本誌はみ出し情報

「歩き三昧」
私のジンセイを変えた歩き道33+27
編集スタッフ3人のジンセイを変えた歩き道
森山伸也>>
信濃川の土手
仲村玄徳>>
多摩川泥酔の道
倉本健介>>
港区三田?お台場
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<森山伸也のジンセイを変えた歩き道
■信濃川の土手

 歩くといえばもの心つく前から歩いていた。
 小学校の6年間毎日、約6km歩いていた。通学のためだ。新潟の田舎にある僕の実家からは約3km離れたところに小学校があった。片道ちょうど1時間かかった。さすがに小学校に入学して初めて登校した時は猛烈に疲れたのを覚えている。家に帰ってくるなり遊ぶ体力も気力も無く、フトンに包まって寝た。暗くなるまで遊んでいたこどもが学校から帰ってくるなりフトンにくるまって寝ているものだから、病気を患ったかと親に心配された記憶がある。しかし、そんな疲れは一週間もすると全く感じなくなっていた。歩くことに慣れたのだと思う。

 いま、思えばよくもまあ同じ道を6年間も歩いたなあと感心する。
 通学路は日本の大河、信濃川の土手沿いにあった。ときには田んぼの中を通り、ラブホテルの前や、広い神社の前を通ったり、なかなか小学生にとっては退屈しない、優れたコースだった。先生は信濃川には近づくなと僕らに目くじらを立てたが、お構いなしに土手に登った。土手に上ると一気に眺望がひらけ、季節を感じる風が頬をなでて爽快だった。遠くには新潟県を代表する粟ヶ岳や守門岳がそびえたち、山の向こうの世界を想像するのが好きだった。小さいときは山の向こうはすぐに海だと真面目に信じていたっけなあ。数100kmも南から水を運んできた信濃川が悠々と足元を流れていた。この水の一滴はどこから流れてきたのか想像するのもすきだった。流木が流れてくれば足元の小石を投げつけ、あてっこ競争をした。そんなこんなで、毎日6キロを歩くことはイヤではなかった。毎年、毎季節、毎日、色々な発見がそこには待ち構えていたので疲れなんか感じず、楽しく歩くことができた。

 いま思うと歩いているときはいろんなことを考えていたぁ。
 登校時は昼休みなにして遊ぼうかとか、下校時には1日の出来事を思い起こしながら歩いた。好きな女の子と席が隣になったときなどはニタニタいろいろ考えながら歩いたし、先生に叱られたときなどは頭の中を真っ白にしてリフレッシュしながら歩いた。いまでもそうだが歩くということは頭の中を自由にできることだと思う。物事を深く考えることだってできるし、すべてをリセットすることだってできる。あのころ自然と学んだ歩くことの良さっていうものを今でも実感できるし、実践している。僕の人生を変えたというよりは、僕の人生の基盤となっている道。それは小学校の通学路だ。

 さて、締め切りの原稿を書かなきゃ。とりあえず、近くを歩いて頭の中を整理してこよう。
《筆者プロフィール》
もりやま・しんや
ライター。新潟県三条市出身。27歳。
大学時代は探検部に少々在籍。
特技:サッカー(高校時代国体代表だった)
異名:燕三条の柳沢敦
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<仲村玄徳のジンセイを変えた歩き道
■多摩川泥酔の道

  3年前の夏の夜、ぼくは泥酔状態で調布駅のホームに立っていた。
 その日、旧友との久々の再会、吉祥寺の飲み屋でそれこそ浴びるほど酒をカッ食らった。終電に間に合わせて帰ったつもりが、自宅のある分倍河原までは電車がなかったのだ。
 酔った頭で思いついたのが、家のそばを流れる多摩川の存在。その川をたどっていけばいつかは帰宅できる。「俺って天才!」。 ぼくはとりあえず、駅から多摩川をめざした。

 なんとか多摩川に出て、川沿いを歩き始める。なんだ、順調、このまま行けばすぐにでも分倍河原到着だわな。なんて、カルく考えていた。
 異変に気付いたのは2時間ほど経ったころ。ふと、電柱についている住所表示に目がいった。「神奈川県川崎区」。はァ、どこ、ここ? そう、ぼくは逆方向へ、下流へ下流へと歩いていたのだ。そのときのぼくの落胆ぶりは誰にもわからないでしょうね……。
 ともかく、もと来た道を引き返し、上流へと歩き始めた。気分は最悪。気をまぎらわすために大声で歌を歌った。はたから見たら狂人以外の何者でもない。

 そうこうするうちに、空が白み始めた。そして、前方に不吉な建物、ゴミ処理場のシルエットが姿を現す。今まで舗装路だった道が細くなっていく。土の道から、ケモノ道、しまいには道がなくなり、ただの藪になってしまった。向こう岸には遊歩道らしき道が見える。だが、あっち側に渡るには何kmも下流に戻らなくてはならない。
 ぼくは意を決した。「このまま行けるとこまで行ったる!」。そして、何かにとり付かれたように藪をかきわけ始めた。両手がみるみるうちにスリ傷だらけになっていく。

「ッだらァ、だらァッ!」と、30分ほど藪と格闘していただろうか。ふとした拍子に舗装路に出ていた。そこは多摩川沿いの公園であるらしかった。東屋で逢引していたカップルがぼくの姿を見てあきらかにヒいている。そりゃあそうだ、ぼくは草木に落ちた夜露で全身ズブ濡れ、しかも、ジャングルを踏破したあとの目はそうとうイッていただろう。

 その公園から自宅まではすぐの距離だった。家に着いたぼくは、風呂にも入らず草まみれで眠りに落ちた。こうしてぼくの長い長い多摩川の旅は終わったのだ。
 翌朝、ぼくは心に誓った。「もう酒など飲まん!」と。だが、無論その誓いは果たされていない。だって果たす気がないんだもの。おいしいもんね、酒。
《筆者プロフィール》
なかむら・つねのり
ライター。東京生まれ沖縄育ち。25歳。
父親は有名なシーカヤックガイド。
夏フェスが大好き。
趣味:飲酒(強いわけではない)
異名:分倍河原のブコウスキー
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<倉本健介のジンセイを変えた歩き道
■港区三田?お台場

 高校1年生の夏休み、部活に行くため学校への道を行く。テニス部。別にテニスが好きだったわけではなく、大学にいったらテニスができる方がもてると聞いていたので始めた。合宿には面倒くさくて行かなかった。合宿後の初練習となるその日、校庭まで行くとみんなが和気あいあいとおしゃべりしていた。その情景を見て疎外感を感じ、「行くあてはないけど/ここにはいたくない/イライラしてくるぜ/あの街ときたら」とブランキージェットシティー(「小さな恋のメロディ」)っぽい気持ちで僕は歩き出した。

 本当に行くあてはなかったのでとりあえずレインボーブリッジを目指した。学校からすぐ近くに見えていたので近い気がしていたけれどけっこう遠かった。今は無料のようだが当時レインボーの歩道は、片道500円くらいしたはずだ。歩道は風が強く、ほこりがすごくてコンタクトの自分には地獄だった。まだ開発途中のお台場に行き、台場の砲門跡でお母さんに作ってもらったおにぎり(本当は部活で食べるはずだった)を食べた。特にすることもないので帰ろうとレインボーの入口まで来た。そこで金を持っていないことに気づいた。行きの通行料500円が僕の全財産だったのだ。打ちひしがれてお台場海浜公園の砂浜にたたずむ。

 盗んだバイクで走り出すことも出来ない弱冠15歳の少年は1時間悩んでようやく答えを出した。「ヒッチハイクだ!」 折しも猿岩石が「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」をやっていたので不審者扱いはされまい。プールシーズンまっさかりの船の科学館から乗せてもらって、首都高湾岸線「大井南」出口でおろしてもらえばいい。
 そうして炎天下、船の科学館駐車場でヒッチハイク交渉をする。全然乗せてくれないじゃないか。もう夕方も近い。あきらめ調子で声をかけた自販機補充のお兄さん。「手伝ってくれたら乗せてあげるよ」 重い缶ジュースのケースもなんのその。汗もなにも関係なく働く。手伝いの後もらったジュースにはのどが震えた。

 お兄さんに車に乗せてもらい大井南まで送ってもらった。大井南出口から家に向かって歩く道すがら自分がちょっと強くなった気がした。歩きながら歌った曲はやはりブランキーの「15歳」だった。
《筆者プロフィール》
ライター。東京都品川区出身。25歳。
ボーイスカウトでは最高幹部の位を持つ。
チョコレートが大好物。
特技:いろんなものを縛ること。
異名:品川の村上春樹
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