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1970~’80年代 ナバタ的 アウトドア・ギア革命史
アウトドアの扉を開いたビーパル創刊の思い出
アウトドア雑誌ビーパルが創刊45周年だという。とてつもなく長く思えるが、考えてみると創刊から4年ほど経過したころからスタッフとなり、いまもこうして原稿を書いているのだから、思えばアッという間の45年だった。
創刊の1981年、僕は大学3年生。1年の途中から学校の部活で登山やキャンプを楽しんでいたから、新しい月刊アウトドア雑誌に飛びついた。その創刊号を見て感じたのは「本格一歩手前のライトな内容」というもの。ただ、折りたたみのキャンプ・ギアを使った暮らしを提案した13ページの「へやの中だってやれるぞ1DKアウトドア」という企画はとても魅力的だった。また、70ページの「〈秘密の場所〉絶対にひとには教えられない場所」というコラムでは、「自然の奥深いところのどこかに、(中略)あなたが来ることを待っている場所が、たしかにあるのだ。(中略)そんなポイントをみつけるためのガイド・ブックを、みんなでつくっていこうではないか」という宣言に心を掴まれた。でも、肌にシャツが張り付いた女性の表紙には、かすかな違和感を覚えたことは確かだ。
そもそも僕がキャンプやサイクリングなど、いわゆるアウトドア・スポーツに興味を持ったのは小学6年のころ。なぜか無性にキャンプに行きたかったが、小学生だけでは無理となり、実現は中学1年の夏。登山が趣味という友人のお父さんの指導で近所の公園でテントの建て方やホエーブス・ストーブの使い方を教えてもらったのがキャンプ・ギアに興味を抱くきっかけとなった。そこからキャンプ体験を重ねた僕は、高校生になってニチレイスポーツの「フットルース」という読み物カタログを手に入れる。そこには欧米から輸入された数々のギアが紹介されていたが、なにより欲しくなったのが「オリジナル・シェラクラブ・カップ」。当時、これを手に入れることがアウトドアズマンの第一歩のように感じていた。
このころ、山と溪谷社が『アウトドア・スポーツ』を創刊(1976年)。同年、芦澤一洋さんが『バックパッキング入門』を書き、1978年には芦澤さんが翻訳したコリン・フレッチャーの『遊歩大全』日本版も刊行された。これらの本で紹介されるアメリカのフレームパックに憧れたが、日本のフィールドには不向きということでヨーロッパ的な縦走用ザックを使うのが一般的だった。僕が入手したのもカリマーの「JBジャガー」という渋いブラウンのザックだった。
ところがファッションは『遊歩大全』のコリン・フレッチャーの影響で米軍放出の短パンで奥穂高岳に登ったところ、天候急変で雹が降り、リュックの温度計が零度に! 大慌てでロングパンツを重ね着して急場を凌いだこともあった。
そんな僕にとってギア満載のビーパルは格好の読み物だった。ところが創刊6号の112ページのコラムを見て、いったん読者を卒業することにした。それは「古くなった寝袋に穴を開けてゴジラを作る」という内容。読者からの投稿だが、「いくらなんでも無意味すぎる!」と少し怒り、以後、ビーパルの購入を見合わせた。
それが再び関わることになったのはスタッフとして。他のアウトドア誌で仕事を始めた僕を、そこで知り合ったカメラマンがビーパル編集部に紹介してくれたのがきっかけだった。まず新製品紹介の「ガレージ」のスタッフとしてモノ探しに奔走。やがて「マニュアル・コミック」の資料集めを経て特集や別冊も担当。ロケともなれば最新ギアを集めまくって撮影に繰り出せたのはギア・マニアの僕にとって無常の喜びだった。
ビーパルの紹介でひろまった数々のギア
この時代、ビーパルが紹介して普及したものはたくさんある。たとえばテーブルやチェアを使うオートキャンプのスタイル。いまや普通だが、以前は地べたにしゃがんで調理し、そこらの石に腰掛けて食べていたのだ。テントだって重たい家型テントが主流だったが、軽く建てやすく風にも強いドームテントはビーパル以降、一気に普及した。タープだってビーパルが流行らせたようなもの。当時はまだ「フライシート」と呼ばれ、家型テントの上に張る雨除けだったが、独立させて日除けにするなんて洒落たスタイルはビーパル以前にはなかった。さらにマウンテンバイクやエクササイズウォーキングなど、僕もさんざん記事を作ったけど、どれもビーパルによって広く世間に知られるようになった。
だが一方で急激なアウトドアブームには弊害もあった。それまで家族でキャンプに行こうと考えるのは学生時代の登山などである程度の経験を積んだ人。ところがブームになったことで素養のない人までホームセンターで安いギアを買って家族でキャンプに行き、雨に降られてビショビショになったり、生煮えご飯を食べさせられたりして、「もうお父さんとはキャンプ行かない!」なんて総スカンを喰ったりすることが増えたようだ。
そんなある日、僕だけが編集部にいたとき、読者から電話がかかってきた。彼は前号に掲載されたカヌーの記事を読んで一艘手に入れ、釣りやカメラ、ビデオ機材まで満載して漕ぎ出したが見事に転覆。すべてを失ったという。「カヌーがあんなに危険なものということは記事になかった。どう責任を取るんですか?」という。僕は言葉を失ったが、これまで懸命に作ってきた記事の真意が伝わっていないことの虚しさを覚えた。
その後もそんな状況が続き、’90年代の半ばに僕はビーパルと少し距離を置くのだが、まったく関係を絶ったわけではなく、その後もファッション・ページを担当したり、アドバイザーとして誌面に登場したり、「ナバタ式アウトドア秘宝館」というアウトドア・ヴィンテージの連載を担当したこともあった。
そんなモノとギアにどっぷりとハマりながら共に歩んできたビーパルとアウトドアの世界だが、いまでも僕はモノの魅力に取り憑かれたままだ。
だから時々、「モノの時代は終わった。これからはヒトの時代だ」なんてことをいう人がいるが、僕はまったくそう思わない。モノを作り、売り買いし、それを使って何かを生み出す動物はヒトだけだ。だからモノの世界を突き詰めていくと必ずヒトに行き着く。ヒトがモノを作り、そこから文化が生まれる。そのヒトとモノとが織りなすさまざまなストーリー。それが僕には面白い。
これからも僕は、そんなヒトとモノの奥深き世界を求めて探索を続けていくに違いない。なんていったら、ちょっとカッコ付けすぎかな?

創刊号13ページに掲載された「へやの中だってやれるぞ1DKアウトドア」。撮影場所は「スポーツトレイン」の事務所。アイテムはすべて油井昌由樹さんの私物だって!

結局、僕がシェラカップを入手したのは1980年代。大学生のころだったと思うが、これにバンダナでコーヒーを淹れるのにハマり、キャンプじゃそればっかり飲んでたな。

愛読のアウトドアの名著。芦澤一洋さんの『バックパッキング入門』(1976年)。小林泰彦さんの『ほんもの探し旅』(1983年)と『ヘビーデューティーの本』(1977年)、芦澤さんが翻訳を手がけたコリン・フレッチャーの『遊歩大全』(日本版は1978年)など。

マウンテンパーカの普及も1970~’80年代。最初に入手したのはザ・ノース・フェイスのいわゆる「65/35」だった。いまも現役だ。

1970年代に登場したパタゴニアのパイルウェアは軽く温かいが毛玉ができやすく不評だった。それを克服したのが1985年発売の「シンチラ」。いまのフリースの元祖だ。

イエローが衝撃的なダウンベストはザ・ノース・フェイス。これを着てたら「なんで救命胴衣を着てるんだ?」っていわれたよ、といってたのは油井さんだったかな?

木製の背負子から発展したアルミ・フレームのパックはジャンスポーツ(写真)とケルティが双璧。確かに背負いやすいが起伏が激しく岩場の多い日本にはイマイチ、マッチしなかった。

友人に頼まれ神保町の「さかいやスポーツ」に同店オリジナルの「先縦者」を買いに行ったが、僕は脇にあったカリマー「JBジャガー」の渋いブラウンに惹かれて入手した。

BE-PALで見て入手したイタリアのチロリアン・シューズ、ドロミテの「コルチナ」。当時約3万円でバイト代をつぎ込んだ。

BE-PALで知名度が高まった筆頭がコールマンのギアだろう。

表紙や誌面に何度も登場したコールマン「200A」。「赤ランタン」と呼ばれ、廃番後に人気が沸騰した。

L.L.ビーンのトートバッグもBE-PALとの相乗効果で大ブームに。

キャンパーの憧れだった英国マクラーレンの「ガダバウト・チェア」。

シエラデザインズのテント。軽くて自立するドームテントは、家型テントが常識だったキャンプの世界に革命をもたらした。
※このページで紹介したアイテムはすべて名畑政治さんの個人コレクションです。
※構成/名畑政治 撮影/三浦孝明、名畑政治(マウンテンパーカ)
(BE-PAL 2026年7月号より)




