使った「ダークスパイスエール山椒」はジャパン・グレートビア・アワーズのフリースタイル(ダークエール)で銀賞を獲得している。
昨年は大阪の洋菓子メーカーからワッフル販売40周年を記念したアニバーサリービールの依頼があった。そこでリクエストされたのは、規格外でハジかれたワッフルを材料に使ってほしいということ。
バターたっぷりのワッフルをビールに? 中井さんにとっても、もちろん初めてのトライ。ワッフルの生地は小麦だから麦芽と同じく糖化して使える……。しかし実際にやってみると、
「バターの油分が多すぎて無理でした。そこでワッフルをオーブンで焼いたり、熱湯で煮たり、ペーパーで油を濾したり。砕いたワッフルをドライホッピングのようにビールに漬けたり」と、相当な手間をかけてワッフル入りビールを造りあげた。
肝心な味をたずねると、「おいしく出来ました。ただ、ワッフルを使っていることは、言わないとわからない程度の香りに仕上げました」とのこと。どんな味なのか興味があるが、おそらく、もう二度と造られることはないだろう。
船場ビール工場には近隣の百貨店などを通して、生産者から規格外や廃棄予定の食材を提案されることもある。食品ロスを減らし、サステナビリティへの取り組みをアピールする。昨今、クラフトビールはそうした要望に応える受け皿としても注目されている。
「ヒューガルデン・ホワイト」より和食に合うホワイトビール
ところで、船場ビール工場の定番商品にホワイトビールがない。先述のように、日本では「ヒューガルデン・ホワイト」をはじめとするホワイトビールの人気が高い。不思議に思って理由をたずねると、中井さんはまさにその「ヒューガルデン・ホワイト」があるから「ウチで造る必要はない」と思っていたそうだ。
ところが大阪の飲食店、特に天ぷらや鉄板焼きなどの日本料理店から、こんなリクエストが届く。「食事に合わせるホワイトビールが欲しい」。
「ヒューガルデン・ホワイト」は華やか香り、特にバナナ香と甘みに特徴がある。それが人気の理由でもあるのだが、和食に合わせるとなると微妙なものになる。
中井さんは「日本らしいビールを考えていくと、やはり食中酒になると思います。そこで、和食の繊細な味に合わせられるホワイトビールをつくってみようと」
そうして昨年は1度だけホワイトビールを醸造した。そして今年5月、2回目がリリースされた。「船場ホワイト」の味わいはヒューガルデンとはまったく違う。飲み比べてみると楽しいだろう。

船場ビール工場のブルーパブでは、他の店ではなかなかお目にかかれないベルギービールにも出会える。遠い国とつながっているような地下のブルーパブで飲んだビールにはベルギーと船場の味がした。

●船場ビール工場 大阪府大阪市中央区本町1-7-1三星本町ビルB1
https://sembabeer.com




