アウトドアエッセイ

新・アパラチアン・トレイルの旅 加藤則芳

BE-PAL本誌新年号でぼくの短期連載、2006年の「ハイシエラの夏」は終わった。ドラマの連続だったこの年のジョン・ミューア・トレイル歩きの最終回は、仲間のひとり、ドラが肺水腫という重度の高山病にかかり、国立公園局のヘリで病院に運ばれてしまうという、まさにドラまちっくエンディングだった。 そして、最終回の追記として2007年に再び起きたドラのヘリ騒動を書いた。同じ人物が同じシエラネバダで同じ症状になってしまい、税金も払っていない日本人が連邦予算で運営している国立公園のヘリで2度も運ばれてしまった。ぼくたちは、ドネーションをし、親身になって救護してくれたレンジャーをはじめスタッフに感謝の気持ちを表した。 そして、秋になり、更なるドラマを知ることになった。BE-PAL本誌で書ききれなかったこのトピックを、ここでお披露目しよう。

ランディー・モーゲンソン

 ドラがお世話になったルコンテ・レンジャーステーションは、ぼくにとって、運命的とも言える思い出の場所でもある。ぼくがはじめて会い、親しく話したウイルダネスのレンジャーは、ルコンテに到着した3日前に通過したマクルーアー・レンジャーステーションにいたランディー・モーゲンソンだった。1993年のことだ。その2年後に全行程をスルーハイクしたとき、彼はルコンテのステーションに移っていた。そこで彼と再会を喜んだ。93年に会ったとき、「来年また来るからね」と言って別れたことを彼は覚えてくれていた。
「去年、来ると言っていたのに来なかったから心配していたよ」と、頬髯、顎鬚に覆われた顔をほころばせながら握手をしてくれた。その目の優しさが、いまでも印象に残っている。この日キャンプを予定していたディアーメドウには、あまり大きくはないがクマがいるから気をつけるように、と忠告をしてくれた。15分ほど話し、さまざまな情報をもらい、ハグして別れた。「グッドラック!」と大きな声で叫ぶ彼の声に振り向き、ぼくはにこやかに大きく手を振った。それ以来、10年以上彼に会うことはなかった。彼の情報は、その後会ったどのレンジャーから聞くこともなかった。

  ところが今年の9月、拙著『ジョン・ミューア・トレイルを行く』を読んだ読者から手紙が届き、驚きの事実を知った。S.Hさんという京都に住む女性が、もう数十年前のことになるのだが、彼女が17歳のとき、偶然京都でランディー・モーゲンソンに会い、彼の帰国後、文通をしていたのだという。やがて、文通はとだえていたが、彼がヨセミテのレンジャーだったことは、その付き合いの中から知っていた。

  そんななかで、ぼくの本を読み、まさにその人物の名前が出てきたことに驚いた彼女は、運命を感じた。そして、娘さんにネットで調べてもらったら、なんと、ランディーは、1996年にシエラネバダで遭難したという事実を知ったのだという。その報告の手紙だった。ぼくも驚いた。その後何人ものレンジャーに会って話をしていたのに、その話題がまったくでてこなかったことが不思議でもあった。1996年ということは、ぼくが最後にルコンテで会った翌年に彼は遭難したということに。その事実にぼくも大きなショックを受け、ネットで調べてみた。すると、マウント・ホイットニーの近くの山の名を、彼の業績をたたえてMt. Morgenson としたという情報を得た。

  人の名前を山名にするのは、アメリカの伝統なのだ。シエラネバダだけでも、そこにさまざまな業績を残した人々の名前を冠した山がたくさんある。
ホイットニーもそうだし、ジョン・ミューアーや、アンセル・アダムスなどの名がついた山もある。じつは、山ばかりではなく、メドウや湖の名なども、人の名が多い。レンジャーステーションがある、ルコンテもマクルーアも、そして今年(2007年)にやはりヘリでお世話になったティンダルも地質学者や自然倫理学者の名前なのだ。
  今年の夏もジョン・ミューア・トレイルを歩き、マウント・ホイットニーにも登っている。そこから見える山なのだというのだが、ぼくが持っている古い地図には、まだその名がない。いずれ、Mt. Morgensonに登って、彼の供養をしたいと思っている。


イーグル・フット

先月、アメリカからあるメールが届いた。一昨年(2005)にアパラチアン・トレイルを歩いたときに知り合ったトレイルネーム“Eagle Foot”というフロリダからきていた青年が、その後、自然関係の仕事につくための勉強を続け、この夏、セコイア国立公園のシーズナル・レンジャーになったという知らせだった。ジャイアントセコイアの森でのインタープリターや、ヘリコプターでの調査やレスキューの仕事についていたのだという。
ということは、ぼくたちがお世話になったとき、まさにその部門で働いていたということになる。
さらに、先日、BE-PALのぼくの連載を読んだ読者から、BE-PAL経由でぼくのところにメールが届いた。その方は、カンザス大学で修士号をとられた方で、彼もまた、この一年間、ぼくたちが歩いていたセコイア国立公園とキングスキャニオン国立公園で大学での専門を生かした仕事をされていたということになる。ぼくは彼の研究にかなり興味をもったのだが、とりわけキャリング・キャパシティーという調査研究に関わっていたという点については、より深く彼の話を聞きたくなった。

キャリング・キャパシティー調査というのは、その自然地域にどれだけの収容能力があるかを、多面的な角度から研究するもので、アメリカの国立公園やウイルダネスエリアで、積極的に取り入れられている。ジョン・ミューア・トレイルでもそうなのだが、その調査結果を踏まえて、トレイルヘッドごとに一日の入域人数を規制しているのだ。日本の富士山にもあたる、アメリカ本土最高峰のマウント・ホイットニーなどは、オーバーナイトで入る場合、一日60名、日帰りは100名までに制限されている(2007年)。毎年、前年の調査結果をふまえて、入域人数を検討する仕組みができている。このような調査研究がほとんど行なわれていない日本の、嫌悪感すら覚えるほどの行列ができる富士山とは大違いだ。
日本でもこうした研究は、必要なはずだ。このシステムをオーバーユースになってもなお何の対策もしない日本にも取り入れるべきだと、ぼくはいつも考えている。
ぼくは、ジョン・ミューアの研究からはじまって、アメリカの自然保護システムをさまざまな角度から取材や研究をしてきたが、それはバックパッカーとして歩く、つまり利用する人間の立場からでしかなく、内部で科学的な研究をしてきたわけではないので、彼の存在には、とても興味をもった。
また、彼によると、環境省の技官の方が派遣留学のような形で、専門家の立場からアメリカの国立公園と魚類野生生物局でのヴォランティア研修を2年にわたってされ、今は環境省に復帰されているという。
とても頼もしい情報で、日本の国立公園に危機感を抱いているぼくは、その方にも、ぜひ、お会いし、さまざま意見を交換してみたいものだと思っている。


プロフィール
加藤則芳

かとう・のりよし。作家・バックパッカー。出版社勤務を経て、1980年、八ヶ岳へ移住。森の生活を楽しみながら、世界各地を歩き、国内外の自然や自然保護をテーマにした執筆活動を続ける。現在、横浜市在住。著書に、「ジョン・ミューア・トレイルを行く バックパッキング340キロ」「森の聖者」「森の暮らし 森からの旅」など。

・加藤則芳オフィシャルサイト 〜バックパッカー歳時記〜
http://www.sotoaso.com/blog/kato/


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