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【ホーボージュンのサスライギアエッセイ・旅する道具学】第16回「183センチの宇宙船」
マット「NEMO / Tensor Extreme Conditions RW」

雪は音を吸い込む。厳冬の北アルプス・立山室堂平。3,000m峰に取り囲まれたこの盆地は耳なりがするほどの静寂と巨大な冷凍庫の底のような寒気で僕を迎えてくれた。
毎年11月の末になると、僕はスノーボードを抱えてここに登ってくる。標高約2,500mの室堂平には11月中旬から本格的に雪が積もり始め、国内最速でバックカントリー・スノーボードが楽しめるのだ。
ただし、周辺の山小屋は11月の第3週で閉鎖されてしまうので、それ以降は雪中泊で夜を過ごすしかない。だから毎回キャンプ道具や食料など100Lを超える荷物を担いでくる。
「さあて、やるか」
僕はスノーソーとショベルを駆使して雪壁を作り、その内側にテントを設営した。スノーアンカーをいくつも埋め込み、厳重に固定する。設営が終わるころには日も陰り、気温は-10℃まで下がっていた。
さぶいさぶいと呻きながら僕はテントに潜り込み、付属のポンプサックを使ってエアマットを膨らませた。
こうしてマットを膨らませるのは雪中泊の儀式みたいなものだ。雪上というのは、大袈裟でなく“地球が体温を奪いにくる場所”だ。だからそれを遮断するマットの役割はとても大きい。
かつて僕は銀マットを何枚も重ねたり、オートキャンプに使うような分厚いマットを持ち込んだりしてきたが、最近はエアマットの保温性能が劇的に向上し、マット1枚でも安心して眠れるようになった。そんななかで僕が愛用しているのがニーモの「テンサー・エクストリーム・コンディションズ」というモデルだ。昨年登場したばかりの新作だが、僕はコイツに「黒テンサー」というあだ名をつけて冬はもっぱら愛用している。
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この黒テンサー、とにかく断熱性が桁違いだ。R値は8.5と世界最高レベルを誇る。
R値というのはマットの「熱の通りにくさ(熱抵抗)」を示す指標で、この数値が大きいほど断熱性が高い。以前はメーカーごとに測定方法や数値がバラバラだったのだが、2020年以降は「ASTM F3340」という国際規格で統一され、比較検討しやすくなった。これが7を超えるモデルならば真冬のキャンプだけでなく、高山の雪中泊にも対応できると思っていい。
マットのR値は分厚くてデッドエアスペース(対流しない空気の層)が大きいほど上がるが、登山に携行できるサイズには限界がある。そこでメーカー各社は厚みを抑えつつ断熱性を上げるために、中にダウンを封入したり、内部構造に工夫を凝らしている。黒テンサーの場合は内部に「サーマルミラー」というピカピカ光る断熱フィルムを4枚も配置し、体が発した熱を反射させつつ地面からの冷気を遮断している。
しかも、このサーマルミラーはマット本体には溶着されておらず、フローティング状態で内部空間に保持されている。だから寝返りを打ってもカサカサとした不快な音が発生せず、とても快適に眠れるのだ。
そして僕が惚れ込んでいるのが空気を入れる「ボルテックス・ポンプサック」の素晴らしさだ。これはサックに軽く空気を吹き込んで綴じ、手で丸めながらマットに空気を入れるツールなのだが、操作が楽でわずか3回ほどの操作でマットをパンパンに膨らませられる。
空気の薄い高所ではマットに息を吹き込んで膨らます作業は拷問でしかない。しかしこのサックのおかげでまったく苦でない。僕は仕事柄あらゆるメーカーのあらゆるポンプサックを使ってきたが、ニーモの使いやすさは断トツだと感じている。
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こうして膨らませた黒テンサーをテントの床に敷き、手のひらで軽く押す。ふわりと返ってくる反発に極寒の夜を乗り切る自信が湧いてくる。
コイツを背に雪中泊をするとき、僕はいつも小さな宇宙船に乗っているような感覚に陥る。まわりは冷たく暗い氷点下の世界。それはまるで人間の生存を許さない宇宙空間のようだ。雪原は僕を芯まで冷やし、冷気は体温を容赦なく奪っていく。しかしその厳しい宇宙に縦183cm、横64cmの“生きられる空間”が生まれ、僕を励ましてくれる。その安心感が、僕は好きだ。
僕はテントの入り口を少しだけ開け外を眺めた。雄山から大汝山、そして富士ノ折立に連なる山影は凍った巨人の背骨のように伏臥したまま沈黙している。その姿は雑味が取れた蒸留酒みたいに透明だ。空気中の水分がひと粒残らず凍りつき、サラサラと流れて消えてしまう。
雪の上で過ごす夜は「孤独」というより「透明」に近い。複雑なものがほどけ切り、残るのはただ「ここにいる」という事実と自分自身の体温だけ。世界のいちばん深いところ、あるいは漆黒の宇宙空間に浮かんでいるような感覚にいつもなる。
ふうっと息を吐いてみる。白い呼気が夜空に上がり、冬の大三角に抱かれて消えた。
遠くで小さなきしみ音がした。雪庇が鳴る音だろうか、それとも夜更かしの雷鳥の鳴き声だろうか。それを最後に聞いたあと、僕はテントのジッパーを閉じた。
眼の奥にシリウスの青白い光が残像となって残っている。
今夜はまだまだ冷えそうだ。
こうして僕の冬が始まった。






ホーボージュン
大海原から6000m峰まで世界中の大自然を旅する全天候型アウトドアライター。X(旧Twitter)アカウントは@hobojun。
※撮影/中村文隆
(BE-PAL 2026年1月号より)








