
【前回までのお話】マウンテンバイクを通じて山は誰のものか? を考察。バイカーと登山者が共存できるよう……。
三浦豪太の朝メシ前 第9回 皆川先生とアドベンチャークラブ

プロスキーヤー、冒険家 三浦豪太 (みうらごうた)
1969年神奈川県鎌倉市生まれ。祖父に三浦敬三、父に三浦雄一郎を持つ。父とともに最年少(11歳)でキリマンジャロを登頂。さまざまな海外遠征に同行し現在も続く。モーグルスキー選手として活躍し長野五輪13位、ワールドカップ5位入賞など日本モーグル界を牽引。医学博士の顔も持つ。
命を脅かすほどの危うさが、自然の神秘と力強さを際立たせている
雪が溶けて緑が芽吹き始めると盤渓の森は騒ぎ始める。巨大なキツツキ、アカゲラの「コココーン」という木をつつく音がこだまし、刻一刻と木々は緑色が濃くなり、鹿や熊の足跡もそこかしこに見受けられるようになる。自然好きな少年時代の僕にとって、それはワンダーランドの幕開けでもある。近くの小川にはエゾサンショウウオ、八つ目鰻、ニホンザリガニなどがいて、森に入るとミヤマクワガタやセミを捕まえていた。
小学5年生のある夏の日、スキー場の材木置き場に大きなスズメバチの巣を発見した。この付近を根城に遊んでいた僕にとって大いに邪魔な存在だった。退治するべく、僕は夏の暑い時季にもかかわらずスキーウエアをまとい、帽子、ゴーグル、グローブをはめ、スキーストックを手に、完全防備で駆除に挑んだ。ついでに友人たちも物見遊山的にわらわらとついてきた。
僕のプランはストックで巣をはたき落とし、それをストックに刺して遠くに放り投げるという極めて安直なものだった。しかしストックで叩いた瞬間、それこそ蜂の巣を突いたように(そのまま比喩してみました)、わらわらとスズメバチが出てきた。
遠方から僕の様子を見ていた友たちは「ワーッ」と叫びながらスキー場を駆け降りて行った。僕もスズメバチのあまりの多さに怯み、逃げたものの、スキーウエアで着膨れしていたため、緩慢とした動きしかできず。その間、蜂の羽音は幾重もの「ブォー」という不吉な多重なアンサンブルを奏で、僕はすっかりスズメバチの暗雲に取り囲まれた。
するとそのうち一匹が僕の帽子の中に入り込み「ブスッ」と、あろうことか僕の耳の中を刺した。僕は痛さと恐怖に泣きじゃくりながら学校まで逃げ込んだ。顔の右半分はおたふくのように腫れ、痛みがひくのに1週間かかった。
こうした、僕の無軌道な冒険を心配したのか、学校は「冒険クラブ」というものを設立してくれた。クラブを提案してくれたのは担任であった皆川國男先生といい、あらゆる自然の虫、木々、草花に精通している先生だ。
当時、盤渓小学校では毎週金曜日に盤渓スキー場を走って上がるというイベントがあった。何度かこのイベント最中にマムシを見つけたことがあるのだが、そのたびに「みーなーがーわーせんせいーー!」と大声で叫ぶ。すると先生は疾風のごとく現われ、足首まである革靴でマムシの頭を踏んで首根っこを捕らえる。
このマムシは学校に持ち帰り度数の強い焼酎に入れてマムシ酒となる。なんでも虫刺されから打ち身まで効くというのだが、おそらくメインは飲むほうだろう。現在ならコンプライアンスとかなんとかいわれそうだが、ともかく逞しい先生なのである。
ある日、皆川先生から「ごんちゃんが見つけたあのマムシ、水瓶から出して焼酎に漬けるから来てみるかい?」と職員室に招待された。そのマムシは水をたっぷり入れた容器に1週間密閉されていて、吐き出された未消化のネズミやフンで水が濁っていた。
そして当の本人(マムシ)は完全に白目を剥いて微動だにしない。完全に息絶えていると誰もが思ったのだが、蓋を開けた瞬間、「ピョンッ」と飛び出した。そして職員室の床に落ち、スルスルと机の下に逃げ込んだ。ほかの先生方は大騒ぎだったが、皆川先生だけは淡々と椅子を退けたり、机を寄せたりと追い詰めて、ひょいとマムシを手掴みして何事もなかったように焼酎の中に漬け込んだ。
恩師との山菜採りが教えてくれること
時を現在に戻そう。ある日、家族と一緒に手稲山にある乙女の滝で滝スライダーを楽しんだ帰り、ガサゴソと森の中から虫籠と巨大な虫網を持った男が現われた。いい大人が虫捕りをしている姿に心通じるものを感じて話しかけると、彼は手稲アウトドアクラブの講師でこの辺りで虫取りをしていると言う。そしてなんと、その手稲アウトドアクラブの会長は、恩師皆川先生だというではありませんか。
皆川先生は齢80にもなるというのに、熊対策用の斧を懐に携え毎日山に入っているそうだ。その男性と連絡先を交換し、皆川先生のご実家を訪問した。恩師との40年ぶりの感動の再会もさることながら、その書棚には所狭しと自作の『自然観察日誌』が並んでいた。野草の四季折々の姿を観察したもの、動植物に関する考察、中には先生自身がマダニに刺され、それをつぶさに1週間観察するといったものもあった(これには観覧注意と書いておくべきだと思った)。
その自然への慧眼がいまだ衰えぬことを見込んで、以前から温めていた企画を依頼した。それは雪解けの手稲山で山菜を採り、それをスキースクールの小屋で天ぷらにして蕎麦にする──冒険、学び、そして食というロマン三拍子が揃った企画である。
参加者は普段僕たちのスキースクールに来てくれる子供とそのご父兄たち。みな親睦を深めることができ、この企画は大成功をおさめた。
本来、山菜採りというのはタラノメ、ウド、フキ、フキノトウなど山菜のメジャーどころを探すであろう。だが皆川先生は違う。山に生えているものほとんどは食用可としているのだ。反対に絶対に食べられないものをしっかりと教えてくれる。
こうした身近な自然の中にもウルシやイラクサのように触ったらかぶれて痒くなるものから、トリカブトやレイジンソウのように食べたら死に至る猛毒なものもたくさんある。しかし、皆川先生は「こんな身近に、人を殺せるような猛毒を持つものがあることが素敵だ、それこそが自然だよ」という。
そうなのだ。人をも殺す毒を秘めた存在こそ、自然の畏れと美を体現する。命を脅かすほどの危うさが、自然の神秘と力強さを際立たせているのだ。今でも正面からそこに向き合う皆川先生にあらめて感服した。
ガチなる山菜採取で猛毒を秘めた存在を知る

小学校の恩師であり、手稲山周辺で自然観察活動をするクラブの会長を務める皆川先生(右)と一緒に採取した山菜を仕分ける。

皆川先生の解説に耳を傾けるスキースクールの子供たち、親御さん方。スキーで滑っていた斜面での山菜採りはスクールの風物詩に。
(BE-PAL 2025年7月号より)