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日本史アウトドアズマン列伝③ 組立て式タイニーハウスの先駆者――鴨長明の「方丈庵」隠遁生活

2018.11.13

鴨長明画像/栗原信充筆、国立国会図書館蔵

 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

誰もが記憶にあるであろう、『方丈記』の有名な冒頭部分だ。作者は鴨長明(かものちょうめい/1155~1216)。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人である。

 鴨長明は京都の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ。通称、下鴨神社)の禰宜(ねぎ。神官のトップ)の次男として生まれた。京都を代表する神社のお坊ちゃまとして育ち、いずれは父親の跡を継ぐつもりだったが、18歳のときに父が亡くなってから運命が変わった。親戚と反りが合わず、神社の勤めも怠るようになり、引きこもりのような生活を40代後半まで送る。

 鴨長明の絶頂期は47歳のときだ。時の上皇である後鳥羽院に見出されて、御所内に設けられた「和歌所」の職員に任命されたのだ。当時の一流の歌人だけが選ばれるポストであり、長明は昼も夜もなく仕事に励んだが、その栄光の日々も長くは続かなかった。後鳥羽院のはからいで下鴨河合社(しもがもかわいしゃ。現在の河合神社)の禰宜に推されたが、一族の反対で就任できず、長明は失意のうちに出家して遁世する。

 54歳となった長明が隠棲の地に選んだのは、京都南郊の日野(京都市伏見区)の山中。そこに方一丈(一辺約3.3m四方)の草庵を建てて住んだ。言うまでもなく、『方丈記』の名はこの草庵に由来する。

江戸時代の版本『方丈記之抄』の挿絵に描かれた方丈庵/国立国会図書館蔵

『方丈記』に記す、その草庵の造りを意訳してみよう。

「土台を組んで、簡単な屋根を葺き、板の継ぎ目を掛け金で止めて組み上げた。もし住みづらい場所と思ったら、すぐほかの場所へ移ることができる。解体しても荷車2台で運べるから、引越し代はほとんどかからない」

 欧米でブームの「タイニーハウス」(小さな家)や、日本で話題となっている、移動可能な「モバイルハウス」の元祖といえる住まいを、鴨長明は約800年前に実践していたことになる。

ただ小さいだけではない。長明の「方丈庵」は東側に小さな庇を設けて雨除けにし、その下で炊事ができるようにした。また南側には竹のすのこで縁側をしつらえるなど、風雅な心は忘れていない。内部は中央に囲炉裏を切り、西側は衝立で空間を仕切って、一方は仏間に、一方は居間として用いた。寝床は東側に蕨(わらび)の穂を敷いてベッドにしていた。

居間の空間には、「折琴(おりこと)」と「継琵琶(つぎびわ)」と呼ばれる折りたたみ式の琴と琵琶を立てかけていた。この折りたたみ式楽器も持ち運びが便利なように長明が考案したものといわれる。現在、キャンプや旅行に折たたみ式のギターを携帯する人がいるが、アウトドア派のミュージシャンとしても長明は先駆者だったといえる。

長明が解体可能な家に住んだのは、気まぐれに転居したいからだけではなかった。当時の京都は地震や火事などの災害が立て続けに起こっており、大きな家屋の下敷きになって死んだり、隣の家から延焼して家を失ったりする人も多かった。長明にとって「方丈庵」は、大きな家を所有するという世俗的な欲を断ち切るとともに、家を失うリスクを回避するためのものでもあった。

 長明は草庵に籠もりっきりというわけではなく、山々を越えて石山寺(滋賀県大津市)などに参拝に行くこともあった。「体をつねに動かし、つねに歩くのは健康にいいことだ」と長明は述べる。また、山の麓に住む10歳ほどの子供がときどき訪ねてくるので、長明はふたりで散歩に出かけ、岩梨を採ったり芹をつんだりして遊んだ。妻子もなく、若い頃から人と距離をおいて暮らしてきた長明にとっては、50歳ちがいのはじめての親友だったかもしれない。

「都に托鉢(たくはつ)に行くと、乞食みたいになった自分を恥ずかしいと思うことがある。でも、この小さな自分の家に帰ってくると、俗世の人たちが名利のためにあくせくしているのが気の毒に思えてくるのだ」

大きな家を持ち、出世をしたとしても、自分のような幸福感は得られまいと、『方丈記』はしつこいくらいに繰り返す。見かたによっては『方丈記』は、世をすねた男の、負け犬の遠吠えかもしれない。それでも、自然の中で自分だけの小さな天国を築く幸せは、現代のわれわれにも強く訴えかける魅力をもっている。

構成/内田和浩

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