
【前回までのお話】
1970年に開催された大阪万博と、豪太さんの父、雄一郎さんによるエベレスト滑走の密なる間柄は……。
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三浦豪太の朝メシ前 第12回 大阪万博 後編 目標が人を動かす

プロスキーヤー、冒険家 三浦豪太 (みうらごうた)
1969年神奈川県鎌倉市生まれ。祖父に三浦敬三、父に三浦雄一郎を持つ。父とともに最年少(11歳)でキリマンジャロを登頂。さまざまな海外遠征に同行し現在も続く。モーグルスキー選手として活躍し長野五輪13位、ワールドカップ5位入賞など日本モーグル界を牽引。医学博士の顔も持つ。
目標=夢こそが父のエネルギーの源
前回のコラムでは、1970年の三浦雄一郎によるエベレスト滑走とその年に開催された大阪万博がいかにつながっていたのかという話をした。当時の万博会場のネパール展示では父がエベレストを滑った際に遠征隊が撮った勇姿が巨大なパネルとなって掲げられ、パビリオンの中では父がローツェフェースを滑り降りるシーン映像となって映し出されていた。
エベレスト以降も父のチャレンジは続き、’77年に南極、’78年に北極を滑り、’81年アフリカ最高峰のキリマンジャロ、’83年南極大陸最高峰のヴィンソンマシフ、’85年ヨーロッパ最高峰のエルブルスと南米最高峰のアコンカグアを登り滑った。そしてエベレスト以前に滑り降りた北米最高峰マッキンリー、オーストラリア大陸最高峰のコジオスコを合わせて、世界7大陸の最高峰すべてからスキーで滑ったことになった。
その後、一度は冒険から身を引いたものの、65歳になってからふたたび心に火がつく。70歳になったらまたエベレストに登ろうと思い立ち、その後70歳、75歳、80歳と3度のエベレスト登頂を果たした。80歳のエベレストはいうまでもなく世界最高齢のエベレスト登頂である。
僕自身もエベレストに同行し、そこで父の面白い癖を見出した。それは70歳のエベレストのときのこと。登頂アタックのためベースキャンプを出発したのはいいが強い貿易風が降りてきて標高6400m(キャンプ2という場所だ)で身動きが取れなくなった。風速30mの風はなかなか止まず、テントで5日間も過ごすことになった。
最後の夜、父はムクッと起きた。何事かと思い尋ねると、
「豪太、いい考えがある。5年経ったらまたエベレストを登りにこよう」というのだ。僕はさすがの三浦雄一郎もこれだけビバークの時間が長くて辛くなったのだなと思い、「じゃあ、今回のエベレストは諦めて、また5年後に登ろうということ?」と訊くと、
「いやいやそうじゃない、今回はもちろん登る。だがこんなに楽しいことはない、また5年経ったら登りにこよう」というのだ。僕は呆れてしまった。まだ今回のエベレストも登っていないのに5年後の話をされても疲れるだけだと思った。
さらにその5年後、75歳のエベレストの話であるが、この時も同じくキャンプ2で、「豪太、いい考えがある、80歳になったらまた登りにこよう」と話してきた。
登頂を目前にひかえた際に、次の登山計画を話す父の癖(もはや癖である)にふと思った。これは父の生存戦略なのかもしれないと。
8000mを超えるような山での死亡事故はほとんどの場合、下山中に起こる。下山のほうが登りよりも技術的に難しく、なにより精神的な作用も大きいのではないかと思う。8000m以上の標高はデスゾーンだ。酸素の薄さから体力はどんどん奪われる。が、登るときは山頂を目指すという目的があるため、集中力は持続する。しかし、どんな登山家も山頂に着くと、その後の集中力を維持するのが難しく、事故につながりやすくなるのではないかと思う。
しかし、三浦雄一郎の場合は、その山に登りながら次の山のことを目標に持っている。ゆえに、下山中も心は次の山に向かっているため、それが精神的な支えとなり、高齢になっても生き残る稀有な冒険家となったのではないかと思う。
こうして次々と目標を掲げ、実行していった父だが88歳の時、頸椎硬膜外血腫という病気を患う。ちょうど、次の目標はエベレストであるという目標を立てた矢先でもあった。
頸椎硬膜外血腫というのは頸椎に血液が溜まり頸椎の神経を圧迫、首から下に麻痺を残し歩くことがまともにできない身体的状態で、父は要介護度4となった。これにより当然エベレストという目標に対しても考え直さなければいけなかった。そこで次の目標に定めたのが、2021年の東京オリンピック、その聖火ランナーである。じつは病気を発症した20年に聖火ランナーとして富士山を走る役割を担っていたが、コロナ禍で一年先延ばしになり、時間的な余裕ができたのだった。
最初はまったく歩くことができない状態から数10㎝、数mとリハビリを重ね徐々に距離を伸ばした。そして目標である聖火リレーの会場、富士山吉田5合目、150mの距離をイメージし、近くの旭山公園にてトレーニングを重ね、見事に聖火リレーの役割をまっとうしたのである。
目標=夢こそが父のエネルギーの源だ。その後も地元のサッポロテイネスキー場からのスキー滑走、大雪山スキー滑走、富士山登頂、八甲田スキー滑走と目標を掲げては実現させてきた。かつての世界7大陸の登山とスキー滑走はもとより、3度のエベレスト登頂と同様に、父はつねに夢を叶えるために挑戦し続け、見事、達成している。そして、さらに新しい夢につなぐというループを実現していくのだ。
要介護ながらも野外活動を満喫する秘訣
さてここからが、現在の大阪・関西万博とのつながりだ。要介護となった父のチャレンジを支えるため、僕らは野外適応機材を導入した。野外適応機材は山岳用車椅子やアシスト付きスキーといった、障害を持っていても人の手を介することによって一緒に野外活動を楽しめる機材である。
大阪・関西万博ではヘルスケアパビリオンにて大阪で福祉、介護、高齢者施設などを運営している豊泉家グループと一緒にこれらの野外適応機材を使いながらどんな状態になってもアウトドアを楽しむ「アウトドアフィールド」───三浦雄一郎が障害をもっても果敢に挑み続けることをモデルにしたプログラムを紹介した。こうした取り組みは障害や加齢によって体力が低下していても一緒に野外活動を行なえる未来と希望を提示している。
じつは、この可能性を示したのは、三浦雄一郎が最初ではない。それは今から遡ること15年前、遠位型ミオパチー(末端から中心部にかけて徐々に筋力が失われる進行性の病気)を患っている中岡亜希さんとの出会いからである。次号はその出会いと障害の有無にかかわらず一緒にアウトドアを楽しめる未来の具体的な話をしたい。
いつなんどきも、次なる目標を定めチャレンジし続ける

サッポロテイネスキー場で、デュアルスキー(野外適応機材)を用いて滑る。右が父、雄一郎。

2024年、91歳で挑んだ「八甲田チャレンジ」。デュアルスキーを併用しながら自らの脚で滑走した。
(BE-PAL 2025年10月号より)