※江戸時代後期の浮世絵にはウドとともに描かれ、ボラが早春の食材だったことがわかる。初代歌川広重による「魚つくし」シリーズのひとつで「ぼらにうど」(1833年)。国立国会図書館所蔵
世界に広く生息するボラと粋な江戸の若い衆の関係とは?
ボラ(Mugil cephalus)という魚をご存知だろうか。ボラはボラ科に属する、やや大型になる魚で、世界の温帯から熱帯に分布する。とくに河口や内湾の汽水域に多く生息して、幼魚のうちはしばしば大群をなして川を遡上する。ブリやスズキと同じように、成長に伴って呼び名が変わる出世魚として知られる。

関東では大きくなるにつれてオボコから、イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドに呼び名が変わり、関西ではハクに始まって、オボコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと変化する。トドは、これ以上は大きくならないことから、「とどのつまり」、すなわち「行き着くところ」、「結局のところ」という慣用句の語源となった。
また、イナは、江戸時代に若い衆の青々とした月代(さかやき)の剃り跡をイナの青灰色でざらざらした背中に見立てて「いなせ」ということばの語源になった、あるいは若い衆が粋さをみせるために跳ね上げた髷のかたちをイナの背鰭に例えて「いなせ」になったという説もある。オボコは、子どもたちの幼い様子を示すことばの語源となり、「おぼこい」という形容詞にもなっている。

このようにさまざまな表現の語源になっていることから、かつては多くのひとたちにとってとても身近な魚であったこと、また関東と関西で多少の違いがありながらも共通のことばで表現されることから、商品として流通していたことが示唆される。身近なメダカには5000個もの地方名が存在するが、それは商品として流通しなかったために共通語が必要でなかったからである。取り引きするには、互いに通じ合う統一名称が必須だ。
震災にも倒壊を免れた能登の袋網漁の櫓

かつては多くの河口や内湾で、ボラ漁がたいへん盛んであった。能登半島の穴水湾(石川県穴水町)では、春と秋の2回、ボラ待ち櫓(やぐら)を使った袋網漁が盛んであった。4月から梅雨のころには小ぶりだが大群でボラが回遊し、秋にはそれほど数が多くないが大きなボラがやってくる。魚の活動が盛んなナドキとよばれる時間帯になると見張りが櫓に上がって、ボラの群れがやってくるのをじっと待つ。ボラは敏感な魚で水面に影が映ると逃げてしまうので、静かに待たなければならない。
見張りが櫓の上からボラの群れが仕掛けておいた袋網に入ったのを確認して、海底に張った網の口を縛ってから網を引き上げて一網打尽にする。いまでも2012年に16年ぶりに櫓漁を復活させた松村政揮さん(昭和22年生まれ)たちの中居七浦七入会というグループがわずかに伝統漁法を伝えている。2024年正月に能登半島を襲った能登半島地震に、幸いにも3基のボラ待ち櫓は倒壊を免れたという。
夕陽百選に選ばれた香川県の海岸も、かつてはボラ漁で賑わった

瀬戸内海でも燧灘に突き出る荘内半島の仁尾(香川県三豊市)では、戦前まで地曳網で冬場の寒ボラを捕っていた。冬場になると、仁尾と大蔦島、小蔦島に囲まれたマエカタとよばれる地先の漁場にボラが集まり始め、寒くなるほどに群れが大きくなり、3月の彼岸ごろにはいなくなる。その間、ボラの群れを散らさないように、この漁場は禁漁となり、船舶の侵入も禁止したという。
密漁を防ぐために番船に自炊道具を持ち込んで、昼夜監視を行っていた。地曳網は全長約1,200m、網地は木綿で細かい網目だった。動きの早いボラが網目を抜けないように工夫したとのこと。ちょうどよい時期に地曳網を入れ、4時間ほどかけて引き上げた。潮が満ちるまで網を曳き続けられるだけの広さと勾配のある砂浜が必要であり、最も適していたのが小蔦島の砂浜だったようだ。
淡路島に残る絵馬はボラ地曳網の歴史の長さを物語る


淡路島の湊(兵庫県南あわじ市)もボラ網漁の盛んな場所であった。三原川河口の近くには、速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)を主祭神とする湊口神社という延喜式内社がある。この神社には、天保5(1834)年に奉納された地曳網漁を描いた絵馬が残っている。




いまでも県道25号・阿万福良湊線に沿って長大な海岸線が延びているが、かつてはこの浜でボラの地曳網漁が行われていたようだ。絵馬は退色がやや激しく、すべてが鮮明には見えるわけではないのだが、浜で網を曳くひとたちと見張り櫓のような構造物、そして船上で手網をかまえる漁師が読み取れる。ボラ漁の時期になると遠目が効くひとがボラの回遊を見張っていて、群れを見つけたらみんなに号令をかけて網を入れたと聞いた。
※特に表記のない写真は湯本貴和さんの撮影








