【前回までのお話】父・雄一郎さんの超ポジティブな思考と、障害の有無に拘らず、アウトドアスポーツに取り組む、中岡亜希さんとの関係を……。
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三浦豪太の朝メシ前 第13回 大阪万博 最終章 未来の挑戦

プロスキーヤー、冒険家 三浦豪太 (みうらごうた)
1969年神奈川県鎌倉市生まれ。祖父に三浦敬三、父に三浦雄一郎を持つ。父とともに最年少(11歳)でキリマンジャロを登頂。さまざまな海外遠征に同行し現在も続く。モーグルスキー選手として活躍し長野五輪13位、ワールドカップ5位入賞など日本モーグル界を牽引。医学博士の顔も持つ。
「諦めない」という選択肢があることを忘れず、トライし続ける
大阪万博にかかわるコラムも3回目である。先々月号は三浦雄一郎が1970年にエベレスト大滑降したことが、その年に行なわれた万博につながっていた話。前号はエベレスト滑走後も世界の山々を滑り降りた父が頸椎硬膜外血腫という病気を発症し、頸椎圧迫により下半身が麻痺するような後遺症を持ちながらも、目標を掲げてチャレンジを続け、富士山登山、八甲田山スキーや大雪山でのスキーに挑戦してきた話をした。
今号はこれからの未来について語っていきたい。
三浦雄一郎の次の目標はズバリ、フランスのバレブランシュを滑り降りることである。バレブランシュはモンブラン山系にある山岳エリアで、山岳リゾートのシャモニーからロープウェイを2本乗り継ぎ、富士山よりも高い標高3842mから滑り降りることができる。
2003年に、三浦敬三(三浦雄一郎の父)が99歳で滑り降りたその場所を、父は次の目標に掲げているのだ。おそらく祖父の姿に自分を重ねているに違いない。親子であってもライバル同士。僕自身もその背中を追い続けているのかもしれない。こうした挑戦を続けられるのも、野外適応機材というバックアップがあってこそ。
登山においてバックアップは極めて重要である。もしものときのロープ、食料、酸素……。基本的に野外活動では、危機的な状況になった際にそれを回避する手段がカギを握る。
父は富士山登山でもHIPPO(以下ヒッポ)という機材を使って挑戦した。これは水陸両用の車椅子で、海や川、そして山も登れる全天候型の車椅子だ。基本的に父は自分の足で登るが、疲れたらヒッポに乗る。あくまで「自分の足と意志」で登るのである。
デュアルスキーも同じこと。八甲田山や大雪山を滑る際、自分の足で滑るが、どうしても足がもたないときはデュアルスキーに切り替える。こうしたバックアップという選択肢があることによって、挑戦の可能性は大きく広がるのだ。
中岡亜希さんとの出会いで道が開けた
この可能性を切り拓いた源ともいえる人物がいる。中岡亜希さんだ。彼女は元フライトアテンダントだが、遠位型ミオパチーという手足の末端から筋力を失う進行性の病気を発症し、それをきっかけに航空業界を退職した。彼女と知り合うきっかけは〝障害を持ちながらも、富士山に挑戦したい〟という依頼を受けたことである。
彼女にどうして富士山に登る挑戦をしたいのか訊いた。その理由とは──
フライトアテンダントの職をやめてから彼女は京都で私塾の講師をしていたという。
ある日、生徒の子供から「亜希ちゃんと一緒に山頂で星が見たい」と提案を受けた。すでに車椅子生活であった彼女は自分の足で山に登れるはずがない。彼女の頭に浮かんだのは「無理だ」という言葉だった。
どうやって断わろうかと考えていると、その子は「行きたくないの?」と尋ねた。彼女はその質問に正直戸惑った。なにせ自身は障害を持っている身だ。登山の可否は「行けるか行けないか」で判断していた。しかし、「行きたいか行きたくないか」と訊かれたら、「そりゃ、行きたい」である。
彼女自身が気付かぬうちに、障害を持つことによって自分の気持ちを後回しにする癖がついていた。
だが、元来持っている挑戦意欲が戻ってきた。できない理由よりもできる方法を考える。彼女は計画を立てた。
長野・御岳近くの奥峰の山頂へ行くために、生徒たちと軽トラックに乗り、近くのスキー場のメンテナンス用の道……悪路に揺られながら向かった。夜明け前の空の下、シーツの上に生徒たちと寝転んだ。そこには満天に煌めく流れ星が見えた。
この感動と決断が、その後の人生に「諦めない」という選択技があるということを教えてくれたという。そして次なる目標に掲げたのは富士登山だった。そこで彼女は僕たち親子にアドバイスを求めてきたという流れだった。挑戦は2年にわたった。
チャレンジ1年目は二つ玉低気圧の影響で山頂どころか、進むのも困難だったが、試しに六合目まで車椅子を引っ張ったところ、岩場で破損。到底、山頂までは通常の車椅子だと無理だと判明した。
そこで彼女はドイツに飛ぶ。介護関連の展示会で見つけたのが三輪型の全天候型車椅子=ヒッポだった。購入すると同時に日本での販売権も取得し、帰国。翌年、ヒッポにロープを結び、15人が交代で引っ張りながら山頂を目指した。
僕は彼女を隊長に任命した。山頂への強い思い、周囲への気配り、そして笑顔で場を明るくする力。彼女は紛れもない登山隊長だった。
最終日。荒天の九合目から豪雨に打たれながらも「ひっぱれー」と声を張り、ついに山頂に到達。ロープにつながれた仲間との絆が実を結んだ瞬間だった。
その後、彼女は自らのやりたいことをすべてやると決めた。フランス・テシェ社と契約し、デュアルスキーやチェアスキー、スノーカートの輸入代理店となって挑戦を続けた。
現在、僕は、三浦雄一郎が障害を負ったことで、彼女が築いた道を追うように、野外適応機材を学び父の挑戦を支えている。
こうして得た技術や経験を広げたいと思い、大阪の豊泉家グループ会長・田中成和氏とともに「アウトドアフィールド」というプログラムを立ち上げた(前号でも少しお話しした)。
豊泉家グループの利用者である高齢者や障害者と一緒に、大阪近郊の自然を楽しむ企画である。今回の万博では、利用者が紅葉の箕面の滝を眺める姿、淡路島で海に浮かび笑顔になる写真、六甲山でデュアルスキーに挑戦し両手を挙げて喜ぶ姿が映し出された。
万博は未来の可能性を示す場である。次世代のテクノロジーやアイデアが詰まり、そこには夢と選択肢が広がっている。中岡亜希さんが「諦めない」という選択をしたこと、そのバトンが三浦雄一郎につながり、障害の有無にかかわらず一緒にアウトドアを楽しむという選択技が世の中に広がり始めている。
父は万博ヘルスケアパビリオンの講演でこう語った。
「どの人生にも冒険があり、達成し、喜びを分かち合う権利がある」
まさに未来に向かう万博にふさわしい、父からのメッセージであった。

豊泉家アウトドアフィールドの活動の一環で淡路島へ。補助器具をつけての海水浴。

進行性の希少難病と告知され、指先と首をわずかにしか動かすことのできない中岡亜希さんと。中岡さんとは2010年に富士山に登頂した。
(BE-PAL 2025年11月号より)







