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    2026.01.14

    かつて日本中で獲られ、食されていたボラ。各地に残る漁法からボラを“食べる”歴史をひもとく

    かつて日本中で獲られ、食されていたボラ。各地に残る漁法からボラを“食べる”歴史をひもとく
    ボラは今では食卓に上ることが少ないが、熱帯から温帯に広く分布するところから世界各地で日常的に食べられてきた。魚には地方名があるものだが、ボラの呼び名は、たとえば関東と関西とでも多少の違いがあるもの、おおむね共通している。それは、この魚が広く商品として流通していたからではないか、と筆者は想像する。そんな魚と日本人の縁を追った。

    ※江戸時代後期の浮世絵にはウドとともに描かれ、ボラが早春の食材だったことがわかる。初代歌川広重による「魚つくし」シリーズのひとつで「ぼらにうど」(1833年)。国立国会図書館所蔵

    世界に広く生息するボラと粋な江戸の若い衆の関係とは?

    ボラ(Mugil cephalus)という魚をご存知だろうか。ボラはボラ科に属する、やや大型になる魚で、世界の温帯から熱帯に分布する。とくに河口や内湾の汽水域に多く生息して、幼魚のうちはしばしば大群をなして川を遡上する。ブリやスズキと同じように、成長に伴って呼び名が変わる出世魚として知られる。

    バングラディシュ・クルナの魚市場に並んだボラ。クルナは世界最大のマングローブ・シュンブルドンへの陸上からの入り口にあたり、ルプシャ川の河岸に位置する。

    関東では大きくなるにつれてオボコから、イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドに呼び名が変わり、関西ではハクに始まって、オボコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと変化する。トドは、これ以上は大きくならないことから、「とどのつまり」、すなわち「行き着くところ」、「結局のところ」という慣用句の語源となった。

    また、イナは、江戸時代に若い衆の青々とした月代(さかやき)の剃り跡をイナの青灰色でざらざらした背中に見立てて「いなせ」ということばの語源になった、あるいは若い衆が粋さをみせるために跳ね上げた髷のかたちをイナの背鰭に例えて「いなせ」になったという説もある。オボコは、子どもたちの幼い様子を示すことばの語源となり、「おぼこい」という形容詞にもなっている。

    2025年5月2日、東京・品川区の目黒川河口部にボラの幼魚(イナ)の群れが遡上してきた。写真/品川区

    このようにさまざまな表現の語源になっていることから、かつては多くのひとたちにとってとても身近な魚であったこと、また関東と関西で多少の違いがありながらも共通のことばで表現されることから、商品として流通していたことが示唆される。身近なメダカには5000個もの地方名が存在するが、それは商品として流通しなかったために共通語が必要でなかったからである。取り引きするには、互いに通じ合う統一名称が必須だ。

    震災にも倒壊を免れた能登の袋網漁の櫓

    穴水湾のボラ待ち櫓。江戸時代から伝わる漁法で、高さ7〜8mに丸太を組んで建てた櫓の上から、海底に張った袋網に入るボラの群れを見張る(石川県穴水町)。

    かつては多くの河口や内湾で、ボラ漁がたいへん盛んであった。能登半島の穴水湾(石川県穴水町)では、春と秋の2回、ボラ待ち櫓(やぐら)を使った袋網漁が盛んであった。4月から梅雨のころには小ぶりだが大群でボラが回遊し、秋にはそれほど数が多くないが大きなボラがやってくる。魚の活動が盛んなナドキとよばれる時間帯になると見張りが櫓に上がって、ボラの群れがやってくるのをじっと待つ。ボラは敏感な魚で水面に影が映ると逃げてしまうので、静かに待たなければならない。

    見張りが櫓の上からボラの群れが仕掛けておいた袋網に入ったのを確認して、海底に張った網の口を縛ってから網を引き上げて一網打尽にする。いまでも2012年に16年ぶりに櫓漁を復活させた松村政揮さん(昭和22年生まれ)たちの中居七浦七入会というグループがわずかに伝統漁法を伝えている。2024年正月に能登半島を襲った能登半島地震に、幸いにも3基のボラ待ち櫓は倒壊を免れたという。

    夕陽百選に選ばれた香川県の海岸も、かつてはボラ漁で賑わった

    仁尾の名所、父母ヶ浜(ちちぶがはま)。約1kmに渡り砂浜が続き、「日本の夕陽百選」にも選ばれた夕焼けの名所だ。写真/三豊市観光交流局 https://www.mitoyo-kanko.com

    瀬戸内海でも燧灘に突き出る荘内半島の仁尾(香川県三豊市)では、戦前まで地曳網で冬場の寒ボラを捕っていた。冬場になると、仁尾と大蔦島、小蔦島に囲まれたマエカタとよばれる地先の漁場にボラが集まり始め、寒くなるほどに群れが大きくなり、3月の彼岸ごろにはいなくなる。その間、ボラの群れを散らさないように、この漁場は禁漁となり、船舶の侵入も禁止したという。

    密漁を防ぐために番船に自炊道具を持ち込んで、昼夜監視を行っていた。地曳網は全長約1,200m、網地は木綿で細かい網目だった。動きの早いボラが網目を抜けないように工夫したとのこと。ちょうどよい時期に地曳網を入れ、4時間ほどかけて引き上げた。潮が満ちるまで網を曳き続けられるだけの広さと勾配のある砂浜が必要であり、最も適していたのが小蔦島の砂浜だったようだ。

    淡路島に残る絵馬はボラ地曳網の歴史の長さを物語る

    明治10(1877)年に出版された『大日本物産図会』に収められた淡路島の漁業。図はタイ漁。「天下の台所」大坂に近く、江戸時代には淡路島の漁業は大発展した。錦絵は3代目歌川広重による。兵庫県立歴史博物館蔵 https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp
    淡路島・湊の湊口神社(兵庫県南あわじ市)。https://minatoguchijinja.or.jp

    淡路島の湊(兵庫県南あわじ市)もボラ網漁の盛んな場所であった。三原川河口の近くには、速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)を主祭神とする湊口神社という延喜式内社がある。この神社には、天保5(1834)年に奉納された地曳網漁を描いた絵馬が残っている。

    湊口神社に奉納された絵馬。ボラ漁の様子が描かれている(兵庫県南あわじ市)。
    絵馬に描かれた地曳網。中央に見張り用の櫓がみえる(兵庫県南あわじ市)。
    船上で手網をかまえる漁師の図(兵庫県南あわじ市)。
    昭和30年代の淡路島での地曳網漁。写真/南あわじ市

    いまでも県道25号・阿万福良湊線に沿って長大な海岸線が延びているが、かつてはこの浜でボラの地曳網漁が行われていたようだ。絵馬は退色がやや激しく、すべてが鮮明には見えるわけではないのだが、浜で網を曳くひとたちと見張り櫓のような構造物、そして船上で手網をかまえる漁師が読み取れる。ボラ漁の時期になると遠目が効くひとがボラの回遊を見張っていて、群れを見つけたらみんなに号令をかけて網を入れたと聞いた。

    ※特に表記のない写真は湯本貴和さんの撮影

    湯本貴和さん

    1959年徳島県生まれ。日本モンキーセンター所長。京都大学名誉教授。理学博士。植物生態学を基礎に植物と動物の関係性を綿密に調査。アフリカ、東南アジア、南米の熱帯雨林を中心に探検調査は数知れず。総合地球環境学研究所教授、京都大学霊長類研究所教授・所長を務める。京大退官後も旅を続け、調査を続け、食への飽くなき追求を続けている。著書に『熱帯雨林』(岩波新書)、編著に『食卓から地球環境がみえる〜食と農の持続可能性』(昭和堂)などがある。日本初の“食と環境”を考える教育機関「日本フードスタディーズカレッジ 」の学長も務める。

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